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観潮楼歌会での啄木の歌

先の記事の「観潮楼歌会」でググっていたら観潮朗詠会で啄木が作った歌についての論考が目に付いたので紹介します。

小樽啄木会だより No.5(2003年5月10日発行) 啄木の一首をめぐって 鈴木 勇蔵
 
 

 大木の幹に耳あて
  小半日
  堅き皮をばむしりてありき (『一握の砂』)
 
 右に抽いた啄木の一首には原型と目される
 
  大木の幹に耳あて小半時何も思はでありしをかしさ
 
がある。この作品は明治四十二年一月九日、森鴎外の観潮楼歌会の折に詠出された十九首中の一首で、一月九日の啄木の「歌稿ノート」にはいっている。この時の歌会では、啄木が十九点をとってトップになり、伊藤左千夫が十八点で次点に、与謝野寛、吉井勇らがそれぞれ十四点をとったことなどが「啄木日記」にも見え、また斎藤茂吉がはじめてこの歌会に参加したことも記されていて面白い。
 啄木が掲上の一首を『一握の砂』に入収するまでには都合数回にわたって当時の文芸誌、新聞などに発表されていたことがわかる。
 いま日付を追ってそれを挙げてみると、明治四十二年二月一日「スバル」二月号に<南枝集>十一首のなかに、同年二月七日の「国民新聞」に<新短歌詠草>として、同年五月一日「スバル」五月号に<莫復問>六十九首のなかに、また七月一日「創作」七月号に<自選歌>二十三首中に、といったふうである。
 こうしてみると、啄木が明治四十二年一月九日の「歌稿ノート」十九首のなかから上掲の“大木の幹に…”の歌とともに
 
  いつしかに
  情をいつはることしりぬ
  髭を立てしもその頃なりけむ
 
のみを『一握の砂』に自選したことを思えば、これら二首の作品が啄木にとって思い入れのあったものなのであろう。
 
 しかし、“大木の幹に…”歌は第三句が「小半時」で、後句は「何も思はでありしをかしさ」であったのである。これについて啄木研究家の岩城之徳氏は『一握の砂』に収めた上掲の首は<やや演技的であるように思われる>として、むしろ原型の歌に心が引かれると述べている。
 
 啄木がこの一首の後句を推敲し直したのは明治四十二年一月十四日で、「歌稿ノート」には、東京駒込の正行寺で行われた故玉野花子の一周忌の追悼歌会で詠んだ十二首の連作の時からで
 
  大木の幹に耳あて小半時かたき皮をばむしりてありき
 
と変えたものである。ところで、前述の一月九日の観潮楼歌会での十九首は何れも心象的な詠い口の表現で、当時の啄木の生活面、精神面での苛立ち、不安の要素が色濃くにじみでた一連となっている。その中から三首ほど抽いてみると
 
  まちをすり真暗き路になげてみぬ消えたるあとのさらにおそろし
 
  あの時に君もし我に物言はゞ或は君を殺したるべし
 
  おそろしきものを迎ふる束の間の心がまへに月半ばへぬ
 
のごとくである。
 
 “大木の幹”の歌に立ち返ってもう少し分析してみると、正行寺での一月十四日以降の作品では後句はいずれも「堅き皮をば」乃至は「かたき皮をば」など表記上のニュアンスを考慮したもので、第五句を「むしりてありき」と改造したものである。
 また同じく第三句は、前述明治四十二年五月一日の「スバル」五月号に<莫復問>として載った時の「小半 」の表現を除けば、他は「小半時」となっており、『一握の砂』入収に際して「小半日」と推敲したものと考えられる。尚、岩城氏は、この五月一日の「スバル」誌での作品を初出と見なしているが、初出は二月一日の「スバル」二月号に<南枝集>として<いつしかに情をいつはることしりぬ髯を立てしもその頃なりき>とともに発表した時と思われる。
 
 以上が『一握の砂』に啄木が推敲の結果自選した
 
  大木の幹に耳あて小半日堅き皮をばむしりてありき
 
に至る一首の成立過程を追ってみたのであるが、啄木が当初の「小半時」をついには「小半日」と変え、後句の「何も思はでありしをかしさ」を「堅き皮をばむしりてありき」とした意想外の表現に改めた心境には、彼の生活難からくる逼塞(ひっそく)の思いがつよく反映されていたものと考えざるを得ない。しかも、これ以後、明治四十三年十二月一日に『一握の砂』の刊行を見るまでには、啄木自身の文学的煩悶、妻節子と母との確執、節子の実家と啄木と疎隔、明治四十三年六月五日のいわゆる幸徳秋水の事件などを経て、社会主義思想へののめり込み、十月二十七日の長男真一の死去による失意、また彼自身のみならず当時の啄木一家を蝕んでいた結核やらの暗澹たる情況が複雑にからみ合って行く過程を窺うにつけても、啄木が矮小(わいしょう)な己の心を鼓舞してくれるであろう象徴としての大木の太幹に耳を当てて、小半日も堅き皮をむしっているなどといった姿に、啄木の、自己自身との抗い、そこから何かを引き出そうとする焦りや苛立ちがこの歌の比喩的な情調に託されており、また、その空しさの行為に自嘲がこめられているのではないかと考える。従ってわたしは、この一首を寓喩と見るのである。
 真実の溢れた数々の名歌とともに、こうした大仰な特異な表現も啄木短歌には多いのであって、この一首などはナンセンスなだけに、何となく不思議な哀しみと滑稽な印象を与えるのではなかろうか。

一つの短歌に多くの歴史がありその大状況・小情況がある。

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