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山口高氏の山頭火の大分での足跡研究成果をご本人の了解を得て掲載します。

山頭火は日本列島を北は岩手県平泉、南は鹿児島県枕崎まで約五万キロを放浪し、この間毎日俳句を詠み続け、その生涯に一万とも二万ともいわれる俳句を詠んだといわれる。
 
  大分県にも前後5回ほど足を運び、数多くの俳句を詠んでいる。

  例えば来県の入口から出口までの記録が明確に残されている行乞記(春陽堂)によれば、昭和5年11月4日南海部郡重岡から三重・竹田・湯の原・天神山・湯の平・湯布院・玖珠・耶馬溪・中津を経て、11月17日福岡県に入るまでの13日間に127の俳句を詠んでいる。
 
  1回の来県でこれほどであるから、5回の来県では相当多数の作句であると推定されるが、その中で大分の地名が詠み込まれている句は極めて少ない。私の知る限りでは次の通りである。
  
 “ここちようねる今宵は由布岳の下”
 
 昭和5年11月13日、玖珠町丸屋旅館に宿泊した際の日記にあるが、前日宿泊した由布院町筑後屋旅館のことである。
 
  筑後屋は土地の古老から聞いた話によると、経営者は筑後方面から由布院に移住に来た人で、主人は客馬車事業を営み奥さんが木賃宿を営業していたという。

  その後同じ町内(現在の岩尾病院の附近といわれるが今は無い)に二代目筑後屋を造ったといわれる。初代の筑後屋は町内湯坪に残っているが、二階建てから平屋に改造されている。
 
  日記の中に「由布岳はいい山だ。おごそかさとしたしさを持っている。今日は幸いにして落日をまともに浴びた。由布岳を観たことはほんとうにうれしい」さらに「この宿は気安くて親切で安くてよろしい。特にぶくぶく湧き出る内湯は勿体無いほどよろしかった。」とも書いている。

  温泉好きの山頭火は内湯で心ゆくまで湯を浴び、同宿の三人等と一本呑むと書いてあるからご機嫌で就寝したのであろう。宿の裏手には月光を浴びた由布岳が聳えている。

 
 “酔うて急いで山国川を渡る”
 
  昭和5年11月17日、福岡県宇ノ島太田旅館に宿泊した際の日記にある。
山頭火は11月15・16日と中津市船頭町の「層雲」同人松垣敬(俳号 昧々)方に宿泊し、最大の待遇を受けていることは、彼が日記の頭に書いてある旅館のランクを松垣方は「最上々々」としてあることをみても山頭火の喜びがわかる。
 
中津は九州最大の「層雲」組織があり、友人が多かった。昧々さん、宇平さん、二丘居さん、みんな良い人ばかりだった。

  昼酒、昼風呂、夜は筑紫亭での句会、終わってフグチリでさんざん飲んで饒舌った。なんと楽しかったことか。

  昧々さん方へ帰れば枕元に水さしと酒が一緒に置いてある。本当に勿体ないが見た以上飲まずにはいられない。

  ほろほろ酔うてお暇をする。これ以上いれば涙があふれ出るだけだ、後も見ずに山国橋を渡り、宇ノ島へと急いだ。
 
  ありがとう昧々さん、宇平さん、二丘居さん・・・また逢える日がありますように。


  “日が落ちかかるその山は祖母山”

  昭和5年11月4日、三重町梅木屋旅館に宿泊した際の日記にある。
 
  山頭火はこの日、延岡より汽車で南海部郡の重岡駅に下車し、そこから小野市三国峠を越えて三重町に来た。

  日記の中に紅葉はまだ早いけれど、どこからともなく聞こえてくる水の音、小鳥の声、木の葉のそよぎ、路傍の雑草、無縁墓、吹く風も快かった。とあるので、山頭火好みの風影の中をうきうき気分で歩いていったことだろう。
 
  峠を登りきって少し下ったところに、道に沿って左側に木立が一部とぎれ、展望が開けたところがあり、遠く九州山脈に続き阿蘇方面が望めるところがある。
 
  かつて私も「行乞記」の11月4日を読んで、その場所を探したことがある。11月4日、三国峠の頂上附近から少し下ったところに、そこと思われる場所があった。

  前方遥か彼方に祖母山があり、その先に阿蘇が望まれた。丁度落日が迫っており、夕焼けはいよいよ色濃く、そのうち夕陽は祖母山の裏に隠れるように落ちていった。その神秘的な光景はいまだ脳裏から離れない。時刻は午後5時15分だったと記憶している。
 
  山頭火は「西日を浴びた姿はなんともいえない崇美だった」と書いてあるが、山頭火はこの光景を肴に一杯やりたかったらしい。急いで山を下り、茶屋に飛び込んでさっそく漬物で一杯やったという。

  「さらに今日の汽車賃50銭は仕方がなかったがみのりは贅沢だった。」と書いているが、汽車に乗ったことで祖母山に沈む夕陽を眺められたことが出来た。これが最大の贅沢だったといいたかったのであろう。

“酔いざめの水をさがすや竹田の宿で”

  昭和5年11月8日、湯の原(長湯)米屋旅館に宿泊した際の日記にある。
 
  11月7日の日記に「町の酒屋で二杯ひっかけたので、ほろほろ酔うた。とくに乱酔、泥酔になっては困る。もっともそうなるだけ酒はうまいのだが」と書いてある。

  この晩も酒屋だけの二杯だけではなかったのではないか。ふと夜中に目が醒めた。枕元附近に酔いざめの水と思って薬缶(やかん)を置いてあった筈だとさがすが、木賃宿の電灯は暗い。やっとさがしあて、ぐいぐい飲んだ。正に甘露の水だ。この味は下戸にはわかるまい。そこで一句となったのであろう。
 
  数多くある山頭火の俳句の中から大分県の地名が出てくる俳句は四句しかなかったが、石仏に関する句が三句あった。石仏(磨崖仏)は大分県の宝である。よってその三句を紹介しておく。 

 
  “さみだるる大きな仏さま”

  山頭火は大正15年6月17日、解くすべもない惑いを背負うて旅に出た。この時熊本から高千穂、延岡を経て大分県に入り、ここから先の経路は不明ながらおおむね日豊線沿いに佐伯、臼杵、大分、別府から北上し、福岡県に向かったものと思われる。この行乞の途中、大正15年夏、臼杵の石仏を拝観し詠んだ句であるといわれる。

 “しぐるるや石を刻んで仏となす”
 
 “石仏しぐれ仏を撫でる”
 
  昭和4年11月2日、熊本県阿蘇郡内の牧温泉 塘下旅館に「層雲」主催者・萩原井泉水を迎え、同人各位が集い、層雲の九州大会があった後、山頭火は一人九州観音巡拝の旅に向かった。

  英彦山、中津、宇佐、国東、別府、大分と巡拝し、次は順番として第11番有智山蓮城寺へ行くところをコースを変更し、大正15年夏訪れた臼杵の石仏拝観のため臼杵へと向かった。

  このとき師・萩原井泉水に出した手紙に「濡れ仏となり石仏を拝みました。なんと親しみ深い仏様、抱きつきたくなります。」と書いてあり、さらに11月16日から11月23日までの8日間滞在していることからして、いかに臼杵の石仏に心を打たれ、臼杵を離れ辛かったかが窺れる。


    
(文責;山口高)

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