カテゴリー「M男の映画評論」の21件の記事

2008年5月11日 (日)

ノー・カントリー

今やこのブログの共同執筆者とも言えるM男さんの映画評論の今回は「ノー・カントリー」
今回は「なぜオスカーなのかわからない」と手厳しいです。
バランスをとる為にこの映画を2007年のNO1に推した人のコメントを下に掲げておきます。
ではどうぞ・・・
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シネマぶらり観て歩き(111)
             ノー・カントリー


メキシコ国境に近い砂漠で狩りをしていたルウェリン・モス(ジョシュ・ブローリン)は死体の山に出会う。そこには、大量のヘロインと現金200万ドルが残されていた。危険を感じながらも大金を持ち去ったモスはすぐさま追われる身になった。追うのは殺し屋アントン・シガー(ハビエル・バルデム)。次々に居所を変え、必死に逃亡するモスをあたかも知っていたように見つけ出し、銃を乱射した。そしてことの真相を知った老保安官エド・トム・ベル(トミー・リー・ジョーンズ)はモスを救うべく二人の後を追った…。
暗い映画だ。えんえんと殺人が続く。映画はモスがハンティングする場面で始まり、全編、狩の緊張が続く。観客は追われるモスに感情移入し、かつての映画にはない恐怖を味わう。終盤に夢の場面が登場する。現実のなかで生きる希望を表そうとしたのだろうが、負の余韻がかき消してしまう。
一言で言えば、この作品の特徴は恐怖感を極大化させたことにある。
シガーは怖さのあらゆる要素を持っている。ぎょろりと見開いた目、無表情な顔、威圧的な肉体、ナチスのヘルメットに似た異様な髪型、見た者は思わず立ちすくむ。
次に、行動の怖さ。シガーはモスを追い、潜んでいそうな空間に銃を乱射する。たとえ、人違いであっても表情は変わらない。そして、出会った市民にコイントス(コインの裏表を当てるゲーム)を強制し、相手が外れたら殺す。遭遇しただけで殺される不条理、次々と出来る死体のおびただしさ。観客はある時はモスに、ある時は市民にわが身を重ね、戦慄する。パンフによると、原作者コーマック・マッカーシー(「血と暴力の国」扶桑社刊)はこの暴力を「純粋悪」(pure evil)と呼んでいるそうだ。聞きなれない言葉だが、人間感情が一切通じない悪魔と理解すれば納得する。悪魔は狡知を駆使して人間を地獄に陥れる。ボンベに圧縮空気を溜めたエアガンや完璧なまでの消音銃の無機質な光が脳裏に残る。
私は味わう恐怖が殺人者へのそれであることは論を俟たないとしても、圧倒的にはシガーの「抽象性」に起因すると考える。視線を隠すサングラスが不気味なように、正体の知れないものは怖い。(逆に「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」のように分かってしまったら恐怖心は消える)つまり、容貌や道具立てより、怖さは彼の得体の知れなさから来ている。それは、相手が何を考えているのかわからない怖さである。
人はみな自らの行動原理を生み出す価値観をもっている。追うシガーにも価値観があるはずだ。殺人を重ねて200万ドルにこだわる何かがあるはずだ。しかし、映画は彼がどのような人間か、何のために殺し屋をやっているのか一切説明しない。ただただ、圧倒的な迫力で獲物を追い詰めていく。殺人が起きる時は決まって人通りがなかったり、密閉された部屋のなかであったりで、その孤独さが死ぬ恐怖を倍加させる。さらに効果音楽がない。銃撃音のあとは静寂が支配するのみ。その怖さ。コーエン兄弟はこれらを上手く使って、ひとつの寓意あるストーリーに仕立てた。
アメリカの隠喩であることは伝わってくる。アメリカ大陸にわたったアングロサクソンは他民族や他国侵略を繰り返してきたが、かつては大義名分があった。神の御心の示すままにであったり、自由と民主主義のためであったりで、その「正しさ」を世界に発信してきた。ところが、最近のアメリカは「9.11テロ」や「大量破壊兵器」にまつわる情報が誤りだったと判明した後もアフガンやイラクに居座り続け、大量殺戮を続けている。「正しさ」の原理に返ることができなくなっている。
行き着くところ、それはニヒリズムの世界だろう。この思想は社会の善悪や人生の意義・目的などには無関心であり、自分の身の回りに関する支配とその手段としての武器、金だけが真実である。映画はこの行き着いた世界を示す。
しかし、作品はここから内面的な深化を遂げることはない。本当に恐ろしい悪魔は、いつも市民たちの諦観や絶望の背後でほくそ笑んでいるのだがそこは描かれない。シガーのあっけない結末には腰を折られるし、ラストの夢の部分が有効に働いているのか疑問である。現実の不条理を切り取ったとは言えるものの、人間を描いたという点では同じコーエン兄弟による「ファーゴ」(1996)が優れている。
原題はNo Country for Old Men、“年寄りのいる国はない”ほどの意味。老保安官エドが法と秩序のシンボルとして登場するが、シガーは彼の手には負えず、不安と諦念が漂うことを暗示する。邦題はfor Old Menを省略したので分かりにくいものになった。
第80回アカデミー賞最優秀作品賞など4部門を受賞。
                                       (M男)
―――――――――――――――――――
『ノーカントリー』は『ゲッタウェイ』以来最高の現代西部劇で、またかつてないほど素晴らしい小説の完璧な脚色だ。最大の驚きは、サイコパスの殺し屋アントン・シガー役として、映画を盗みかねない、かつてない怪演を披露しているハビエル・バルデムだ。  ― スティーブン・キング

 ノー・カントリー公式ホームページ


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2008年4月 3日 (木)

シネカノンの映画「歓喜の歌」

今回のM男さんの映画評論は「歓喜の歌 」です。
例によってかなり詳しいストーリー解説があります。
あまり知りませんでしたがこれを読んで見たくなりました。

M男さんの解説にはこう書いています。

 

「企画・製作・配給は「フラガール」「パッチギ」などのシネカノン。残念ながら、シネカノンに資金力がなく、宣伝不足ゆえあまり知られていない。しかし、観た人から口伝てに広がり、息ながく上映された。」

シネカノンを応援しましょう。
その為にブロガーができる事はこれを見て記事にすることでしょう。
「靖国」の東京での上映中止に見るように文化が支配者に支配されているとするならばそれを打ち破るのはそういういいものを選び抜く「文化力」とweb2.0の双方向性を使った「発信力」でしょう。
これを見ることができれば又書きます。
以下本文です。

続きを読む "シネカノンの映画「歓喜の歌」"

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2008年3月 9日 (日)

映画「アース」 

Earth_book


光栄なるM男さんの映画評論の最初の読者となって久しい。
本になる予定の由なのでこのブログでの連載開始の前の分はその本で読んで頂きたい。
今回は「アース」
かなり長い環境問題に関する論説です。
最後の方の文章が映画の感想文です。

こんな映画評論があってもいいでしょう。

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シネマぶらり観て歩き(109)

アース                    アメリカ

人は40才を過ぎたころから、一世紀という長さを実感できるようになる。私の祖父は明治28年(1895)生まれで平成4年に亡くなった。96歳の長寿でほぼ一世紀を生きた。曽祖父は弘化元年(1844年)、曾祖母は安政2年(1855年)生まれで、親父は江戸生まれに抱かれている。もし、曽祖母が祖父と同じ寿命まで生きながらえたなら、私は生まれた時、江戸生まれと接している。江戸時代は遠いようだが、ほんのちょっと前だ。
 生身の人間が生きることができるたった100年の間に推定年齢46億才の地球に異変が起こっている。
2007年に公表された国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の「第4次評価報告書」は地球温暖化について次のように述べる。(気象庁HPより)
「現在、二酸化炭素の濃度は379ppm、メタンの濃度は1774ppb 以上で、どちらも少なくとも過去65万年間のどの時よりも非常に高い可能性がかなり高い。最近の変化率は劇的で、前例のないものである。二酸化炭素が1000年間当たり30ppmを上回って増加することは一度もなかったが、現在、二酸化炭素はわずか過去17年で30ppm上昇した」
 さらに、温暖化がこのまま進んでいくと、21世紀末に「生態系については、多くの生態系の復元力が、気候変化とそれに伴う撹乱及びその他の全球的変動要因のかつて無い併発によって今世紀中に追いつかなくなる可能性が高い。これまで評価された植物及び動物種の約20~30%は、全球平均気温の上昇が1.5~2.5℃を超えた場合、絶滅のリスクが増加する可能性が高い」と述べる。報告書はその他、海水面の上昇により、沿岸面積の30%が水没することや食料減産、伝染病の蔓延など深刻な予測を提示し、温暖化防止の緊急性を警告する。
私には生物の2~3割が絶滅する環境で、人間が生存できるというイメージが持てない。報告書を読み進むうちに、脳裏に浮かんだのはブラックSFの世界だった。
気温上昇により、生物の多様性、食物連鎖が断たれる。洪水と乾燥により、土が流れ、砂漠化が進む。農業や漁業、畜産業が成り立たず、食料供給が乏しくなる。開発途上国では飢餓により、国そのものが滅んでいく。人間にとって最低なくてはならないものは空気と水と食料である。水は海水をろ過して得た。野菜は工場のなかでつくった。感染症を避けるために、お金持ちはシェルターのなかで暮らした。(なにやら、少年の頃読んだ「月世界の暮らし」に似ている)しかし、工場労働者が薬の効かない伝染病で倒れて稼動できなくなった。お金を持っていてももはや買う物がない。「金って何にも役にたたないんだ」最後まで生き残った男が吐き棄てるように言った。(男はヘッジファンドのCEOにしよう)
 このストーリーを私たちは笑えるだろうか。いや、ひょっとしたらこのSFを私たちは地で行っているのかもしれない。
 環境問題は人間にとって実にやっかいな問題だ。現実のことではなく、近未来のことでイメージ力に負うところが大きい。これには、一定の文化水準や民度が求められる。なにより、利害がからむ。国内の水問題一つとっても利益は相反する。大きな自治体は遠く離れた山にダムをつくり、そこから水を引くが、地元の村はその水道水を高い料金で買うことになる。あるいは大きな自治体はよその河川に堰をつくり、導水するが、下流の農家は灌漑用水が不足し、漁民は魚がとれなくなると反対する。こうした利害対立は都市と地方、第1次産業と第2・3次産業、工業国と開発途上国というようにどこまでも広がる。
現在の地球温暖化防止の障害は世界第一位の温室効果ガス排出国であるアメリカが経済発展の妨げになるという理由で京都議定書から離脱していることにある。日本政府も実際には追随している。第2の温室効果ガス排出国である中国は途上国ということから京都議定書では目標数値設定を免除されている。
このような現実に目を奪われて、人間は所詮、貪欲な生き物だ、経済成長を止めるのは不可能だとする意見がある。何かを努力して、結果及ばなかったのは致し方ないことである。しかし、46億年の時間をかけて、奇跡的に知性をもつ生物体となった人間の到達した結論がそれだとすると余りにも寂しい。それに、いずれ滅ぶという諦観は戦争に反対する理由も弱いものにする。
先ほど、利害がどこまでも広がると述べた。実際には「どこまでも」といっても限りがある。
あくまで、地球の上での話だ。そうならば、地球の上に棲むありとあらゆる生き物が安全に暮らせる方法を考えるしかない。核兵器だって人間がつくったものだ。人間がつくったものは、人間が廃棄できると考えるのは自然なことだ。幸い、EU諸国が温暖化防止で世界をリードしている。 
人間は叡智を集めて、環境問題をきっと解決するにちがいない。その思いから肯定的なイメージを膨らませた。
20XX年、国連に世界各国の憲法が持ち寄られた。「地球環境法」をつくろうとの呼びかけに応えたものだ。憲法だけでなく、世界中の思想・文学や伝承民話の類も持ち込まれた。なぜなら、この法は従来の個人や企業・国家間の権利の枠組みでは収まりきれない新たな考え方を必要とするからだ。それらを超えた絶対法にしないかぎり、各国の利害対立の前に吹っ飛んでしまう。ドイツ代表からは中世、収穫の良し悪しを平等にするために、農民が耕地を年毎に交換した制度が紹介された。それを聞いたアメリカ代表が「我らの祖先は西部開拓時代、インディアンの襲撃の危険性を平等にするために幌馬車隊のしんがりを交代しながら進んだ」といって、会場をシラケさせた。
日本代表の発言が最も自信に満ちていた。日本では国内を疲弊させた新自由主義的政策に訣別する新しい政権が誕生していた。「列島北部に住むアイヌ民族は動物や自然のなかに神を見て、尊敬し、かれらと共生する哲学をもっていました。農民は水争いを避けるため、平等に各田んぼに水が張れるような取水の技術と定めをもっていたのです。農民は排泄物を肥料にし、漁民は魚を取るために山や野に木を植えました。明治時代まで、自然に帰らない廃棄物はなかったのです。循環型社会のモデルは日本にはことかきません。なによりも、戦争への反省から制定した憲法第九条が最大の環境破壊である戦争を抑止してきました……」
こうして、「地球環境法」は日本のリードのもとに制定された。イギリス代表が閉会の挨拶で述べた。「かつて、わが国の政治家が政治は国民の文化水準を映す鏡であると言いました。今、地球に住む生きとし生けるものの知性がここに輝いています」
拍手が起こり、各国代表が互いに抱き合った。この頃、日本では世界遺産に指定された知床半島に流氷が訪れることはなく、それらが運ぶ栄養で育った鮭が北海道の川を遡ることも稀になっていた。ヒグマは絶滅の危機にあった。しかし、地球の復元力が残っており、法施行によってすんでのことに温暖化にブレーキがかかった。監視事務局は京都に置かれた……
映画は温暖化防止をテーマにしてはいない。登場するのは様々な動物たちである。最初は白熊。長い冬から目覚め、生まれたばかりの小熊が雪面を滑り落ちる姿は屈託がない。しかし、漁に出た母熊の足元には例年張っていた氷はなく、アザラシを獲ることが出来なかった。獲物をとれないことは死を意味する。カメラは北極から南下して各地に棲む様々な命の営みをいとおしむように見つめる。
個体数40頭になり、絶滅寸前のアムールヒョウ、水を求め、灼熱のカラハリ砂漠をえんえんと歩くアフリカ像の群れ、日光と雨に恵まれたパプアニューギニアの森で求愛の踊りを見せるカタカケフウチョウ、そして、息を飲むソメイヨシノの開花。最後は南極海を目指す2頭のザトウクジラに寄り添い、旅が終わる。なんと地球は美しいのだろう。この生物たちを大切にしたいと観たもののこころを締め付ける。
 監督は「ディープ・ブルー」のアラステア・フォザーギルとマーク・リンフィールド。世界26ケ国、200箇所以上のロケ地で撮影し、野外での撮影日数は4,500日に上るという。1秒間に2000フレームの撮影ができる超ハイスピードカメラなどの高度技術が臨場感あふれる映像を生み出した。その驚くべき映像をベルリンフィルハーモニーが美しい音楽で謳いあげている。

                                      (M男)
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2008年2月10日 (日)

日本映画の一つの到達点(母(かあ)べえ)

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M男さんの映画評論。
今回は話題の母(かあ)べえ
私は、まだ見ていませんが今年のベストテンは間違いない感じです。

M男さんによると
・キューポラに次ぐ小百合さんの出来栄え
・10歳の子の母親に違和感がない。
・吉永小百合はきっと山田洋次監督の心の恋人
そして
・日本映画の一つの到達点を築いた作品

辛口のM男さんがここまで絶賛するのは珍しい

吉永小百合はきっとM男さんにとっても心の恋人?

ちょっと年の差があるかな・・・・

無駄話はこれ位にして評論です。
(ネタバレあります。)

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2008年1月16日 (水)

 4分間のピアニスト

M男さんの映画評論 今回は 「4分間のピアニスト」

ハリウッドの計算づくの泣かせる映画(彼らは試写を経て、エモーションを高めるために映画を容易に作り変える。ニューハンプシャー州予備選で逆転勝利したヒラリー・クリントンの涙はハリウッド関係者の指南だと私は確信している)とは一味違ったドイツ映画の新しい波に注目する。

2007年度ドイツアカデミー賞では8部門でノミネートされ、見事作品賞と主演女優賞に輝いた作品。
たまにはハリウッド映画でなくドイツ映画を見よう。

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(107)シネマぶらり観て歩き

            4分間のピアニスト
                                    ドイツ

80歳になるクリューガー(モニカ・ブライブトロイ)は、60年以上女子刑務所でピアノを教えている。机を鍵盤代わりにして指を動かす少女ジェニー(ハンナー・ヘルツシュプルング)を見つけ、秘めた才能に驚く。人に裏切られ続け、自損行為を重ねるジェニーを見て、彼女の才能を花開かせようと所長を説得してピアノのレッスンを始める。が、2人には卑劣な妨害が加えられる。コンテストの決勝が迫るなか、ジェニーは暴力事件を起こしてピアノを禁止され、クリューガーも解雇される…。
 1年間にドイツ映画を3本見たことになる。「善き人のためのソナタ」(07年3月、「ぶらり」No.97)「ブラックブック」(07年4月、イギリス・オランダ・ベルギーと合作)と今作品である。「ブラックブック」はいま一つ心に迫らず、書きかけたままにしている。今回も似た感覚に囚われた。
「善き人」評で「サスペンスとハードボイルドが融合したようなこの映画は第一級のエンターテイメントにも仕上がっている」と述べた。仕掛けの大きさでは「ブラック」が上回っている。「善き人」において、観客は秘密警察・盗聴員ヴィースラーの心の葛藤に思いをはせたが、「ブラック」はナチスとたたかうレジスタンス内での裏切りが最後まで続き、私には手の込んだ犯人探し映画のように思えた。ある評論家が「ナチス=悪、レジスタンス=善」の図式を否定した「ポストモダン」の作品と書いていた。ismのことはこの際、横に置くとしても、この言い方で何か新しいことを言ったとも思えない。重要なのは表現しようとした主題であり、それが観客の共感を得たかどうかであろう。
映画は医療機関の評価に良く似ている。どんなに最新技術を駆使しようとメディア露出度が高かろうと、それだけでは持続的な集客力は作れず、決め手は総合的満足度としての「口コミ」である。案の定、「ブラック」はレジスタンス運動に新たな視点をもたらした作品としては浸透しなかった。
さて、今作では同性愛、殺人などそれぞれ負の人生を背負っている二人が刑務所で出会う。接点はピアノだった。互いに対立しながらも、当局や看守の妨害を撥ね退けてコンテスト決勝に進んでいく。ピアノを止められ、脱獄するジェニー。迫る演奏時刻、追う警察。遂にコンサート会場は警官で取り巻かれた。舞台には渾身の力で弾くジェニーの姿が。この息詰まるラストシーンは松本清張原作の映画「砂の器」の臨場感に似ている。
「囚われの身から自由へ」の希求は古くは「パピヨン」、やや近くは「ショーシャンクの空に」で描かれたテーマだ。
しかし、今作品が先にあげた作品群を越えたかというと私は疑問を持つ。
それは何故か。二人の内面描写が説明的に流れ、奥行きに乏しいからだ。ナチス時代にクリューガーの同性愛の恋人が弾圧されたことやジェニーと養父の忌まわしい関係もエピソードで挿入されている。しかし、淡々としすぎて心理的に迫る力が弱い。
外部の設定とも関係している。二人は残された人生を燃焼させようとしているが、それを妨げる障壁が弱い。「パピヨン」や「ショーシャンク」が作り出した絶望的な状況がこの作品にはない。スティーブマックイーンはけちな金庫破りをやっただけだが、仲間の裏切りによって南米ギアナに送られ終身刑となる。動物以下の扱いに耐え、ゴキブリを食べながら、ついに紺碧の海原へと飛翔したあの爽快感や「ショーシャンク」において無機質な収容所の上の青空に響いた「フィガロの結婚」の神々しさ(私はこれを「ぶらり」に何度書いたことだろう)が今作品にはない。それらは、観るものの魂を根底から揺さぶった。
パンフにクリス・クラウス監督へのインタビューがある。
― 一番描きたかったことはなんですか。
「まず、ストーリーができて、それが何を意味するかは、あとからはっきりしてくる。本作の個人の自由というものに強く関わっていると思う。そして、自由が最もその効果を表すのは、人間にとって最も非実利的な領域なのだということが次第にわかってきた。つまり、芸術を創造したり愛したりする行為において、自由はなくてはならないものなのだ。これが、本作の主題だと思う。人は内なる自由にいかにして到達するのか、また、どうしたらその手助けができるのか、ということを語っているのだ」
 ……
 私は監督が述べていることを否定しない。人は実用的なもの(持つこと)以上に実用的でないもの(あること)を大事にする存在だ。山田太一が書いた「岸辺のアルバム」は1974年の多摩川洪水で家とともに流されたアルバムを悔いる実話をヒントにした家族と時代のあり方を見つめた傑作だった。
今作品においてはピアノがその役割を果たし、意図したテーマを実現するはずであった。もし、諸々の重層性を終盤の美的世界(ラストは歌舞伎の大見得である)に収斂させていくことに拘り過ぎたあまり、結果的に内面の凝縮度が薄められたとしたら残念なことだと思う。
 とは言え、ハリウッドの計算づくの泣かせる映画(彼らは試写を経て、エモーションを高めるために映画を容易に作り変える。ニューハンプシャー州予備選で逆転勝利したヒラリー・クリントンの涙はハリウッド関係者の指南だと私は確信している)とは一味違ったドイツ映画の新しい波に注目する。
クリューガーを演じたモニカ・ブライブトロイとジェニーを演じたハンナー・ヘルツシュプルングが好演。ハンナは1200人のオーディションを勝ち抜いたまったくの無名女優だそうだ。2007年度ドイツアカデミー賞では8部門でノミネートされ、見事作品賞と主演女優賞に輝いた。
                                                        (M男)

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2007年12月 6日 (木)

自虐の詩

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M男さんの映画評論 今回は自虐の詩

M男さんの映画を観たきっかけは福岡県生まれの原作者の身内が会社のOBにいて、勧められたことによる由

プロデューサー 植田博樹さんの日記から

<2007年4月9日 16:45
試写終了

バカなことだが僕が一番
泣いてしまった

原作を取りにいったのが
飛行機ドラマをやってた頃だから
四年?

長かったなあ

終わって監督と
中谷さん阿部さんの主役の二人と
脚本家、プロデューサーたちと乾杯

会議室から見える葉桜が
季節の代わり目を感じさせてくれました。

(了)
ご参考
映画『自虐の詩』オフィシャルブログ


うちのかみさんは原作のイメージが壊れるから見に行かないと言っています。
この感想を読んだら見に行きたくなったのだけれどどうしよう・・・・

さあM男さんの映画評論本編の始まりです。

続きを読む "自虐の詩"

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2007年11月22日 (木)

映画「エディット・ピアフ」

 「死を恐れますか?」
 「孤独よりましね」
 「女性へのアドバイスをいただけますか?」
 「愛しなさい」
 「若い娘には?」
 「愛しなさい」
 「子供には?」
 「愛しなさい」
  ……

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2007年10月16日 (火)

湖水地方の自然はわが身と一体(改)

少し紹介が長すぎると指摘があったそうで短くし、連番も間違っていたので訂正しました。

M男さんの映画評論です。
今回は「ミス・ポター」
すでにこの映画については私も書いていますが私が言い足りなかったことを書いています。
それは

芸術を愛し、自然を愛するが、単に愛好家ではない。それを妨害する者とは断固としてたたかう、繊細にしてスケールの大きい「革命家」ともいえる彼女の生き様、葛藤が映画でもう少し描かれていたら、さらに深みのある作品になっただろう。  人に優しい人は自然に優しい。自然を大切にする人は人に優しい。もし、彼女がノーマン死後、世捨て人となってコテージで暮らしていたら、今日の湖水地方は日本で見るようなけばけばしい観光施設で埋め尽くされていたことだろう。ビアトリクスにとって湖水地方の自然はわが身と一体だった。1943年に彼女は亡くなるが、遺言には遺骨を湖水地方に散骨すること、その場所は「絶対、秘密にしておくこと」とあったそうだ。

ということです。
いかに彼女が湖水地方の自然の保全に貢献したかは湖水地方に行けばわかります。

記事詳細は次に

続きを読む "湖水地方の自然はわが身と一体(改)"

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2007年9月16日 (日)

私たちの幸せな時間

M男さんの映画評論です。

今回は韓国映画です。

この映画のホームページで南野陽子さん「韓国映画は深く深く人の心に入っていく作品が多いので好きです。」
と言っている。
また、「作品を見た観客たちは皆号泣で泣きはらした目で会場を後にしていた。 」と書いている。

死刑囚の男と自殺願望の女。人生の果てに訪れた、奇跡のような"幸せな時間"
映画「私たちの幸せな時間」の情報をお知らせします。
出演:カン・ドンウォン イ・ナヨン  監督:ソン・ヘソン
official blogから

翻訳は拉致被害者の蓮池薫さんです。

シネマぶらり観て歩き(103)

            私たちの幸せな時間
                                    韓国

ユジュン(イ・ナヨン)は経済的に恵まれて育ったが、母親から抱きしめられたことがない。歌手として一度は世に名を知られたが、今は退き、投げやりの人生を送っている。ある日、シスターである伯母に連れて行かれた刑務所で死刑囚のユンス(カン・ドンウォン)と会う。ユンスはかつて歌手ユジュンのファンだったと言う。響きあうものを感じて、ユジュンはいつしか毎週木曜日に叔母の代わりにユンスに会いに通うようになった。初めは固く心を閉ざしていたユンスの心にも変化が生じた……。
普段、我われは死を意識しないで暮らしている。そして、平均年齢くらいまでは生きるだろうと素朴に思っている。その象徴的な区切りはお正月だろう。「今年が良い年でありますように」と神社に詣で、賀状に言葉を添える。本当は、明日、交通事故で死ぬかもしれないし、数ヵ月後に病気で死ぬかもしれないのにそんなことは考えない。
この作品に登場する二人は死を意識している。ユジュンは誰にも言えない辛い体験を背負い、3度、自殺を図ったが死に切れず、無気力な日々を送っている。ユンスは3人を殺し、死刑執行の日を待っている。彼が実際に殺したのは一人だったが、相棒がユンスになすりつけてしまった。ユンスは裏切られても、抗弁するつもりもないほど、人間不信に陥っている。

続きを読む "私たちの幸せな時間"

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2007年8月16日 (木)

夕凪の街 桜の国(人の言葉や表情で)

M男さんの映画評論です。

佐々部監督とM男さんのやり取りが面白い。

又、佐々部監督の「一番大事なことを伝える時は、人の言葉や表情で伝えようって心がけています。これは浦山桐郎監督から教わったんだと思います。助監督としてついたことはないですけど、僕はどっかで、最後の浦山桐郎の弟子だと思っているんです」

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シネマぶらり観て歩き(102)
              夕凪の街 桜の国 
             
邦画

昭和33年の広島。原爆投下から13年。原爆で父と妹を失った平野皆実(麻生久美子)は、母フジミ(藤村志保)と暮らす。職場仲間の打越(吉沢悠)に愛を告白されるが、自分が生き残ったことが負い目になって素直に受け入れられない。そんな彼女に打越はそっと寄り添う。しかし、やがて皆実に原爆症の症状が……。
それから半世紀。水戸市に疎開して被爆を逃れた皆実の弟・旭(堺正章)は、子どもたちと東京で暮らしている。彼は時々、家から姿を消した。一体どこへ行っているのか。心配する娘の七波(田中麗奈)は友人とともに、旭の後を追う。行き先は広島だった……。
原作はこうの史代の同名の漫画。平成16年度文化庁メディア芸術マンガ部門大賞・第9回手塚治虫文化賞新生賞を受賞。それを監督、佐々部清が映像化した。

 “ぶらり”で佐々部監督作品を取り上げるのは「(61)半落ち」(2004.3)に続き、2回目である。次のように書いた。「結論的にいうと最後は主人公が守ろうとしたものが何であったかというテーマに収斂している。殺人事件を切り口にヒューマンな作品に転化させた筋運びは見事だ。しかし、意図の良い作品ほど注文もつけたくなる。社会的問題を扱ったにしては全体に不消化感が残り、シャープさに欠けるのだ」
 「半落ち」は2005年の第28回日本アカデミー賞最優秀賞を受賞した作品だが、ウェットな描写に抵抗を感じた。続いて観た「出口のない海」(06年)は血を流す場面が一切登場しない戦争映画だ。佐々部監督はひたすら人間の想像力を信頼し、内面に語りかける。しかし、あと一つ内部から弾ける力が欲しい。そう思った。続く今作、いささかの警戒感をもって館に足を運んだ。

半世紀を隔てた二つの時代を背景に、二人の女性を主人公に二つの物語(「夕凪の街」「桜の国」)が描かれる。貫くのは「ものいわぬ」被爆者である。 
結論から言えば、佐々部監督は自らのスタイルを貫き、かつ進化している。今作もやはり、被爆直後の死屍累々たる場面は登場しないし、原爆を憎む声高な叫びもない。代わりに彼が描いたのは込み合う銭湯で女たちが見せるケロイドの皮膚であり、一瞬の閃光が家族や恋人間に落とした心の闇だった。
前編「夕凪の街」で皆実に愛を打ち明ける打越。贈った刺繍入りハンカチがまぶしい。告げられた皆実はその喜びよりも、自分だけが幸せを受けてもよいのかと罪悪感にさいなまれる。打越は皆実が受け入れてくれるのを待つ。今考えるとじれったいような、この気持ちの交流が作品に命を吹き込んでいる。
しかし、それは表面的に過ぎたかもしれない。

皆実が死ぬ間際、吐き出す言葉がある。
「なあ、うれしい?13年も経ったけど、原爆を落とした人は私を見て『やったぁ、また一人殺せた!』って、ちゃんと思うてくれとる?」
遠慮がちの彼女にこんなに激しい気持ちがあったとは。観客は最後の最後に刃を突きつけられるのだ。
原爆は人の心に深く沈潜した。後編「桜の国」でドキリとする言葉がある。疎開して被爆を逃れた旭が「幼い時、ピカにあった」という結婚相手を母フジミに紹介する場面だ。
「あんた、被爆者と結婚する気ね」「なんのために疎開させ、養子に出したのか」
母がなじる。その言葉が館の暗闇の中に見えない波紋を作る。

人は皆、固有の評価軸をもっている。映画が良かったかどうかは、その人の価値観、感動点(心の沸点)プラス、私の経験では映画を観た時の体調によって決まる。私はそれに加えて、ある程度、客観的なものさしとして、エンディング時の観客の振る舞いに置いている。感銘を与えた作品で人は席を立たない。今作品では最後まで多くの観客が残った。(「バベル」をロングラン終了間際に観たが誰一人残らなかった)

実は、映画を見る一月前、佐々部監督の話しを聞く機会に恵まれた。講演後の質問コーナーで私は「シンドラーのリスト」をオスカー狙いだと激怒した淀川さんなどのエピソードを引き合いに出し、多様な「評価軸」(監督の側からは創作軸)について尋ねた。佐々部作品への評価も結構、振幅が大きいのだ。訥々とした調子で答えて頂いたが、残念ながらうろ覚えで自信がない。

映画のパンフレットに佐藤忠男氏との対談で同じような下りがあるので紹介したい。

佐 藤「あなたの映画は倫理観というか、そういうのが一貫していますね。いかにあるべきかと、いうようなことをいい加減にしないで、きちっとやっている」
佐々部「自分のなかの決め事は、どの映画でも通しているつもりです」
佐 藤「どういうことですか」
佐々部「一番大事なことを伝える時は、人の言葉や表情で伝えようって心がけています。これは浦山桐郎監督から教わったんだと思います。助監督としてついたことはないですけど、僕はどっかで、最後の浦山桐郎の弟子だと思っているんです」(パンフp.16一部略)

この意図が成功したかどうか。その結論は、読者が作品と切り結ぶなかから生まれる。
演技では二つの物語の主役を演じる麻生久美子・田中麗奈が素晴らしい。麻生は昭和30年代の顔になり、運命のはかなさを見事に演じている。田中はクールでお茶目な現代っ子になりきっている。驚いたのは、この二人が二歳しか違わないことだ。

最後に、佐々部監督のメッセージを送りたい。原作に感動して、この作品を映画化したいとメジャー系に持ちかけたが「地味で暗い」とことごとく拒否された。
意地でも作り、興行的にも成功させ、見返してやりたいと製作委員会を立ち上げ、完成させた。
日本人にしか出来ない映画だ。是非、多くの人に館に足を運んで欲しいと。
こう結んだ時、シャイな顔が引き締まった。
                                     (M男)
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2007年7月17日 (火)

サン・ジャックへの道

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M男さんの映画評論です。
今回はフランス映画「 サン・ジャックへの道 」です。

M男さんのコメントはいつもこんな風に深みがある。

 

人はタテ軸時間のなかでのみ生きている訳ではない。家族愛や友情、人の成長は経済効率とは関係がない。また、人の命には限りがある。だれでも、日常のいとなみのなかで喜びに出遭った瞬間に「時よ、止まれ」と思ったことがあるだろう。私たちは時々、時間を止めているのだ。

映画は人間にまとわりついたタテ軸時間を剥いで、内奥に潜む人間的自然(人間性)を浮かび上がらせる。そこには、もう一つの時間が流れており、もう一つの世界への入り口でもある。

さあ!

時間を止めよう。

タテ軸時間を剥ごう。

映画って本当にいいものですね。

さいなら さいなら さいなら


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2007年6月15日 (金)

シネマぶらり観て歩き100回記念 日本の青空

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M男の映画評論100回記念です。
このブログでは途中からしか中継してないがM男さんの継続的な努力に敬意を表します。
今やこのブログは何割かはM男さんのものです。
この映画評論はネタバレ評論です。
ネタバレがいやな人はスルーしてください。

M男さんと一緒に話を聞いた早稲田大学法学部教授 水島朝穂さんの言葉も紹介されています。

国民の側から正確に言えば「憲法を守る」ではなく、国や自治体に「守らせる」ということであり、それにより、国家権力を縛り、個人や人権を尊重させるということになる。

ジェームス三木さんの言葉も紹介されている。

文化や技術には国境がない。今、実施しようとしている日本国憲法改正こそ、アメリカ政府が望んでいるものだ

城山三郎さんの言葉も紹介されている。

戦争で得たものは『憲法』だけ。

M男さんの「ぶらり」映画宣言はこうだ。

私は「ぶらり」を書く際、無意識に憲法を意識してきたように思う。もし、他人から「なぜ、映画を観るのか」と問われれば、「おかしくならないため」と答える。映画はおかしくならないための姿見であり、生きることの一部である。

ではどうぞ。

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シネマぶらり観て歩き(100)
                           
                                   邦画

中山沙也可(田丸麻紀)は販売部数減少が続く雑誌「月刊アトラス」の派遣社員。編集部は復活をかけて「特集・日本国憲法の原点を問う!」を企画する。編集部員たちが白洲次郎やベアテ・シロタ・ゴードンなどの有名人を企画する中、沙也可は母(岩本多代)の助言により、全く名を知らなかった憲法学者・鈴木安蔵(高橋和也)の取材を進める。安蔵の娘・ 子(水野久美)と潤子(左 時枝)の取材を通じ、自由主義的な思想への弾圧下で在野の憲法学者として信念を貫いた安蔵の姿を知る。安蔵を支えたのは妻・俊子(藤谷美紀)だった。
 敗戦、新しい民主国家の建設に向けて知識人たちが行動を開始する。鈴木安蔵は高野岩三郎(加藤剛)、森戸辰男(鹿島信哉)、室伏高信(真実一路)、岩淵辰雄(山下洵一郎)、杉森孝次郎(坂部文昭)らと民間の「憲法研究会」を結成した。天皇を主権者とした大日本帝国憲法に変えて、国民が主権者になる新憲法を自分たちの手でつくろうという意気込みに溢れた集団であった。
日本政府が作成した憲法草案は大日本帝国憲法と似通ったものでGHQは採用を拒否。逆に「憲法研究会」の草案は高く評価され、GHQ案に多大な影響を与えた…。

映画は、連合軍の押し付け憲法という批判に応える作品。現憲法は占領下に生まれたが、下敷きになったのは鈴木安蔵ら民間人の「憲法研究会」が作った草案であったという歴史的事実を明らかにする。

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2007年5月16日 (水)

王室のあり方についてのマイルドな批判(クイーン)

恒例のM男さんのシネマぶらり観て歩きです。
今回は「クイーン」

この評論は英国の「クイーン」ではなく日本の皇室について書いています。

天皇に関する日経のスクープ記事にもふれブレアさんのことにも触れ社会性の高い評論となっています。

ではどうぞ・・・・

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(99)シネマぶらり観て歩き

               クイーン
                                 英仏伊合作

1997年5月、イギリス総選挙で労働党が大勝し、43才の若きトニー・ブレア(マイケル・シーン)が第73代首相に就任した。ファースト・レディとなった妻シェリー・ブース(ヘレン・マックロリー)は,女王エリザベス2世(ヘレン・ミレン)に謁見するが王政廃止派の彼女はその格式に苦笑する。8月31日、ダイアナがパリで「事故」死した。女王はチャールズ皇太子(アレックス・ジェニングス)とは一年前に離婚し、民間人となったダイアナに弔意を示す必要はないと沈黙する。皇太后(シルヴィア・シムズ)や夫のエディンバラ公(ジェームズ・クロムウェル)らもこれに賛同する。しかし、ダイアナを惜しむ国民の声は日毎に高まり、沈黙し続ける女王に世論の批判は大きくなる。若きブレアは国民と王室が離れていくことに危機を感じる…。
観終って、様々な感慨を抱く。イギリス王室の現状、日本の皇室との違い、政治家とくに首相と王室の関係。密着して描く王室一家の日常には説得力がある。
映画には王室だけでなく、ダイアナやその家族、ブレア一家が実名で登場する。「キネマ旬報」(2007年5月上旬号)を読むとヴェネツイア国際映画祭には多くの弁護士が潜入したとの噂がたったという。この種の作品には弁護士が絡むことはよくあるとフレアーズ監督が涼しい顔で答えている。その後、どこからもクレイムがついたとは聞かないので許容範囲内の描かれ方であったのか。
日本人の皇室観は宮内庁のフィルターを通した身辺記事と画像で知るのみだからひどく貧弱だ。少し、踏み込んで発言したり、書いたりしようものなら宮内庁記者室からは締め出され、右翼からは攻撃される。10年前の本島長崎市長狙撃事件は天皇の「戦争責任」発言が原因だった。
2006年7月20日に「日経新聞」がスクープを放った。故富田朝彦・元宮内庁長官が残した「富田メモ」(日記、手帳)にもとづいて、昭和天皇が昭和63年の靖国神社へのA級戦犯合祀に不快感を示したと1面トップで報道した。この企画は2006年度新聞協会賞を受賞した。しかし、右翼筋や政治家からの記事に対する攻撃には激しものがあり、同社は外部有識者を中心に構成する「富田メモ研究委員会」を設けてその真実性を再確認した。日本の皇室をめぐる言論は未だに自由を得ておらず、声を出しにくくする見えない力のもとにある。
それでも、近年少しずつ、皇室内の模様が知られるようになった。2004年5月10日、皇太子が欧州歴訪前の記者会見で「雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあった」と発言したことは記憶に新しい。皇室といえども生身の人間、社会や国の状況を反映してさまざまな葛藤、軋轢があるのは当たり前のことであろう。

さて、ドラマはブレアとクイーンの関係をタテ軸に、両者の間に流れる葛藤、心理の彩を描く。ブレアが初めて女王に謁見するシークエンス。ブレアに扮するマイケル・シーンの初々しさ、威厳を見せようとするクイーン。まるで、母と出来のよい息子のようである。儀礼を通り越した感情が流れる。しかし、この感情はダイアナの死後、世論が沸騰しゆく1週間の間に変わっていく。
ダイアナの死を民間人のものとして無視したい女王に王政廃止支持が国民の1/4に上り、国家の危機を覚えるブレアは哀悼の意をあらわすことを進言する。重大な局面にあって、立場を異にする二人に緊張関係が高まる。のめり込むブレア。筆者に最も印象深かったのは、女王を援助するブレアに妻シェリーが“嫉妬”する場面である。この構図は新鮮であった。
女王には守るべき格式と永い伝統がある。ブレアには国内外への影響を考慮したうえでの政治的思惑がある。二人はまず、その枠組みのなかで役割を果たさなければならない。しかし、役割を担うのは人間である。枠組みや役割との葛藤もある。女王と王室一家は結局、ブレアの忠告を受け入れて国民へのメッセージを発表する。
女王を変えたのは何だろうか。人は立場や思想が異なっても、他人と響きあうことがある。その本質は人間が持つ志、誠実さのようなものではないかと思う。職務への忠誠心にたいする尊敬、互いの立場への想像力が深いところで二人に共振を呼び起したのであろう。作品はブレアの視点から、そこに到る心の襞を描いて人間エリザベスを浮かび上がらせる。外では常に威厳をたたえる女王だが、本作ではユーモアを解し、4輪駆動車を操る女性としての一面も描かれている。女王はタフさを兼ね備えたイギリス国民の母なのだ。
それでは単なるクイーン賛歌なのかということである。なるほど、苦悩する女王を描いたという意味では従来の王室物を超えているが、私が注目したいのは映画が黙示する歴史的な見地である。それは何かというと、「制度」と「現実」の矛盾・葛藤と変化の方向を示唆していることである。半世紀前なら、王室はダイアナの死を民間人のものとして無視することはできたであろう。しかし、ダイアナはブレアがpeoples Princesと表現したほどの存在である。国民が許さなかった。宮殿の前に手向けられた無数の花束が王室のしきたりを変えたのである。映画ではクイーンの内面描写に焦点を当てているが、冷静に見れば王室のあり方についてのマイルドな批判ともなっており、このあたりをスティーヴン・フリアーズ監督は実に上手く捌いている。
* 同監督は左翼で知られ、「ぶらり」No.37 (2002年3月)に第二次世界大戦前夜、リバプールにおけるファシスト党の活動を告発した「がんばれリアム」がある。
「見てきたような嘘」という慣用句がある。この作品はまさにそうだろう。だが、嘘といっても悪意のものもあれば、生活に潤いを与えるものもある。この作品は後者だ。
2007年アカデミー賞でヘレン・ミレンが主演女優賞を受賞した。最近もこの作品の話題はことかかず、女王がヘレン・ミレンを王室のお茶会に誘ったが出席を断ったなどと伝えられている。一方、ブレアは従来の労働党を否定した「第三の道」を打ち出して一時、支持率75%を誇ったが、アメリカのイラク戦争支持が仇となって凋落し、この6月に辞任する。
日本の皇室は100年後とは言わないまでも、50年後、果たして現在のイギリス王室の姿に近づいているだろうか。
                                  (M男)

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2007年3月15日 (木)

善き人のためのソナタ

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M男さんの映画評論、今回は先日のアカデミー賞で外国語映画賞を受けた「 善き人のためのソナタ」です。

ドイツの秘密警察から日本の公安警察に思いが及んでいます。

「約5千人いると言われる現代日本の諜報機関、公安警察(*)の情報収集能力はシュタージをはるかに超えているに違いない。」とか

私もサダムフセイン治世下のイラクで秘密警察を付けられたことがある。
なぜわかったかと言うと自分がお前の担当だとクルド人に教えられたから・・・
(イラクの話は前に行った講演のペーパーがありあます。)

日本の誰かにお前の担当だと言われる時代にはしたくないな・・

では・・・・

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シネマぶらり観て歩き(97)

善き人のためのソナタ
                                     ドイツ

1984年、冷戦下の東ベルリン。ドイツ民主共和国の国家保安省(STASI、シュタージ、秘密警察)に勤めるヴィースラー大尉(ウルリッヒ・ミューエ)は、文化部長から劇作家のドライマン(セバスチャン・コッホ)と舞台女優である恋人のクリスタ(マルティナ・ゲデック)が反体制的である証拠を手に入れるよう命じられる。成功すれば出世が待っている。早速、ドライマンの部屋に盗聴器を仕掛け、屋根裏から二人の言動を監視する。ある夜、ドライマンの誕生パーティが開かれ、多くの友人が集まった。国家から芸術活動を禁止されていた演出家イェルスカもそのなかの一人だった。彼は、ドライマンに誕生祝いとして楽譜「善き人のためのソナタ」を送る。
クリスタの初舞台を観て一目ぼれしたヘムプフ大臣は権力を利用して、関係を持つ。クリスタは大臣とドライマンの間で悩む。一方、盗聴を続けるうちにヴィースラーに変化が起こった。彼は国家を信じ、一筋に仕えてきが、盗聴器を通して知る「向こう側」の世界が彼のなかで閉じられていた感覚を開かせていった…。
ドイツといえば思い出すのは1989年のベルリンの壁崩壊である。群衆がブランデンブルク門そばの壁に上り、歓喜の声を上げながらハンマーを打ち下ろす映像が今でも脳裏に浮かぶ。この年は内外にて様々な事件が起こった。1月に昭和天皇が死去し、元号が平成に変わった。4月には消費税(3%)がスタート。6月に天安門事件が発生し、テレビで多くの日本国民が広場の学生に向かって発砲する中国人民軍を見た。同じ6月、戦後最大のスター、美空ひばりが死去。12月にはルーマニアのチャウセスク首相が公開処刑された。こうした事跡を改めて振り返ると一つの時代の区切りであったことが分かる。時代はとうに独裁権力による支配の終焉を告げていたのだ。
東ドイツは翌1990年、西ドイツに吸収される形で統一される。しかし、東ドイツの秘密警察シュタージについては、長い間タブー視されていた。17年を経て、ようやく人々は冷静に見つめることができるようになり、作られたのが今作品である。
付けられたタイトルはロマンスのような甘美な響きを持つ。抱くイメージはヒューマンドラマである。しかし、映画を観ての印象はサスペンス小説の読後感に似ている。観客をある種の怖さが襲う。しかし、その向こうに仄見えるものがある。絵で言うと一面をダークグレー色に厚く塗り込めたキャンバスの下から明るい色が滲む抽象画の世界だ。
ヴィースラーは二人の監視を続ける。盗聴器から聞こえてくる自由な会話、二人の間に揺れる愛、心が洗われるような「善き人のためのソナタ」の旋律。彼はある日、ドライマンの部屋からブレヒトの詩集を盗み出し、読む。すべ