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山頭火は何度大分県にきたのか

山口高氏の山頭火の大分での足跡研究成果をご本人の了解を得て掲載します。

山頭火は大正14年2月出家し、「耕畝」の僧名を受け、大正14年3月5日熊本県鹿本郡植木町、味取観音堂の堂守となったが、山林独住に耐えかね、大正15年4月10日行乞流転の旅に出た。

  昭和15年6月3日ようやく永年の漂泊を終え、松山一草庵に帰住したが、この間一時期「其中庵」や「風来居」などに留まったことがあったものの、そのほとんどは日本列島各地を行乞放浪し、その総距離は5万キロメートルにおよんだといわれている。
 
  この様な状況のなかで、大分県にはどのようなルートを辿って何度きたのであろうか?

  山頭火の日記は、今日かなり残されているものの、昭和5年9月9日以前のものは、全部焼失されているため詳細については不明である。

  したがって旅先より友人知人に宛てた手紙や、先達研究者の文献等から、調べてみた結果、大正15年4月10日、本格的な行乞に出る前の、大正14年10月味取観音堂を出発し、佐伯市大手前の工藤好美方で行われた、工藤の妹千代さんの葬儀に参列している。
 
  山頭火の一家は破産により熊本市に流れてきたが、この頃熊本第五高等学校の生徒であった工藤と知り合い交友を続けていたが、やがて工藤は早稲田大学に入学入学のため上京し、卒業後は千葉県佐倉中学校の英語教師となっていた。後年山頭火が上京した際ちょいちょい訪れ、いろいろと歓待を受け、さらに妹の千代さんから就職の世話を受けたといわれる。
 
  このようなことから義理堅い山頭火は、とり急いで味取から10月4日の葬儀に間に合うよう、佐伯市大手前の工藤好美方に到着している。

  この際の行程は明確な資料が無いが、味取より肥後大津までは徒歩、宮地までは軽便鉄道を使い、竹田までは徒歩で、竹田より三重町までは汽車で、三重町から三国峠を越え、因尾川沿いの本庄渓谷を下って佐伯市に到着。帰途は長くあけていた味取観音に早く帰るため、日豊線下り鹿児島本線上りを利用したものと推定されている。
 
  大正15年6月17日、山頭火は熊本県報恩寺をあとに一鉢一笠の旅に出た。
矢部から馬見原を経て高千穂へと分け入り、6月22日には五ケ所川に沿い日向街道を延岡に出た。

  この途中では山頭火の代表句といわれる“分け入っても分け入っても青い山”の句が生まれている。
 
  延岡からはおおむね日豊線に沿って北上し、臼杵に立ち寄り深田の石仏を拝観し“さみだるる大きな仏さま”の句を残している。
臼杵から大分、別府、中津を経て福岡県に入ったものと推定され、8月17日には柳川の木村緑平氏を訪ねている。その後の行乞経路は不詳である。
 
  昭和4年11月3日、阿蘇郡内牧温泉 塘下(とうした)旅館に「層雲」の師萩原井泉水を迎え、同人等と阿蘇に遊んだ。

  11月4日宮地駅で萩原井泉水と別れ、翌11月5日一人となって九州四国霊場巡礼の旅に向かった。

  日田、英彦山、中津、宇佐、国東、別府、大分と巡り、順打ちでは11番三重町蓮城寺に行くべきところを突然コースを変更し、臼杵に向かい12月6日しぐれの中を自身が濡れ仏となって深田の里についた。

  この臼杵に8日間滞在しているが、よほど仏の里が気に入ったのであろう。この間“しぐるるや石を刻んで仏となす” “石仏しぐれ仏を撫でる”の句を残し、以前訪れたことのある佐伯へと向かい12月23日到着した。

  ここに3日間の滞在の後、三国峠を越え三重町に、さらに12月26日竹田町に到着、その後高森・立野を経て12月31日熊本へ帰りついた。

   山頭火は「愚かな旅人として一生流転せずにはいられない」として、昭和5年9月9日熊本を出発した。

  これよりさき “焼き捨てて日記の灰のこれだけか” の句を残し、これまで書きためていた日記や手記などいっさいを焼き捨て八代に向かい、それより人吉、都城、宮崎、佐土原を経て延岡へ。

  ここから汽車で大分県南海部郡重岡駅で降り、三国峠を越え三重町(11月4日)・竹田町(11月6日)・湯の原(11月8日)・天神山(11月9日)・湯の平(11月10日)・由布院(11月12日)と歩を進め、湯布院駅から豊後中村駅まで汽車で、ここから再び徒歩で玖珠町と(11月13日)と進み耶馬溪を下り、耶馬溪平田駅より軽便耶馬溪鉄道で中津駅下車し、直ちに中津市船頭町「層雲」同人松垣昧々方を訪れ宿泊(11月15日)、11月16日は筑紫亭でのみつぐり会出席し、大いに飲んで大いにしゃべり“河豚食べつして別れた”の句を残し、11月17日福岡県宇ノ島へと向かった。

  その後門司、糸田、福岡、久留米を巡り昭和5年12月15日熊本へ帰着した。
 

  以上が今ある山頭火に関する文献・資料により抽出した来県の状況であるが、昭和5年9月以降の日記・手記などすべて焼却されていることから、正確なことは知るすべもない。

  「層雲」同人であった、中津の木村宇平氏の子供である木村又郎氏(木村眼科医院長)は、中学校の頃山頭火にあっており、四回来津したと「山頭火研究」の著者植山正胤氏に語っている。

このことは大正15年6月、熊本市を出発し宮崎から大分県臼杵を訪れ石仏拝観のあと、日豊線沿いに北上した際、中津に立ち寄ったと推定される資料となる。
 

  次に昭和4年11月九州四国霊場巡礼の際、中津に立ち寄ったことは記録によって明らかである。

  さらに昭和5年9月9日熊本を出発し、八代・宮崎・延岡から大分県南海部郡重岡に入り、三重・竹田・湯の原・天神山・湯の平・由布院・玖珠・耶馬溪を経て中津に入ったことは行乞記によって明確である。
 

  続いて昭和13年3月福岡県門司より八幡を経て中津に入り、松垣昧々氏方を訪れている。(松垣昧々氏の日記に記載があるという)

  その後宇佐・別府・日田を巡り、福岡県二日市市に向かったことは資料によって判明している。なおこの時水分峠を越える時の句で“春もすっかり鶯うまくなっている”がある。
 
  以上のことから中津に四回来たという木村又郎氏の記憶は正しいと思われる。
 
  この外に大正14年10月、佐伯の工藤好美氏方を訪れていることは、植山正胤氏の著作「山頭火研究」で明確である。したがって現存する諸資料で前後五回の来県は確実と思われる。


(文責;山口高)

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