最近のトラックバック

アクセスカウンター

2020年9月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

« 青春の歌70(1976年の歌)(初夏の日) | トップページ | 青春の歌71(1976年の歌)(栄・繁治・百合子) »

2019年1月27日 (日)

小泉修一さんの歌文集「旗持ちの歌」を読んだ

小泉修一さんの歌文集「旗持ちの歌」を読んだ
「本書は2013年出版の『風と杖と』以降六年間に詠んだ短歌二三五首と、同時期に書いた評論二編を収め」たものである。(作者あとがき)
こういう歌がある。

わが翳す旗に人の眼まず留まる胸張らんはや腰疼くとも
妻逝きて六年独居の淋しさは言うまい皆(みんな)がんばっている
独り居の我は午(ひる)から行方不明隣(となり)都市(まち)のニュー・イヤーコンサートにいる

九十二歳の歌人・小泉修一健在である。
――
評論の二つはいずれも「新日本歌人」に掲載されたものである。
評論の一つは「歌に縋りてー石田マツ考」(二〇一四年十月号掲載)
石田マツは二十三歳で自死している。
こういう歌が紹介されている

馬車馬のごとくもくもく砂背負うこの苦しみを誰か知るらん

土木工事で働く少女マツの歌である。

当時の新日本歌人常任幹事信夫澄子に語る手紙の形の日記が残っている。

又、遺歌集にはこういう歌がある。

死を考え死なんと思い死にきれずすべてを歌に託して五年目

なんと十八歳から自殺を考えていたということになるが日記の中に「啄木を尊敬し、私も書き始めたのが短歌でした。」とあるのでマツが生き得たのは啄木のおかげだろうと小泉さんは書いている。

小泉さんが石田マツのことを知ったのは六十を過ぎての新日本歌人関東近県集会だそうであるがしばらく間を置いて、その後亡くなった蓑輪喜作さんの「石田マツ女を思う」という歌が新日本歌人に掲載されて以降再度興味をもたれたようである。
中にはこういう蓑輪さんの歌がある。

君の歌わが歌のりし雑誌「葦」ボロボロなれどいまだ捨てえず

「「葦」とは「生活記録雑誌」との副タイトルを持ち、当時の勤労青年層に普及した雑誌であり、マツも投稿者だったのだろう。」
「「葦」を通じてペンフレンドになったYに恋したマツは二人の中間点である新前橋で、目印に「新日本歌人」を抱えたYと初めて会う。」
なんだか映画のワンシーンのようだ。
こんな歌が残っている

青春を病み臥す友に女らしい愛のことばも書かず日は過ぐ
人を愛す美しい心も苦しみもほとほと知りぬ二十四歳(数え年)

「病いも峠に来た」というYの手紙に驚きマツは二度目に会いに行ったのがYとの最後の出会いだった。
その四ヶ月後の昭和三十二年九月五日二十三歳八ヶ月の命を自らの手で閉じた。
悲しい歌人の啄木よりも短い生涯であった。
――
評論のもう一つは「歌の絆ー立沢もり歌集『竹煮草』について」(二〇一七年七月号掲載)
立沢もり(旧制吉井もり)は長野のアララギの歌人金田(かねだ)千鶴(ちづ)が遺稿を託した人物である。
小泉さんがこの歌集を知ったのは新日本歌人二〇一四年一二月号のコラム欄「わが青春とうた」に載った千葉の会員田中なつみ氏の一文であり、最初の歌はこれである。

甘え来る事もなきよと中の娘の眠れるひたひなでてやりたり 立沢もり

小泉さんはこれを読み立沢もりとは吉井もりでなはいかと後に閃いたという。
田中なつみさんが「父も母もアララギ派の歌人で、教員の父は甲信越『アララギ』の選者だった。」「とあるのを読み返し間違いないと胸が高鳴った。」という。
小泉さんはこうも書いている。
「吉井もり」は、教員の歌人と結婚して立沢もりとなり、五人の子を育て、その一人は今私たち『新日本歌人』の列に加わっている。夢ではないか、と私は胸が熱くなった。」

『新日本歌人』が紡ぐ人生のドラマがここにはある。

(私も書いています)


ーー
2017年の大津留公彦の俳句
白木槿
「歌碑のある風景」を紹介します。
私も三郷市の万葉歌碑を紹介しています。