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            正岡子規

 柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺

 

   明治二十八年 十一月八日 

            『海南新聞』

 

 

             夏目漱石

鐘つけば銀杏ちるなり建長寺

 

  明治二十八年 九月六日

            『海南新聞』

 

どちらが俳句として面白いでしょうか?

 

漱石の句はありきたりだが子規の句の方は意外性がある

 

子規は漱石の俳句の先生である。

 

日本人には俳句的人間と短歌的人間の二つのタイプがあるとはこの2つの俳句の関係の発見者とNHKが紹介していた俳人の坪内捻典氏の説。

 

俳句的人間は客観的で冷静、短歌的人間は主観的、自己陶酔的、まじめで自己をもちゃかす道化的精神の持ち主。

 

何でも理詰めで考えていく人間は、俳句的

感覚を重んじる人間は短歌的

 

前に読んだので忘れてしまったがこんな感じではなかったか・・・

 

 ・・やはり自分は短歌的かな・・・・

 


 卯の花の散るまで鳴くかほととぎす


と病気になって失意の子規が送ったら


漱石が初めて作った俳句でこう答えた

 

 帰ろうと鳴かずに笑えほととぎす


それで子規は故郷に帰るのをやめて文壇で活躍するようになったそうです。

今日の番組はこれでした。

 

友よ、泣かずに笑え
~正岡子規 闘病を支えた絆~

http://www.nhk.or.jp/historia/backnumber/26.html

エピソード1 「子規」の名が秘めた夏目漱石との友情

 
 

 

「子規」という名を名乗り始める(再現)

 

俳号「子規」とは、当時の難治の病「結核」を意味している。なぜ子規はそんな不吉な名前を名のり、その後も堂々と使い続けたのだろうか。その背景には、親友・夏目漱石との友情があった。生涯にわたる友人たちとのきずなの原点、子規の青春時代を描く。

Bn26_1

 

エピソード2 子規の秘められた思い 名句誕生の舞台裏

子規の代表句「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」。実はこの句には大きな謎が隠されている。子規はいったいどんな状況下でこの句を生み出したのだろうか。当時の気象記録や子規の随筆などの資料から、名句誕生の舞台裏を探る。そこには、知られざる美少女の面影があった。

奈良の宿で柿をむいてくれた女中(再現)

Bn26_2

 

エピソード3 最後の日々 闘病を支えた絆

 
 

 

子規庵 子規の病室から見た庭の風景

 

年の7年間に及ぶ壮絶な闘病生活。子規に勇気を与え続けたのは、支える仲間たちが仕掛ける様々な「イベント」だった。子規に送られた珍しいプレゼントの数 々、病床で始めた新たな遊び、そして子規を励ますために開かれたパーティー。友情に彩られながら創作を続けた、子規最後の日々を見つめる。

 

Bn26_3

根岸の子規記念館

 

  

短歌と俳句の違いについては前にまとめたことがあります。

 

2007330 ()

短歌と俳句の違いについて              

http://ootsuru.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_973c.html

 

―――

今日のNHKの放送の内容を書いているサイトがあったので紹介します。

タカサタガマヤ

 

http://www3.atword.jp/asahi2/?p=134

 

 教材  柿くえば 鐘が鳴るなり 法隆寺 
 
明治28118日の「海南新聞」に載った、正岡子規の句である。
 
まず、句の解釈にかかわる語句の意味を調べる。
    ■
「くえば」の「ば」 (該当する意味)
      
岩波 広辞苑第五版文語で已然形に接続する。確定条件を示す。
               
◎①ある事の起った場合を示す。したら。したところ。
                
前の事の生じた結果、後の事の生ずる意味を表す。順接条件で、理由・原因を示す。ので。から。
                
その条件の下にいつもある事柄の起ることを示す。口語では仮定形に接続する。すると。
      
学研『詳解俳句古語辞典』已然形に付く場合。
                
(順接のかくて条件、原因・理由)ので。から。
               
◎②(順接の確定条件、偶然の条件)と。たところ。
                
(順接の恒常条件)と決まって。ときはいつも。
                
(二つの事柄を並列・対照)と、一方では。
    ■
「鳴るなり」の「なり」
      
三省堂『新明解国語辞典 第五版』その判断が他人の話に基づいたり、声や音から推定したものであるということを表わす。
      
学研『詳解俳句古語辞典』(音・声として聞こえることを表す)の音(声)がする。
 
次に、この句ができた経緯についてのエピソードを調べる。
(1)この句は、漱石からの借金をもとにして作られた。
      
松山の夏目漱石の家に50日ほど居候をしていた子規は、漱石から借金をして東京へ帰った。その途中、奈良に寄り道したときに作ったのがこの句である。
      
漱石は、談話「正岡子規」(明治41年)で次のように回想している。
            
何でも十円かそこら持って行ったと覚えている。それから帰りに奈良へ寄って其処から手紙をよこして、恩借の金子は当地に於て正に遣い果し候とか何とか書いていた。恐らく一晩で遣ってしまったものであろう。
      
また、夏目鏡子述『漱石の思い出』には、次のようにある。
            
夏目が月給をとってくると、時々小遣いをやろうなどといって子規さんに金をやっていたものだそうです。そこでさんざん食い散らかして、いざ東京へかえると いう時になって、旅費がないからくれろというので渡しますと、東京へかえる前に奈良見物をしてお費いになったということです。
(2)柿を食いながら聞いた鐘の音は、東大寺のものだった。
      
奈良の宿で下女からむいてもらった柿を食べたことを子規は随想「くだもの」で、
            
やがて柿はむけた。余は其を食ふてゐると彼は更に他の柿をむいてゐる。柿も旨い、場所もいい。余はうつとりとしてゐるとボーンという釣鐘の音が一つ聞え た。彼女は、オヤ初夜が鳴るといふて尚柿をむきつゞけてゐる。余には此初夜といふものが非常に珍らしく面白かったのである。あれはどこの鐘かと聞くと、東 大寺の大釣鐘が初夜を打つのであるといふ。東大寺が此頭の上にあるかと尋ねると、すぐ其処ですといふ。余が不思議さうにしてゐたので、女は室の外の板間に 出て、其処の中障子を明けて見せた。成程東大寺は自分の頭の上に当ってゐる位である。
      
と書いている。しかしながら、「法隆寺」を「東大寺」としたらどうだろう。大仏のイメージが強すぎて、柿と鐘の音の意外な取り合わせが色あせてしまうだろう。
(3)この句は、漱石の作品を土台にして生まれたものだった。
            
 鐘つけば 銀杏ちるなり 建長寺 
      
これは、明治2896日の「海南新聞」に子規の選抜を経て載った漱石の句である。この漱石の句の「鐘」を「柿」に、「銀杏」を「鐘」に、「建長寺」を 「法隆寺」に置きかえただけの作品が、「柿くえば~」の句のように見える。子規が漱石の俳句の指導をしていたことから、これは、漱石の句への代案を示した ものと解釈される。
      
正岡子規や夏目漱石の研究者、坪内稔典氏は、著書の中で次のように書いている。
       
「奈良で好物の柿を食べた子規は、奈良と柿を取り合わせた詩歌が過去にないことに気づいた。それであの句を作ったのだが、そのとき、子規の頭のどこかに 二ヶ月前に見た漱石の俳句があったのだろう。つまり、無意識のうちに漱石の句が媒介になり、子規の句が生まれたと思われる。もちろん、柿と法隆寺の取り合 わせに、柿好きだった子規の面目が発揮されており、漱石の句を単に換骨奪胎したものではない。(『柿喰ふ子規の俳句作法』106107ページ)」
(4)河東碧梧桐がこの句の代案を出していた。
      
子規の「病牀六尺」には次のようにある。
       
「この句を表して『柿喰ふて居れば鐘鳴る法隆寺』とは何故いはれなかつたであらうと書いてある。これは尤もな説である。しかしかうなるとやや句法が弱くなるかと思ふ。」
      
「句法は言語の接続をいふ。」(『俳人蕪村』正岡子規)とあるから、『柿喰ふて居れば鐘鳴る法隆寺』は、「柿食ふて居れば」と「鐘鳴る」のつながりが「柿食えば」と「鐘がなりけり」のつながりに比べて弱いと言っているのだろうと考えられる。
(5)夏目漱石は、自分の作品の中で子規の柿好きを語っている。
      
『三四郎』の中に次の一節がある。
       
「子規は果物が大好きだった。かついくらでも食える男だった。ある時大きな樽柿を十六食った事がある。それで何ともなかった。自分などはとても子規の真似は出来ない。」
      
坪内稔典氏は、著書『子規のココア・漱石のカステラ』の中で次のように解説している。
       
「明治三十年の『柿喰ひの俳句好みしと伝ふべし』には、『我死にし後は』と前書きがついている。自分が死んだらあいつはこんな奴だったと伝えてくれ、という遺言のような俳句。漱石は『三四郎』で、まさに子規のそんな願いにこたえたのであった。」
(6)法隆寺を創建した聖徳太子が松山の道後温泉に来ていた。
      
「伊予国風土記」には、聖徳太子が伊予の道後温泉へ遊行したときに、道後の湯が豊かに湧き出るのを見てその想いを次のように述べたとある。
         
日月照於上而不私 神井出於下無不給  聖徳太子  
   
 (日月は天にありて私せず、神の井は下に出でて給へざるなし)
   
このような史実を松山出身の子規が知っていたと考えるのが自然だろう。そうであるならば、上記の(2)のようなエピソードがあるにもかかわらず、「東大寺」ではなく「法隆寺」を選んだ背景の一つとして、この史実をとらえることもできる。

 

 

 

 柿の句を考えている夜の卓 公彦

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