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カテゴリー「山頭火二豊路の足跡と句碑めぐり」の記事

2008年8月25日 (月)

山頭火の句碑は大分県内に

山口高氏の山頭火の大分での足跡研究成果をご本人の了解を得て掲載します。

句碑とはなにか、これが句碑だという定義は見当らないが、俳句を書いたものであれば板でもブリキ板、またも木柱でもよいという訳にはいかないらしい。

  そこで自分なりに考え、一応基準らしきものを次の通り設定して選定しました。

 
    ※山頭火の句を刻んだもの
  
    ※屋外で地に固定し移動不可能なもの(誰でも見学できる場所)
 
    ※山頭火が足跡を残した場所に設置されていることを理想とする
 
    ※山頭火の自筆を理想とするが他者の揮毫でもよい

 
  山頭火の句碑は日本各地に存在するが、その数については正確な数はわからない。ある刊行物では164基とあったり、また別のものでは358基とあるなどまちまちである。
 
  最近では毎年増え続けている傾向もあって、実態を把握することは困難である。県内にあってもここ最近までは17基であったが、近年増加し現在31基となっている。
 
  そこでこれ等の所在地と建立者、揮毫者等を明確にすると共に、刻まれている俳句について私なりの感想などを加えたいと思います。最後までご覧いただければ幸甚の至りです。
    
(文責;山口高)

〈参考文献・資料〉

・山頭火研究              植山正 著      渓水社
・あの山越えて(行乞記)        種田山頭火      春陽堂
・山頭火読本                         牧羊社
・山頭火が行く 朝日新聞山口支局編              葦青房
・山頭火漂泊の跡を歩く 文芸散策の会編            JTB
・別冊新評 放浪の俳人山頭火の世界   斉家節郎編      新評社
・山頭火アルバム            村上護編集      春陽堂
・山頭火                石寒太 著      文春文庫
・俳句実作入門             能村登四郎 著    大泉書店
・長湯温泉文学歌碑めぐり(絵図)               直入町役場 

山頭火二豊路の足跡と句碑めぐり

平成16年9月1日 発行
著 者:山口 高
発行者:佐藤高信
発行所:大分県大分郡庄内町武宮
     グループホーム花の里   


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山頭火 湯平旅情

山頭火 湯平旅情

                     作詞 山口 高
                     作曲 宮田直之

小野屋・湯平しぐれのなかを   濡れた法衣(ころも)に冷たい草鞋(わらじ)
あんたのことを考えながら    この坂、越せば湯宿は近い
ついたらすぐにひと風呂浴びて  友や息子に便りを書こう

音の響きもカラカラコロと    石のたたみの歴史は長い
風に吹かれて花合野(かごの)川の     川端(かわばた)ゆけば山女魚(やまめ)が踊る
こよいしぐれの音ききながら   サキノ達者か逢いたや夢で

酒もうまいし情けもあつい    心残りはかずかずあるが
今日は旅立ち湯平さらば     小雪ちらつく鹿出(ろくで)をこえりゃ
あれが由布かよ夕陽に映えて   峰の白銀(しろがね)、思わず拝む。

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山頭火・行乞二豊路

山頭火・行乞二豊路
                    作詞 山口高
作曲 加藤さとる
1.水は流れる 雲は行く      2.人生は旅 歩くだけ
肥後を出たのは 夏の頃       トンネル抜ければ 竹田町
ここは重岡 秋の風         サキノ恋いしや 汽笛の音
三国峠の 山のはぜ         捨てたふるさと 思いだし
映える夕日は 祖母の嶺       飲んだドブロク酔いざめの
今宵の宿は いずこやら       水をさがすや 宿の月

3.旅のあけくれ しぐれ降る    4.法衣破れて 木の葉散る
  あんたのことを 思いつつ      風の寒さにゃ 負けないが
  長湯・庄内・湯の平と        一杯ほしい 初あられ
  歩きつづけた 湯布院の       岩扇山を 右に見て
  ここは筑後屋 湯にひたり      下る耶馬渓 柿坂や
  人の情けに 涙ぐむ         早く逢いたい 昧々さん

5.生涯流転の 旅人に
  厚いもてなし 泣いてます
  白いさざん花 また咲いて
  朝立ちの酒 飲みました
  山国橋を 渡るのに
  酔うていそいで 風になる

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歩け山頭火

歩け山頭火
                      作詞 山口高
作曲 宮田直之
座るも禅なら歩くも禅と 味取りの寺をあとにして
火を噴く山を仰ぎつつ 日向路入れば緑濃く
一足あるき汗拭きながら 笠をはずして空見れば
山の傾きかかる雲 流れ流れてどこへ行く
     ―あゝ分け入っても分け入っても青い山―

山は夕映え散るもみじ しぐれ降る道どこ迄も
里の夕べに明かりがともり はしゃぐ童の声を聞き
一人息子を思いはするが 今は道傍の軒に立ち
経を唱えて鉄鉢で受けて 行乞流転の旅を行く
     ―あゝホイトウと呼ばれる村のしぐれかな―

母の形見を背に負うて この足一歩供養だと
濡れた草鞋の紐しめなおし 終わりのない旅いつ果てる
されど自ら定めた道よ くよくよせずにふり向かないで
歩け歩け山頭火 歩け歩け山頭火
    ―あゝどうしょうもないわたしが歩く―

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山頭火 湯平旅情

山頭火 湯平旅情

                     作詞 山口 高
                     作曲 宮田直之

小野屋・湯平しぐれのなかを   濡れた法衣(ころも)に冷たい草鞋(わらじ)
あんたのことを考えながら    この坂、越せば湯宿は近い
ついたらすぐにひと風呂浴びて  友や息子に便りを書こう

音の響きもカラカラコロと    石のたたみの歴史は長い
風に吹かれて花合野(かごの)川の     川端(かわばた)ゆけば山女魚(やまめ)が踊る
こよいしぐれの音ききながら   サキノ達者か逢いたや夢で

酒もうまいし情けもあつい    心残りはかずかずあるが
今日は旅立ち湯平さらば     小雪ちらつく鹿出(ろくで)をこえりゃ
あれが由布かよ夕陽に映えて   峰の白銀(しろがね)、思わず拝む。

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山頭火 大分県内を詠む

山口高氏の山頭火の大分での足跡研究成果をご本人の了解を得て掲載します。

山頭火は日本列島を北は岩手県平泉、南は鹿児島県枕崎まで約五万キロを放浪し、この間毎日俳句を詠み続け、その生涯に一万とも二万ともいわれる俳句を詠んだといわれる。
 
  大分県にも前後5回ほど足を運び、数多くの俳句を詠んでいる。

  例えば来県の入口から出口までの記録が明確に残されている行乞記(春陽堂)によれば、昭和5年11月4日南海部郡重岡から三重・竹田・湯の原・天神山・湯の平・湯布院・玖珠・耶馬溪・中津を経て、11月17日福岡県に入るまでの13日間に127の俳句を詠んでいる。
 
  1回の来県でこれほどであるから、5回の来県では相当多数の作句であると推定されるが、その中で大分の地名が詠み込まれている句は極めて少ない。私の知る限りでは次の通りである。
  
 “ここちようねる今宵は由布岳の下”
 
 昭和5年11月13日、玖珠町丸屋旅館に宿泊した際の日記にあるが、前日宿泊した由布院町筑後屋旅館のことである。
 
  筑後屋は土地の古老から聞いた話によると、経営者は筑後方面から由布院に移住に来た人で、主人は客馬車事業を営み奥さんが木賃宿を営業していたという。

  その後同じ町内(現在の岩尾病院の附近といわれるが今は無い)に二代目筑後屋を造ったといわれる。初代の筑後屋は町内湯坪に残っているが、二階建てから平屋に改造されている。
 
  日記の中に「由布岳はいい山だ。おごそかさとしたしさを持っている。今日は幸いにして落日をまともに浴びた。由布岳を観たことはほんとうにうれしい」さらに「この宿は気安くて親切で安くてよろしい。特にぶくぶく湧き出る内湯は勿体無いほどよろしかった。」とも書いている。

  温泉好きの山頭火は内湯で心ゆくまで湯を浴び、同宿の三人等と一本呑むと書いてあるからご機嫌で就寝したのであろう。宿の裏手には月光を浴びた由布岳が聳えている。

 
 “酔うて急いで山国川を渡る”
 
  昭和5年11月17日、福岡県宇ノ島太田旅館に宿泊した際の日記にある。
山頭火は11月15・16日と中津市船頭町の「層雲」同人松垣敬(俳号 昧々)方に宿泊し、最大の待遇を受けていることは、彼が日記の頭に書いてある旅館のランクを松垣方は「最上々々」としてあることをみても山頭火の喜びがわかる。
 
中津は九州最大の「層雲」組織があり、友人が多かった。昧々さん、宇平さん、二丘居さん、みんな良い人ばかりだった。

  昼酒、昼風呂、夜は筑紫亭での句会、終わってフグチリでさんざん飲んで饒舌った。なんと楽しかったことか。

  昧々さん方へ帰れば枕元に水さしと酒が一緒に置いてある。本当に勿体ないが見た以上飲まずにはいられない。

  ほろほろ酔うてお暇をする。これ以上いれば涙があふれ出るだけだ、後も見ずに山国橋を渡り、宇ノ島へと急いだ。
 
  ありがとう昧々さん、宇平さん、二丘居さん・・・また逢える日がありますように。


  “日が落ちかかるその山は祖母山”

  昭和5年11月4日、三重町梅木屋旅館に宿泊した際の日記にある。
 
  山頭火はこの日、延岡より汽車で南海部郡の重岡駅に下車し、そこから小野市三国峠を越えて三重町に来た。

  日記の中に紅葉はまだ早いけれど、どこからともなく聞こえてくる水の音、小鳥の声、木の葉のそよぎ、路傍の雑草、無縁墓、吹く風も快かった。とあるので、山頭火好みの風影の中をうきうき気分で歩いていったことだろう。
 
  峠を登りきって少し下ったところに、道に沿って左側に木立が一部とぎれ、展望が開けたところがあり、遠く九州山脈に続き阿蘇方面が望めるところがある。
 
  かつて私も「行乞記」の11月4日を読んで、その場所を探したことがある。11月4日、三国峠の頂上附近から少し下ったところに、そこと思われる場所があった。

  前方遥か彼方に祖母山があり、その先に阿蘇が望まれた。丁度落日が迫っており、夕焼けはいよいよ色濃く、そのうち夕陽は祖母山の裏に隠れるように落ちていった。その神秘的な光景はいまだ脳裏から離れない。時刻は午後5時15分だったと記憶している。
 
  山頭火は「西日を浴びた姿はなんともいえない崇美だった」と書いてあるが、山頭火はこの光景を肴に一杯やりたかったらしい。急いで山を下り、茶屋に飛び込んでさっそく漬物で一杯やったという。

  「さらに今日の汽車賃50銭は仕方がなかったがみのりは贅沢だった。」と書いているが、汽車に乗ったことで祖母山に沈む夕陽を眺められたことが出来た。これが最大の贅沢だったといいたかったのであろう。

“酔いざめの水をさがすや竹田の宿で”

  昭和5年11月8日、湯の原(長湯)米屋旅館に宿泊した際の日記にある。
 
  11月7日の日記に「町の酒屋で二杯ひっかけたので、ほろほろ酔うた。とくに乱酔、泥酔になっては困る。もっともそうなるだけ酒はうまいのだが」と書いてある。

  この晩も酒屋だけの二杯だけではなかったのではないか。ふと夜中に目が醒めた。枕元附近に酔いざめの水と思って薬缶(やかん)を置いてあった筈だとさがすが、木賃宿の電灯は暗い。やっとさがしあて、ぐいぐい飲んだ。正に甘露の水だ。この味は下戸にはわかるまい。そこで一句となったのであろう。
 
  数多くある山頭火の俳句の中から大分県の地名が出てくる俳句は四句しかなかったが、石仏に関する句が三句あった。石仏(磨崖仏)は大分県の宝である。よってその三句を紹介しておく。 

 
  “さみだるる大きな仏さま”

  山頭火は大正15年6月17日、解くすべもない惑いを背負うて旅に出た。この時熊本から高千穂、延岡を経て大分県に入り、ここから先の経路は不明ながらおおむね日豊線沿いに佐伯、臼杵、大分、別府から北上し、福岡県に向かったものと思われる。この行乞の途中、大正15年夏、臼杵の石仏を拝観し詠んだ句であるといわれる。

 “しぐるるや石を刻んで仏となす”
 
 “石仏しぐれ仏を撫でる”
 
  昭和4年11月2日、熊本県阿蘇郡内の牧温泉 塘下旅館に「層雲」主催者・萩原井泉水を迎え、同人各位が集い、層雲の九州大会があった後、山頭火は一人九州観音巡拝の旅に向かった。

  英彦山、中津、宇佐、国東、別府、大分と巡拝し、次は順番として第11番有智山蓮城寺へ行くところをコースを変更し、大正15年夏訪れた臼杵の石仏拝観のため臼杵へと向かった。

  このとき師・萩原井泉水に出した手紙に「濡れ仏となり石仏を拝みました。なんと親しみ深い仏様、抱きつきたくなります。」と書いてあり、さらに11月16日から11月23日までの8日間滞在していることからして、いかに臼杵の石仏に心を打たれ、臼杵を離れ辛かったかが窺れる。


    
(文責;山口高)

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山頭火は何度大分県にきたのか

山口高氏の山頭火の大分での足跡研究成果をご本人の了解を得て掲載します。

山頭火は大正14年2月出家し、「耕畝」の僧名を受け、大正14年3月5日熊本県鹿本郡植木町、味取観音堂の堂守となったが、山林独住に耐えかね、大正15年4月10日行乞流転の旅に出た。

  昭和15年6月3日ようやく永年の漂泊を終え、松山一草庵に帰住したが、この間一時期「其中庵」や「風来居」などに留まったことがあったものの、そのほとんどは日本列島各地を行乞放浪し、その総距離は5万キロメートルにおよんだといわれている。
 
  この様な状況のなかで、大分県にはどのようなルートを辿って何度きたのであろうか?

  山頭火の日記は、今日かなり残されているものの、昭和5年9月9日以前のものは、全部焼失されているため詳細については不明である。

  したがって旅先より友人知人に宛てた手紙や、先達研究者の文献等から、調べてみた結果、大正15年4月10日、本格的な行乞に出る前の、大正14年10月味取観音堂を出発し、佐伯市大手前の工藤好美方で行われた、工藤の妹千代さんの葬儀に参列している。
 
  山頭火の一家は破産により熊本市に流れてきたが、この頃熊本第五高等学校の生徒であった工藤と知り合い交友を続けていたが、やがて工藤は早稲田大学に入学入学のため上京し、卒業後は千葉県佐倉中学校の英語教師となっていた。後年山頭火が上京した際ちょいちょい訪れ、いろいろと歓待を受け、さらに妹の千代さんから就職の世話を受けたといわれる。
 
  このようなことから義理堅い山頭火は、とり急いで味取から10月4日の葬儀に間に合うよう、佐伯市大手前の工藤好美方に到着している。

  この際の行程は明確な資料が無いが、味取より肥後大津までは徒歩、宮地までは軽便鉄道を使い、竹田までは徒歩で、竹田より三重町までは汽車で、三重町から三国峠を越え、因尾川沿いの本庄渓谷を下って佐伯市に到着。帰途は長くあけていた味取観音に早く帰るため、日豊線下り鹿児島本線上りを利用したものと推定されている。
 
  大正15年6月17日、山頭火は熊本県報恩寺をあとに一鉢一笠の旅に出た。
矢部から馬見原を経て高千穂へと分け入り、6月22日には五ケ所川に沿い日向街道を延岡に出た。

  この途中では山頭火の代表句といわれる“分け入っても分け入っても青い山”の句が生まれている。
 
  延岡からはおおむね日豊線に沿って北上し、臼杵に立ち寄り深田の石仏を拝観し“さみだるる大きな仏さま”の句を残している。
臼杵から大分、別府、中津を経て福岡県に入ったものと推定され、8月17日には柳川の木村緑平氏を訪ねている。その後の行乞経路は不詳である。
 
  昭和4年11月3日、阿蘇郡内牧温泉 塘下(とうした)旅館に「層雲」の師萩原井泉水を迎え、同人等と阿蘇に遊んだ。

  11月4日宮地駅で萩原井泉水と別れ、翌11月5日一人となって九州四国霊場巡礼の旅に向かった。

  日田、英彦山、中津、宇佐、国東、別府、大分と巡り、順打ちでは11番三重町蓮城寺に行くべきところを突然コースを変更し、臼杵に向かい12月6日しぐれの中を自身が濡れ仏となって深田の里についた。

  この臼杵に8日間滞在しているが、よほど仏の里が気に入ったのであろう。この間“しぐるるや石を刻んで仏となす” “石仏しぐれ仏を撫でる”の句を残し、以前訪れたことのある佐伯へと向かい12月23日到着した。

  ここに3日間の滞在の後、三国峠を越え三重町に、さらに12月26日竹田町に到着、その後高森・立野を経て12月31日熊本へ帰りついた。

   山頭火は「愚かな旅人として一生流転せずにはいられない」として、昭和5年9月9日熊本を出発した。

  これよりさき “焼き捨てて日記の灰のこれだけか” の句を残し、これまで書きためていた日記や手記などいっさいを焼き捨て八代に向かい、それより人吉、都城、宮崎、佐土原を経て延岡へ。

  ここから汽車で大分県南海部郡重岡駅で降り、三国峠を越え三重町(11月4日)・竹田町(11月6日)・湯の原(11月8日)・天神山(11月9日)・湯の平(11月10日)・由布院(11月12日)と歩を進め、湯布院駅から豊後中村駅まで汽車で、ここから再び徒歩で玖珠町と(11月13日)と進み耶馬溪を下り、耶馬溪平田駅より軽便耶馬溪鉄道で中津駅下車し、直ちに中津市船頭町「層雲」同人松垣昧々方を訪れ宿泊(11月15日)、11月16日は筑紫亭でのみつぐり会出席し、大いに飲んで大いにしゃべり“河豚食べつして別れた”の句を残し、11月17日福岡県宇ノ島へと向かった。

  その後門司、糸田、福岡、久留米を巡り昭和5年12月15日熊本へ帰着した。
 

  以上が今ある山頭火に関する文献・資料により抽出した来県の状況であるが、昭和5年9月以降の日記・手記などすべて焼却されていることから、正確なことは知るすべもない。

  「層雲」同人であった、中津の木村宇平氏の子供である木村又郎氏(木村眼科医院長)は、中学校の頃山頭火にあっており、四回来津したと「山頭火研究」の著者植山正胤氏に語っている。

このことは大正15年6月、熊本市を出発し宮崎から大分県臼杵を訪れ石仏拝観のあと、日豊線沿いに北上した際、中津に立ち寄ったと推定される資料となる。
 

  次に昭和4年11月九州四国霊場巡礼の際、中津に立ち寄ったことは記録によって明らかである。

  さらに昭和5年9月9日熊本を出発し、八代・宮崎・延岡から大分県南海部郡重岡に入り、三重・竹田・湯の原・天神山・湯の平・由布院・玖珠・耶馬溪を経て中津に入ったことは行乞記によって明確である。
 

  続いて昭和13年3月福岡県門司より八幡を経て中津に入り、松垣昧々氏方を訪れている。(松垣昧々氏の日記に記載があるという)

  その後宇佐・別府・日田を巡り、福岡県二日市市に向かったことは資料によって判明している。なおこの時水分峠を越える時の句で“春もすっかり鶯うまくなっている”がある。
 
  以上のことから中津に四回来たという木村又郎氏の記憶は正しいと思われる。
 
  この外に大正14年10月、佐伯の工藤好美氏方を訪れていることは、植山正胤氏の著作「山頭火研究」で明確である。したがって現存する諸資料で前後五回の来県は確実と思われる。


(文責;山口高)

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木賃宿とはどんな宿

山頭火が行乞放浪の旅で宿泊した旅館は、いわゆる木賃宿であるが、さて木賃宿とはどんな旅館だったのであろうか。

  辞書によれば宿泊料の安い粗末な宿屋とあるが、これでは内容が掴みにくい。そこで今少し掘り下げてみると…
 
  評論家・加太こうじ氏によると、大正末期から昭和初期に、東京中心部には約400軒ぐらいの木賃宿があって、一泊(食事は外食)20銭から30銭であったと書いてある。

  当時の利用者は労働者・諸遊芸人・行商人・托鉢僧等であったという。(新評社、山頭火の世界より)
 
  山頭火とは「層雲」の同人として長い交友のあった大山澄太氏によれば、戦前の日本には木賃(キチン)と稱するものがあった。

  ホテル・旅館・旅籠屋・安宿のもう一つ下の宿がキチンである。米は投宿者が持参せねばならない。

  山頭火は米5合を出していたと私に語った。夕と朝、二度炊いてくれる、その薪代を木賃(キチン)といった。

  その木賃と僅かなおかず代、宿泊料を含めて山頭火の漂泊した時代は最高50銭・最低20銭、多くは3~40銭といったところだった。
 
  山頭火の語ったところによれば、朝御飯の半分を残し、柳製の弁当箱に自分で詰め、梅干・佃煮など汁のないものを残し、弁当箱の隅にちょこんと置いたという。
 
  風呂はあるが、電灯は八畳の間5人泊まりでも小さいのがひとつ。そうした宿の設備、その他のサービス振りを総採点し、上中下に区別していたのである。(春陽堂、行乞記の解説より)
 
  東京周辺では食事は外食であったらしいが、その外のところでは山頭火の語った通り、一泊二食で現金と米で決済したらしい。

  この様な木賃宿も、昭和10年代頃から漸次姿を消していった。原因は戦争による召集・徴用などで利用者が減少した事や、米の配給制度が原因であったという。
(文責:山口高)

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山頭火の詠んだ「層雲」の俳句とは

  俳句の歴史は古い。奈良時代に詠まれた短歌は、室町時代に連歌の形式となって5・7・5と7・7が別れ、連歌の中の発句として、季節を含んだ5・7・5即ち17音の詩型が独立し、俳句となったといわれる。俳句の約束として若干の例外はあるものの、
  
  ※17音の枠にはまったものであること
  ※季語を含むこと
  ※文語表現であること

  以上をふまえ、俳聖といわれる松尾芭蕉の“古池や(5) 蛙飛び込む(7) 水の音(5)”を例にとって説明すると、全体として17音であり、季語は蛙にある。

  蛙は冬眠から醒め、土中から出てくるのは春ということで、蛙は春の季語になっている。さらに文語表現となっており、俳句の約束ごとはきっちりと守られている。
  
  このような俳句の型式は、明治40年代に至って新しい俳句運動が起こり、明治44年4月に萩原井泉水によって「層雲」が創刊され季題発止を訴え、さらに定型に促らわれず口語表現が主流となっていた。
  
  山頭火と「層雲」との関係は、大正2年萩原井泉水に師事し「層雲」3月号に初出句した。その後大正3年10月27日山口県熊毛郡田布施町の句会に出席し、この時井泉水と初めて対面した。その後大正5年3月には「層雲」の俳句選者となっている。
  
  山頭火はその生涯で詠んだ俳句は、一説では約8万とも2万又は1万は超えているだろうと様々であるが、そのうち一番短い俳句は“陽を吸う”というたった4音の句である。

 これなどは古来よりの伝統俳句、即ち有季・定型・文語体を尊重する側から見れば「層雲」の指向する自由律俳句は正に異端と写るであろう。

 ごくありきたりの人間がホロリと出した言葉のような、“陽を吸う”は何を言わんとしたのか一見判断に苦しむが、山頭火の生きざまを追求すれば理解が深まっていく。

 この句は昭和3年に生まれたもので、このころ放浪流転の旅を続ける中で、泥酔のはて、警察に保護留置されることも度々あったという。

  薄暗い留置場、そして停滞したような空気、このような留置場の中での一日は辛く厳しい。ある朝突然釈放され外に出る。

  陽がまぶしいが、思いきり光と共に新鮮な空気を腹一杯吸って生きかえる。よし、また行乞流転の旅にでよう。
 (文責:山口高)

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山頭火とはどんなひと

6回にわたって山口高氏の山頭火の大分での足跡研究成果をご本人の了解を得て掲載します。

目  次


・山頭火とはどんな人                                                  
    
・山頭火の詠んだ「層雲」の俳句とは                        

・木賃宿とはどんな宿                                                     

・山頭火はなんど大分県に来たのか                         

・山頭火 大分県を詠む                                   

・山頭火の句碑は大分県内にいくつあるのだろうか 
     
  漂泊の俳人といわれる山頭火は本名・種田正一といい、父種田竹次郎・母フサの長男として、山口県佐波郡西佐波令村(現防府市)に生まれた。
 
  種田家は裕福な地主で近隣の人々には「大種田」と尊敬され、正一は大勢の使用人に「正様」と呼ばれ、なに不自由のない境遇の中で幼年期を過ごしてきた。
 
  父竹次郎は15才で家督を相続したが、このトシで種田の大屋台を支えるには荷が重すぎたようだった。役場に勤めていた関係から時の政友会とのつながりができ、すすんで政治にかかわり、熱くのめり込んでいった。

加えて女癖が悪く妾も2・3人いたということから、政治と女道楽に放蕩の限りをつくした結果、出費は嵩む一方で、さしもの大種田もその屋台がぐらついていった。
 
  この様なことから妻フサは将来の財政不安を感じているとき、義母のコウより「嫁のお前が悪いから」と責められ、フサの立つ瀬はない状態になっていった。

明治25年3月6日フサはその責に堪えかね、屋敷内の古井戸に投身自殺をとげてしまった。山頭火11才の思いもかけぬ出来事であった。この事件が終生山頭火の脳裏から離れることのできないトラウマとなってしまった。 
 
  山頭火はのちに「私たち一家の不幸は母の自殺に始まる。」と書いているのをみても、いかに強烈な不幸の刻印となったかがわかる。
 
  佐波令村立松崎尋常高等学校を卒業した山頭火は、三田尻私立周陽学舎に入学した。この頃学友と回覧雑誌を発行した。
 
 明治32年9月県立山口中学校に編入、明治34年7月私立東京専門学校予科に入学、明治35年9月に早稲田大学文学部に入学したが、明治37年2月神経衰弱を理由に退学し、帰郷した。
 
  明治42年8月、父のすすめに抗しきれず佐藤サキノと結婚したが、家庭をかえりみず回覧雑誌「澪標」に山頭火の号で参加したり、郷土文芸誌に翻訳その他を発表するほか、「弥生吟社」の句会に「田螺公」の号で出席し定型俳句をつくるなど、文芸活動に熱中していった。
 
 山頭火と萩原井泉水とのかかわりは、大正2年井泉水に師事し「層雲」に山頭火の俳号で投句を始め、大正3年10月山口県田布施町の句会に出席した井泉水と初対面し指導を受けた。
 
  これより先、父竹次郎は吉敷郡大道村の酒造場を買収し酒作りを始めたが、仕事には不熱心で相変わらず懷手の旦那稼業であったし、山頭火は文学三昧で酒造場経営には熱が入らず、さしもの大種田も傾き、ついに大正4年4月破産し、父竹次郎は行方不明
 古書屋は好評だった。扱う商品は古書から複製名画、ブロマイド、額縁へと拡大していった。

山頭火は店を妻に任せ、自分は額縁を風呂敷に包み行商に出歩いていたが、途中で友人に逢うと一緒に飲み屋に入り、いつも泥酔して帰る状態が続き商売にはならなかった。
 
 大正8年10月文学の夢を捨てきれず、先に上京していた重森唯士(第五高等学校から文部省へ転勤)を頼って上京し、東京市セメント試験場でアルバイトをしながら生活していた。

そこへ或る日、妻サキノさんの実家から一通の手紙が届いた。それはサキノさんの実兄からのもので、中には離婚届が同封されていた。

山頭火は妻サキノさんも同意のことと思い(実はサキノさんは知らなかった)用紙に捺印して返送し、離婚は大正9年11月に成立した。
 
 大正12年9月、熊本に帰ってきた山頭火は「雅楽多」を手伝っていたが、大正13年12月末酒に酔い、熊本市公会堂前を進行中していた路面電車の前に仁王立ちし、急停車させる事件を起こしてしまった。

電車の乗客や多くの野次馬等で大騒ぎになった。この時熊本日日新聞社の大庭記者が機転をきかせ山頭火を素早く市内にある報恩寺に連れて行った。


それから昭和15年6月3日迄、ある時期は一時的に定住してこともあったが、 其のほとんどを北は岩手県平泉から、南は鹿児島県枕崎まで全国5万キロメートルの漂泊を終え、親友大山澄太氏の世話で松山へ行き、御幸町の御幸寺境内の一草庵で、土地の俳人・高橋一洵氏、藤岡政一氏等の支援を受け、ほとんど行乞をせずとも暮らしは出来たようで、「柿の会」と名付けた句会を指導し、自らも一千句を詠むなど俳句三昧の生活であったらしいが、酒を捨てることはできなかったという。
 
 昭和15年10月10日、一草庵で「柿の会」の句会が催されたが、山頭火はこの日の午後脳溢血で倒れ、句会には参加できず寝ていたところ、11日午前4時心臓麻痺でかねて念願どおりのコロリ往生を遂げた。

山頭火59才の秋である。
 
 最後の句は“もりもりもり上がる雲へ歩む”であった。死を前にしてなお歩き続けたいと、強い意志を持っていた山頭火に感心するばかりである。
 
 なお、山頭火の墓は山口県防府市の護国寺境内にあり、墓碑には俳人種田山頭火と書いてあるが、戒名は親友久保田白船によって山頭火居士とつけられた。

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