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たまたま松尾芭蕉の事を書いた宮本百合子の文章を著作権期限切れのサイト青空文庫に見つけた。
(青空文庫には百合子の作品が多い)
短歌・俳句をやるものとしては実作上大変参考になりましたのでこのサイトの読者で興味のある人は少ないかもしれませんが紹介します。

百合子は当時の時代背景との関わりで芭蕉を見ている。
史的唯物論の立場からの文学評論だ。

以下部分的に紹介してコメントします。

「桃青(芭蕉:大津留注)にとって追々俳諧は人生の遊びではなくて、人生そのものの芸術化として真剣に映って来ており、芸術の本質のその発展には、水道工事の小役人の暮しも深刻な現実のもののあわれによって彼を豊富にしたと云えるであろう。」

「人生そのものの芸術化」
いい言葉だ。
「実人生と何ら間断なき短歌」を目指し「食らうべき詩」を書いた石川啄木と同じ立場だ。

「芭蕉を、彼の生きた時代の世相との関係でみれば、世俗的には負けていて、世事万端の流転を自然とともに眺める哲学の内容も、仏教渡来後の日本の知識人として当時に於いてもありふれたものであった。哲学として或は人生観のつづまりとしては、西鶴も近松門左衛門も最もありあわせた仏教的なものに納まっている。しかし、芭蕉の芭蕉たるところは、哲学的にそういう支柱のある境地さえも自身の寂しさ一徹の直感でうちぬけて、飽くまでもその直感に立って眼目にふれる万象を詩的象徴と見たところにあるのだと思われる。」

ここら辺がまさに時代背景との関わりで芭蕉を見ている所だ。
「世俗的には負けて」いたからこそ文学に深みがあるのだろう。

「「さび」が日本の心の窮極にあるというよりは、どこまでも感性にふれる形象をとおしてのみ芭蕉の象徴があったという点こそ、彼の芸術が中国にも印度にも無いものである所ではなかろうか。芭蕉には実に微妙複雑な象徴はあるが、抽象はない。少くとも彼の完成した後の芸術境にはない。それだからこそ私たちは、一読「こがねを打ちのべたような」彼の芸術の世界の感性、象徴にひき入れられ、一句一句がそれぞれに「底をぬいて」いること、すなわち夾雑観念のないそのものとしての境地にふれている純一を感じ、対象と作者の感覚の「間に髪を入れざる」印象、本性たがわじの芸術を心に銘じられるのだと思う。」

「どこまでも感性にふれる形象」を作りたい。
「夾雑観念のな」く「対象と作者の感覚の「間に髪を入れざる」印象、本性たがわじの芸術を心に銘じられる」ようになりたい。

「芭蕉には実に微妙複雑な象徴はあるが、抽象はない。」
これも芭蕉の句の味わいの深さの原因か?


「真実の芸術家として、芭蕉が「此一筋につながる」とばかり執拗に、果敢に破綻をもおそれず、即発燃焼を志して一箇の芸術境をきずいて行った姿というものは、平俗に逃避したりおさまったりした枯淡と何等の通じるものをもっていない。はりつめて対象の底にまで流れ入り、それを浮上らせている精神の美があるからこそ、芭蕉の寂しさの象徴は感覚として活きているのだし、感覚としての響とひろがりと直接さをもっている。

そういう一世界を十七字のうちに立てるため、とらえて現実とするために芭蕉は様式についても言葉一つ一つについても敏感であったのは当然であろう。

その点では談林のお喋りに反撥して、鬼貫が「まこと」一本やりで、すがた形を二のつぎにした態度から、歴史的一歩を歩み出している。
芭蕉は、二六時「内につとめたる」主観と対象の刹那の結合で俳諧は出来るべきもので、つくるべきものではないとしたが、それは作為を拒んだので、一句一句そのものとしての世界が客観的に確立すべきことは目ざされていた。
一つの句は一つだけ、自身のマンネリズムで作るなということもきびしい表現で云っていて面白い。
芸術と人生の生きかたを刻々に流れ動きしかも不易である豊富な生命に一致させようという志から、一笠一杖の生活も発している。僧侶風な遁世とは違う。
今日私たちが芭蕉に感じる尊敬と感興は、十七世紀日本の寂しさと現代の寂寥の質の違うことを確りと感情において自覚しつつ、従って表現の様式も十七字から溢れていることを知りつつ、猶芭蕉が自身の芸術にとりくんだ魂魄の烈しさによって、今日と明日の芸術の建設のための鼓舞を感じるところにあると思う。
芭蕉は弟子に向って、師である彼の芸術的境地の「底をぬけ」ということを切に切に云っている。そういう人物の見当らぬことを悲しんでさえいる。
「この道に古人なし」それは古人の跡を追随するなという意味、完成された芸術に屈服するな、今日の現実感覚に立て、という意味できわめて強調されているのである。芭蕉こそ真の芸術家として、古典というものが再びそこにそのままの姿で住むことは出来ない民族芸術の故郷だからこそ価値の深いものであることを知りつくしていたと思う。」
〔一九四〇年一月〕

果敢に破綻をもおそれず、即発燃焼を志して一箇の芸術境をきずけ
はりつめて対象の底にまで流れ入り、それを浮上らせている精神の美を
「内につとめたる」主観と対象の刹那の結合で俳諧は出来るべきもので、つくるべきものではない
一つの句は一つだけ、自身のマンネリズムで作るな
完成された芸術に屈服するな
今日の現実感覚に立て

全て短歌俳句を作る者が百合子に激しく学ぶべき事である。

この文章は戦前に書かれた物だが少しも古くない。

底本:「宮本百合子全集 第十一巻」新日本出版社
   1980(昭和55)年1月20日初版発行
   1986(昭和61)年3月20日第5刷発行
親本:「宮本百合子全集 第八巻」河出書房
   1952(昭和27)年10月発行
初出:「新女苑」
   1940(昭和15)年1月号青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)

触れませんが以下の論文が百合子の立論を支持したユニークな論を張っています。
無常観の問題(福岡女子大学 井手恒男)


追記
この文章は夫宮本顕治への「獄中への手紙」を書いていた時代だと言う事も頭に入れて読むべきだろう。
ちなみにこの年1940(昭和15)年1月2日付けの百合子の顕治への第一信はこう結ばれています。


「人間に希望、よろこび、慰めを与え得る文字、というものの価値は大したものです。日本の作家はこれまで、そういうものを通俗な事件そのものの目出度しや、ある心の境地や諦めやで与えようとしてだけ来ていますが、芸術の到達し得るところは、そんなところではないわ、ねえ。芸術は、悲劇をもやはり人間精神の高いよろこびの感動として与え得るべきです。苦痛の中にそのものが描かれてゆくことのなかに、大きい一つのコンソレイションがあるべきです。アランがそのことを云っているのは面白く思いました。なぐさめることではなくて、なぐさめられる心、それについて。芸術家の現実を統括してゆく力として。詩性として。もちろんこの判断はアランの限度のうちで云われているのですけれども。(哲学的に、ね)文学の面白さとこの人間精神のコンソレイションの関係は面白いこと。誰もつきつめて居りませんものね。私は自分の文学はそういう輝きで飾りとうございます、では又。このおしまいの部分は、面白いのよ、私の成長の歴史として。又かきます。」

又書きます。

原子力発電の新設を止め順番に停止しスケジュールを作って再生可能エネルギーに全て転換しよう!
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