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今日は先の記事でお知らせした下村すみよさんの赤木健介に関する講演を八丁堀のパンドラという喫茶店で聞いた。

九条歌人の会の行事だった。
33冊もの本を読みよく準備された素晴らしい講演だった。

赤木健介を知る人が少なくなり世の中から忘れられつつある現在、啄木の生活派短歌の流れを継承する新日本歌人や短詩型文学を中心に是非赤木健介全歌集を世に残したいものだ。


下村さんはあまりお会いする機会は多くはないが四半世紀に及ぶ短歌同人「炎」の仲間であり聴講に行った。
ましてテーマは赤木健介
私は新日本歌人に1974年に水野昌雄さんの勧めで入会したが(今日水野さんは私の目の前に居た)入会直後から新日本歌人協会の事務所が佐々木妙二先生宅にあった時校正などのお手伝いをしていた。
そこで赤木さんと一緒になり帰りによく一緒に帰り新宿駅で別れたのが懐かしい。
(当時は既にかなりおぼつかない歩き方だったが)
赤木さんは九大法学部の43年先輩でもあるのでよけい親近感がある。

下村さんの講演を下記メモしました。

略歴
赤木健介(本名赤羽寿)
啄木より21歳下(常に啄木が生きていれば何歳と言っていた由)
1949叙事
母べえの夫の父べえと同じ時代を生きた人
1907(明治40年)
青森生まれ、父が検事で全国を転勤し小学校を5回変わった。
函館の小学校で亀井勝一郎と洋服を着ていたのでいじめられっこ同士で仲良し
富山県高岡中学国語教師関根甚七の影響で短歌始めた
1924(大正13年)姫路高校入学し個人誌「世界人」発行 「新象徴主義の基調について」が川端康成の目に留まる。
学内に社会科学研究会作りマルクス主義研究し、軍事教練反対運動などで退学
1927(昭和2)九州大学聴講生
1930(昭和5)上京 大山美禰子と結婚
1942(昭和17)第一歌集「意慾」
1944(昭和19)実刑判決で巣鴨刑務所に入獄
1945(昭和20)10月釈放
戦後は新日本歌人協会の中心人物として活躍
21歳の時63歳の赤木健介から貰った手紙を紹介
埼玉県歌人会賞 新短歌人連盟賞

その他
本人は歌集作らず露木公一さんと永塚恒夫の尽力で出版出来た歌集もあるという
下村さんは水野昌雄さんから33冊の赤木さんの本借りたという
啄木の影響で行わけ短歌をつくり、文語を嫌った
短歌を詩と肩を並べられるようにしたいと言っている
島崎藤村の推薦で1940年「ありし日の東洋詩人たち」「透谷賞」次席(太宰治も同時に次席)
モーツアルト五月の歌を赤木健介が翻訳している
ここに歌も訳詞もあります。
多方面に活躍し日本のレオナルドダビンチと言われた
鎌倉アカメディアで伊豆公夫の名前で教えた

参加された方全員からお話があった。
いろんな短歌結社の方が参加されており歌壇全体での会となった。
赤木さんも喜んでいるだろう。
赤木健介研究はこれからかもしれない。
是非下村さんには炎や新日本歌人や短詩型文学に評論を連載で掲載して貰いたい。

沢山の歌が紹介されましたが現代的テーマのものを幾つか紹介します。
最初の歌などは戦前の歌ですがまるで今の歌のようです。

ーーー

日曜も 労働者たち、 退け刻のバスに詰つて、驛へ運ばれる

パスカルが、
「人間は葦」だと云った。
破れ葦の、此の肉は闘ふ葦だ

戦争はもういやだと、
みんな思っている。
思っているだけでは、
平和は守れぬ。

暗い、
通行人もない夜の官庁街を、
うねり、あふれ、流れる十七万のデモ隊。

飼い犬オキナマロのかなしみ、
「枕草子」を講義しつつ、
ぼくの声が詰まりぬ。

ーーー

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