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「啄木から受け継ぐもの」(2011啄木祭碓田のぼる講演録)

本日エヂュカス東京で開催された2011啄木祭に参加しました。

twitterでライブで呟いた内容を一部加筆・修正してアップします。
あくまでも私流の解釈で正確な書き起こしではありません。

2011啄木祭なう

短歌群読「東日本大震災」
独唱 野村圭子ソプラノ ピアノ伴奏 長友美夏
啄木コンクール表彰 入選 該当者なし 佳作 三浦勉「未明」

ーー

碓田のぼる氏講演「啄木から受け継ぐもの」(15時ー16時半)  

配られたレジュメはこうなっていました。

1。啄木晩年5年間の実生活の推移
2。奇跡の一年のどだいー啄木における生活の発見
3。「大逆事件」との邂逅ー命をけずる格闘
4。死を前にした9ヶ月間の「金銭出納帳」
5。ここに未来ありと「新しき明日の来るを信ず」をめぐって

以下概要です。

北上の歌碑没後10年の1922年に作られた歌碑が最近作られた陸前高田の分を含めて150個以上ある歌碑の第一号だった。
1933年に小林多喜二は殺された。
そういう時代背景を無視して誤解している人は多い。

やとばかり桂首相に手をとられゆめみてえさめぬ秋の夜の二時

の歌は誤解されている。
桂首相の歌が握手を求めて来たとする歌だというのが誤りの典型で啄木はこの歌で桂首相に危害を加えられる事を恐れているのであって酒でも飲もう等と言っている訳ではない。

時代背景を理解しないと啄木の歌は理解できない。

喜之床での明治43年が啄木の作品のピークである。

今は茗荷谷野駅から行く小石川久堅町は徳永直の作品の舞台で当時の住宅地域としてはあまりいい所ではない。

秋近し! 電燈の球のぬくもりの さはれば指の皮膚に親しき

の歌は世間で言われているような単なる秋の感傷ではなく、やっと電気が引かれて来た喜びを歌ったもの。

井上ひさしの「泣き虫弱虫石川啄木」も喜之床時代の事を描いている。

明治42年6月17日喜之床に移り妻と娘と暮らしはじめるたが、その後に起こった妻の家出事件が啄木の思想に大きな影響を与えた。
啄木の愛情観は妻によって打ち破られた。
家族への責任の自覚と共に生活とは何と文学に問うようになり国家について考え始めた。

「食うべき詩」という評論で啄木「食うべき詩」を提唱しその定義とは

「両足を地面(じべた)に喰っ付けて歌う詩という事である。実人生となんらの間隔なき心持をもって歌う詩という事である。」

と述べている。

彼は新しい実人生と何ら間隔なき心の文学の境地に進み出た。

その後啄木は大逆事件の記録に関わって行くが啄木は大逆事件によって命を短めたのだろうと我が師渡辺順三はよく言っていた

1910年(明治43年)9月 韓国併合(決して対等な合併を表す「日韓併合」でない)

この頃の歌である(明治四十三年歌稿ノート)にはこういう歌がある

はたらけどはたらけど猶我が生活楽にならざりぢっと手を見る

赤紙の 表紙手ずれし国禁の書読みふけり秋の夜を寝ず

ことさらに灯火を消してまぢまぢと革命の日を思ひ通津来るる

「一握の砂」には(表記も変えて)こう改作されて掲載されている。

赤紙の表紙手擦れし 国禁の 書を行李の底に探す日

(これは官憲に指摘されても昔読んでいた本と言う風に言い逃れが出来る)

ことさらに灯火を消して まぢまぢと思ひてゐしは わけもなきこと

(この歌は改作した事によっていかにも無理が出ている。まぢまぢと思うことが「わけもなきこと」のはずが無い)


啄木はオリジナルのままでは発禁とされることが分っていた。

以下「九月の夜の不平」の中の九首は歌集「一握の砂」に収録されてない。

何となく顔が卑(さも)しき邦人の首府の大空を秋の風吹く

常日頃好みて言ひし革命の語をつゝしみて秋に入れりけり

今おもへばげに彼もまた秋水の一味なりしと思ふふしもあり

この世よりのがれむと思ふ企てに遊蕩の名を与へられしかな

秋の風われら明治の青年の危機をかなしむ顔なでゝ吹く

時代閉塞の現状をいかにせむ秋に入りてことにかく思ふかな

地図の上朝鮮国に黒々と墨をぬりつつ秋風を聞く

明治四十三年の秋わが心ことに真面目になりて悲しも

何もかも行末の事みゆるごときこのかなしみは拭ひあへずも

これらの歌は大逆事件や韓国併合がバックにある。

「地図の上朝鮮国」の歌は今も使われている日本の領土である赤を弔いの色である黒で消し抵抗の意志を表したものと思われる。

革命の日→わけもなきことなど大逆事件や韓国併合を扱った歌を一握の砂には改作して入れた事は、
閉塞時代の打開方法を文学の領域からアプローチしたもので「時代閉塞の現状」はその頃の代表的評論である。

啄木は大逆事件の記録を「のちのちの世の為に」書いた。
のちのちの人間はそのことに思いを致したい。

一握の砂551首の83.1%(碓田計算)は明治43年作だと戦後分かった。
この一連啄木の言葉を借りれば「弱き心の所産」ではなく「権利に於いてである」

啄木は「田園への思慕」という評論にこう書いている。

「私は、私の思慕を棄てたくないはない、益々深くしたい。そうしてそれは、今日にあっては、単に私の感情に於てではなく、権利に於てである」

岩手県知事は今回の震災の復興に向けた計画について「犠牲者の思境の思い」と言われたがその思いは啄木の思いに通じるところがあり知事は啄木を読まれていたのかもしれない。

幽玄の舞は強い心でと風姿花伝も言っている。

死の前の9カ月間の節子の金銭出納簿は啄木の死の翌日で終っているので啄木が書かせたか?

朝日新聞が働いてない啄木に給料を出したのは偉い。

明治41「政府は軍事費の傀儡にして、国民挙って其の奴隷とせられつつあるを」
明治44「僕の社会主義は僕にとおて夢ではない、必然の要求である」
   「長い間自分を社会主義者と呼ぶことを躊躇していたが、今ではもう躊躇しない」

啄木には複眼の思想がある。
例としては

猿と人間の対話の猿の発言に自然保護の思想
ロシアの将軍マカロフの死を悼み追悼し
戦艦ポチョムキンの反乱兵士を評価する

死の直前に東京都電のスト勝利(片山潜指導)に当たって「 団結すれば勝つ」と啄木が行ったのはエンゲルスのいう「多数者革命」の思想に通じる。
その思いを死の三カ月前の日記に残している。

例え他を捨てても残したい言葉です。

死の状況の中でも未来を見据えた。

墓碑銘を朗読して終わります。

‘今日は五月一日なり、われらの日なり。’ これかれのわれに遺したる最後の言葉なり。 その日の朝、われはかれの病を見舞ひ、 その日の夕、かれは遂に永き眠りに入れり。

ああ、かの広き額と、鉄槌のごとき腕と、
しかして、また、かの生を恐れざりしごとく
死を恐れざりし、常に直視する眼と、
眼つぶれば今も猶わが前にあり。

彼の遺骸は、一個の唯物論者として、
かの栗の木の下に葬られたり。
われら同志の撰びたる墓碑銘は左の如し、
‘われには何時にても起つことを得る準備あり。’

ーーーーー
碓田先生の啄木研究のエッセンスのような講演でした。

秋近し! 電燈の球のぬくもりの さはれば指の皮膚に親しき

の歌の解釈等は先生の発見であり他の啄木研究者の追随を許さぬ正に独壇場の感じがありました。

啄木を継承する民主主義短歌運動体であろうとする新日本歌人協会員として「啄木から受け継ぐもの」を受け継いで行きたいと思います。
ーーーーーー

訂正する前にオリジナルのつぶやきはここにあります。

http://twilog.org/ootsuru/asc


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