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阿木津英の「阿木津英歌集」を読んだ。

歌については別の機会に譲るとして口語論に興味が引かれたので紹介する。
口語は文語に勝てないと言う。
1981年9月号の「未来」に「言語感覚レポート」と題してこう書いている。

「五句三十一音なら文語もまた致し方ない。文語と口語の顕著な相違点は助動詞である。 口語助動詞は、変化に富んだ文語助動詞になかなか勝てない。 助詞助動詞を極度にきりつめる十七音の俳句と違って、短歌は助詞助動詞でもっているようなところもある。」
としている。 又 五句三十一音は日本人の美意識のしからしめるところとして茂吉の以下の歌を紹介している  「赤茄子の腐れていたるところより幾程もなき歩みなりけり」 また家持の歌も紹介している  「うららかに照れる春日にひばりあがりこころ悲しもひとりし思えば」

阿木津英の口語論に関して以下の記事を見つけたので全文紹介します。

銀河最終便
http://sho.jugem.cc/?eid=2381
『短歌研究』11月号[短歌時評]/阿木津英「口語歌の内的必然性」
2007.10.21 Sunday

『短歌研究』11月号[短歌時評]で、阿木津英さんが、「口語歌の内的必然性」について問うている。
この人は、普段文語で思考しているのだろうか。
文語で会話しているのだろうか。
文語、旧仮名遣いで文章を書き、手紙を書いているのだろうか。
と、訊くまでもなく、戦前の教育を受けた人も少なくなった今、書き言葉にせよ、文語、旧仮名で書いている人は少ないと思うが、
それでも、改めて、口語で歌う必然性は問われなければならないものだろうか。


短歌は短歌であるがゆえに、韻文の短詩型であるゆえに、
文語、旧仮名で書くべきだと思っているのだろうか。
詩は日常語と同じ口語からは生まれないと考えるのも、
日常語と同じ口語からも詩は生まれると考えるも、
自由ではないかと思うけれど。

阿木津さんには、短歌とは、文語、旧仮名で書くもの、というような信念を支える根拠、
内的必然性とやらがあって、このような問いかけをしているのだろうが、
口語の必然性と言われても、それが自然だからとしか言えないだろう。

阿木津さんが、特に問うてみたいという、
穂村弘さん、俵万智さん、東直子さんたち有名歌人でなくて申し訳ないけれど、
単に口語で1980年代から書いて来たものの一人として、答えさせていただくなら、
それしか一応自由に使える言葉がなかったから、
自分の感覚を表現するのに、わざわざ(旧仮名遣いなど)勉強しなくても書ける言葉は、
それしかなかったから、という単純な理由しかない。
そして、それで十分だと思っている。

たまにならともかく、常に、文語、旧仮名遣いで書くなど、
常に外国語で書こうとするのと同じくらい困難なことであり、
(まぁ、それほどでもないけれど。)
結果的に自分の感覚がリアルに表現出来るとも思えない。

文語であれ、口語であれ、自分の気分にぴったりの表現など、
望むべくもないことだけれど、
どちらかと言えば、普段感じているままに表し易いのは、
私の場合、口語の方が多かった。
と、いうだけのことだ。

普段あまり文語で思考、感受していないから、
(もちろん日本人だから、知らず知らず境界が曖昧な部分もあり、
頭の中が、擬古文体状態になることもあるけれど)
口語で考えているものを、書くときだけ文体を変えると、
内容も別のものになる。
それでなくても、感じた通りに書くということは、
かなり難しいことなのだから。

言葉の感覚表現能力は、それほど高いものでは無い。
五官、思考の再現などは、殆ど出来ないことなのだから。
書きながら思い、思いながら書く、
須臾の間に飛び去り、揺曳する感覚を、捉えることは難しい。
だからこそ、文語、口語、あらゆる言語感覚を内蔵し総動員して、
発信することが必要なはずなのだから。

経験的に言うなら、私が短歌を書き始めた頃は、
まだ短歌の世界では文語の歌しか殆ど無かったけれど、
私は自分が口語で書くことに何の疑問も持たなかった。
なぜなら、日常では、それが普通のことだったから。
一度も、文語で書かなければならないと思ったこともない。
(逆に、文語で出て来たものを、わざわざ口語に直すこともないけれど。)

現在では自然になった口語も、なかなか認知されなかった時代も長かった。
かつては、文語しか認めない結社もあったと聞く。
私の経験では、高瀬一誌さん、岡井隆さん、塚本邦雄さんは、
作品を直すことは無かったけれど、
旧弊な結社の中には、会員の作品を勝手に添削したり、
結社の方針に合わないと、掲載しなかったりするところもあったとも聞く。
(高瀬一誌さんは、ご自身も口語で書かれていたから、直したりはなさらず、
『短歌人』では、それが通った。塚本さん、岡井さんは、ご自身の考えはともかく、
口語だから駄目ということはなく文体や仮名遣いの自由を禁じられることはなかった。

文体に対する考え方は、その人の思考法を反映していると思う。
だから、内的必然性について答えるなら、そのような答えが、私に関してはあるだろう。
他の人の答えは知らない。)

俵万智さんの『サラダ記念日』ブーム以降は、一気に自由になって、
現在では、口語・文語を分ける障害は何もなくなったと認識している。
誰だって、好きな文体で書けばいいのだ。
いまさら何だって、口語で書く内的必然性が問われるのかわからない。
文語でも口語でも自由に書いていいのは当然のことだ。
と考えるから、私は主に口語、現代仮名遣いで書く。
それで、どう書くかというのが問題なのだ。
で、そこから、先が、「活路」の問題になるはず。
(口語で書くことの必然性を問うような状況は、とっくの昔に無くなっていて、
その先へ関心が移っているはず。)

阿木津英さんは、小説などに関しても同じ感想や疑問を持つだろうか。
それは無いだろう。
では、なぜ、短歌だけに、そのような要求や疑問を持つのだろう。
おそらくは、その点に、阿木津英さんの考え、愛し、信じる「短歌」があるのだろう。
そのことは、大切にされればいい。
変わらない信念を持ち、愛する詩形を持ち続けるのは羨ましいことだ。

ただ、それでもって、他者の「短歌」に、内的必然を問うのは、
私には、不思議な感覚でしかない。
文語歌、口語歌と二分して、十把一絡げにだけしているのも
硬直したものに思える。

文の最後の方に、「彼らの口語歌は、文語定型というオトナに対するコドモの反抗に過ぎなかったのか。メジャーな市場に参入して、多少とも有名になり、「稼げる短歌」を目指すことが目標だったのか。」
と書かれているのも、そういう観点からでは、何も創造的な論及はなしえないだろうと、
思わざるを得なかった。
阿木津さんが「口語歌の内的必然性」を書かれるのも、
大辻さんが、「ネット短歌の終焉」を書かれるのも、
今、膠着感、閉塞感が、短歌の世界を覆っているからだろう。

口語が開いたように思え、インターネットが開いたように思えた「短歌の未来」
が、再び、飽和し切って、閉ざされたように感じているのだろう。
「短歌の活路」が、見えないと感じているのだろう。
でも、そのとき、きっと、世界は開かれる。
誰かが、木の実を、ドスンと落とすのだ。
小池光さんが、『短歌ヴァーサス』11号※「新鋭など待たれていない」で、
逆説的に書かれているように。

i以上です。

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