カテゴリー「M男の映画評論」の27件の記事

2009年1月18日 (日)

「シネマ私の旅1999ー2008」

私の学校の先輩である杉谷雅博さんが映画の感想文を本にまとめられた。

「シネマ私の旅1999ー2008」という本である。

病院の社内報に書かれた映画評である。
おわりににはこう書かれている。

私が何よりよく観ようと努めたのは、作品に描かれた時代と人間であった。
したがって、映画雹と言うより映画を題材にしたエッセイというべきかもしれない。

言われるように私も、映画の紹介よりも杉谷さんの「エッセイ」が毎回面白かった。
良く杉谷さんの人間性が出ていた。

社内報に出た119編の内91編を収録している。

この内の最近の27篇は私のブログのコーナーであたったM男の映画評論http://ootsuru.cocolog-nifty.com/blog/cat6484715/index.htmlで私のコメントと共に紹介しているが多くはデジタル化されいない。
一部を読まれたい方はこのブログをここをお読み下さい。
全篇をお読みになりたい方はここから購入下さい。

以下フラガールのところの紹介です。

^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^^
フラガール!についてはすでにフラガール賛歌で書きましたがM男さんからも寄せられたので掲載します。
このブログはM男さん映画評論ブログでもあります。

「当時はこうして周りのみんなから信頼される人間になることが人生の最大公約数的な目標ではなかったか。決して、金持ちになること、勝ち組になることではなかったような気がする。子どもが生まれ、成長し、結婚し、孫が生まれる。親は子の成長に喜びを見出し、子どもも親の願いに応えようとした。そのために、一所懸命働いた。働くことによって、自分の成長と家族の幸せと戦後の復興がイクオールで結ばれているという誇りがあった。だから、仕事や生活の空間には良くなろうという意欲と充実感がみなぎっていた。」

最近の教育の問題事件を見るたびに「地域の教育力」という言葉を思う。
子どもは近所のおじさんや友達自身が教育していた。
昔の親は教育に今ほど関心がなかった。

自分もテストの前にあそんでいたら「中学校になったら試験の前は勉強するものだ」と近所のお兄ちゃんに言われた事を覚えている。

教育基本法や憲法九条があったから日本は戦後犯罪が一路減ってきた。
教育基本法に濡れ衣を着せてはいけない!
真犯人はほかにいる。

フラガール!から離れてしまった。
昭和三十年代が時代背景の映画が多かったのが確かに今年の特筆すべき事だろう。
私もフラガール!を今年のトップグループに評価する。
今年の自分ランキングを作ってみたい。
皆さんのランキングも教えて下さい。

何かがお気に召した方は
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以下M男さんの映画「フラガール!」評論です。

続きを読む "「シネマ私の旅1999ー2008」"

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2008年11月18日 (火)

その日のまえに(M男の映画評論最終回)

M男さんの映画評論は今回で最終回です。

今までの分は本になる予定です。

本になりましたらこのブログで紹介します。

最終回は 「その日のまえに 」です。

「おくりびと」よりもあざとさのない死を描きながら実は生を描いている、内面にせまる良い作品
だそうです。

再見!

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シネマぶらり観て歩き(117)

 その日のまえに              邦画

 

売れっ子イラストレーターの日野原健大(南原清隆)は妻とし子(永作博美)、健哉、大輔の二人の息子と幸せに暮らしていた。ある日、体調不良で受診したとし子は突然の余命宣告を受ける。夫婦は“その日”を迎える準備を始めた。スタートは最初に住んでいた町を訪問すること。18年ぶりに訪れた駅前通りは随分変わっていたが、少し入った商店街には思い出の店があった。結婚当時、暮らしていたアパートも残っていた。懐かしさがこみ上げてきた……。

 

けふのうちに

とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ

みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ

(あめゆじゅとてちてけんじゃ)

 

原作者・重松清と脚本家・市川森一はかつて読んだ宮澤賢治の「永訣

えいけつの朝」の「あめゆじゅとてちてけんじゃ」の不思議な余韻を頭の片隅にとどめていたのだろう。

)

市川は原作の後半にわずか数行あったこの詩を作品全体に膨らませ、監督・大林宣彦はそのイメージをスクリーンの上に映像の可能性ぎりぎりまで表現した。詩の情感や節度をいささかも失うことなく。

 

 

(いろの暗い雲から

そう)

(

えん)

  みぞれはびちょびちょ沈んでくる

  ああとし子

  死ぬといういまごろになって

  わたくしをいっしょうあかるくするために

  こんなさっぱりした雪のひとわんを

  おまえはわたくしにたのんだのだ

  ありがたうわたくしのけなげないもうとよ

  わたくしもまっすぐにすすんでいくから

  (あめゆじゅとてちてけんじゃ)  

 

賢治の2つ年下の妹トシ(とし子)は日本女子大を出た後、花巻高女の教諭をしていたが、大正111124才で病没する。死を前にした妹が賢治に「あめゆじゅ」(みぞれ)を取ってきてくれと頼む。妹が兄にしてやれるのは暗い部屋から表に出すことだけだった。賢治はジュンサイの模様のついた茶碗を天にかざし、みぞれを受けた。一度聞いたら忘れられない光景。かつて東北の旅で岩手を訪れた時、年配のバスガイドが朗読した詩と語りに私は思わず涙を流した。

「僕たちはいずれ訪れる和美の死を『その日』と読んだ」(原作から)

市川は原作の妻の名“和美”を賢治の妹と同じ“とし子”に変え、出身を岩手県にした。映画は「その日」を迎えるとし子の闘病と一家の日常を行きつ、戻りつしながら描く。基調をなすのはこの詩であり、物語全体の枠組みをなすのは賢治の世界である。

愛するものの死は辛い。しかし、夫婦は受け入れていく。とし子はその日を準備する。つとめて明るく振舞おうとするとし子の姿が観客の胸を締めつける。そして、入院。とし子は元気な姿を記憶に残したいと子どもたちとの面会を拒む。

「風呂からあがって髪を乾かし、歯を磨いておこうと洗面台の棚に手を伸ばした。スタンドに立つ歯ブラシは三本。青が僕、黄緑が健哉、白が大輔。和美は入院前に自分の歯ブラシを処分していた。

 手回しがよすぎるよな、と苦笑した顔が鏡に映る。鏡の中の自分と目があうと日常を保てなくなりそうなので、そっぽを向いて、歯ブラシをとった」(原作)

原作者はとし子のいない日野原家の日常を読み手のイメージのなかに静かに落としこんでいる。

説明過剰とも思える描写だがどこか透明感を帯びる。

大林監督はこのトーンをファンタジーの世界に置き換えた。

一家が住むマンションの壁にはとし子が青いペンキを塗りかけたままにしている。壁は空につながる。「あめゆじゅ」が降ってきた空だ。その明るく晴れ渡った空(壁)に飛行機雲がゆっくり伸びる。悲しみがトレースされる。

映画は夫婦を軸にかつて暮らした町に住む人々たちやとし子の親をめぐるエピソードを伏線として加える。彼らは「銀河鉄道の夜」や「セロひきのゴーシュ」などに出てくる賢治の作品の登場人物たちである。

圧巻はとし子の死から三ヵ月、病院の看護師長がとし子から預かった手紙を健大に渡す場面である。そこに書いてあったのは……。

死を題材にした作品だが暗く悲しい印象はない。あまりにも短い人生の悲嘆としてではなく、避けられないその日までひたむきに生きた時間を主人公と共有するからであろう。館を出て、あらためて気づくのは普段見えていない日常の尊さだった。

「やっぱり、海のにおい、するよ」

その日へ向けてスタートとなる電車のなかでとし子は言った。海辺はまだ遠くにあった。

 

 主役の南原清隆、永作博美が好演。南原はお笑いタレントのイメージを払拭させる演技。永作は病気が進行するなか、明るい笑顔の奥にぞっとするような悲しみを見せる。全編に流れるチェロが悲しい。生と死と宮澤賢治とファンタジーがスクリーン上で得も言われぬ化学反応を起している。大林監督の最高傑作といえるだろう。

 

                                   (M男)

*引用した詩は「宮澤賢治詩集」(浅野晃編 白鳳社)、原作は「その日のまえに」(文芸春秋)


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2008年10月17日 (金)

インツゥ・ザ・ワイルド

M男さんの映画評論です。

今回はインツゥ・ザ・ワイルドです。

レイトショーで9:10にに始まり終映は11:40だったそうです!
「モーターサイクル・ダイアリーズ」を思い出しながら観ていたら、撮影は同一人物だったそうです。
人間の死について考えることになりそうです。

ーーー

シネマぶらり観て歩き(116)
インツゥ・ザ・ワイルド
                                アメリカ

1992年9月、アラスカ、マッキンレー山の荒野でヘラジカを追っていたハンターの一団が廃バスのなかに男の腐乱死体を発見した。ジャーナリスト、ジョン・クラカワーは『アウトサイド』誌の編集長から男の謎に迫る記事を書くよう依頼された。男の名はクリストファー・ジョンソン・マッカンドレス。ワシントンDC近郊の高級住宅街で育ち、1990年の夏にエモール大学を優秀な成績で卒業後、姿を消していた。クラカワーは9千字からなる記事を『アウトサイド』に発表した後も追跡を続け、”IN TO THE WILD”(邦訳「荒野へ」集英社)として出版した。本に感銘を受けた俳優でもあるショーン・ペンが10年間の構想の後、映画化した。
クリス(エミール・ハーシュ)の父親はNASAに勤務し、その後、会社を立ち上げたアメリカ社会の成功者だった。クリスと妹カリーンはお金には不自由なく育った。父親には正妻と子どもがいた。だから、離婚するまでクリスと妹は私生児ということになる。両親はしばしば激しく喧嘩し、兄妹は父親のDVを嫌と言うほど見た。破綻した関係だったが外では良い夫婦だった。
大学卒業の日、お祝いに新しい車を買ってやると言う父親の申し出をクリスは拒否した。彼には自分で買った中古ダットサンがあった。彼は残った学資金を慈善団体に全額寄付し、手持ちの紙幣を燃やして、あてどのない旅にでた。なにものにも囚われない自由をもとめて。勿論、お金なしでは生きてゆけない。ヒッチハイクと日銭稼ぎの仕事を繰り返し、目的地アラスカ山脈の荒野へ到着した。そこには廃棄されたバスがあり、クリスはMagic Busと名づけてそこを住処に自力で生活をはじめた。彼が尊敬したトルストイのようなストイックな生活が続くはずであった……。
映画は原作にほぼ忠実に作られている。最期の場所となった廃バスとそこに至る旅路をカットバックで追う。彼は何を求めてアラスカに行ったのか。なぜ、バスのなかで死んだのか。抑制の効いた演出でクリスの足跡を追う。
青春期、社会が偽善と虚飾に満ちていると思うことがある。放浪の旅に出たり、小悪に手を出したりしてしばしばドロップアウトする。絶望して自死することもある。クリスもそんな若者の一人だった。彼は当座の問題として社会への妥協を拒否した。背景として父親への反発も無視できない。ともかくも卒業式の後、“Society! Society!”と唾棄しながら、旅立って行った。
映画では旅で出会った人々との交流が丹念に描かれる。クリスは決して人間嫌いではなかった。北カリフォルニアの大自然のなかでヒッピーのカップルとしばし旅をともにし、人生を語らった。サウスダコタ州の大農場で兄のように慕う男と会い、トラクターを操った。アウトサイダーたちが集まるスラブ・シティのコミュニティでは美しい歌手の少女と出会い、一途な思いを向けられた。カリフォルニアのソルトン・シティではフランツという老人とめぐり合い、お互いの身の上話をした。打ち解けあううちに、老人は自分の養子になってくれと懇願する。が、彼の心は一途にアラスカへ向かっていた。
クラカワーが『アウトサイド』誌の記事にたいする反響を述べている。「大量の投書が寄せられ、相当数の手紙はマッカンドレスを非難していた。なかには、ばかばかしい無意味な死と考える者たちもいて、記事の筆者である私も、彼を賛美しているとして非難された」(前掲書)。
映画への感想にも同種のものがある。昭和に育った中高年より、若い世代の方がクリスにたいして「愚か者」「甘ったれ」と手厳しいようだ。この非難はある意味、健全といえるし、また、今日という時代の余裕のなさを示しているともいえる。
しかし、彼には死ぬつもりは毛頭なかった。物質的には貧しいが精神的に満たされた生活を求めて山に入ったのだから。ただ、彼は社会を憎むことと社会が生み出したものを受け入れることの違いを混同したのかもしれない。あと少しの食料と荒野に生きる知識さえあれば彼はふたたび家族のもとへ帰ってきたはずだ。
クラカワーは同著「作者ノート」でクリスに対する評価は読者におまかせしたいと結んだ。しかし、原作を通底しているのは妹カリーンの視点である。カリーンは兄を深く愛し、尊敬していた。温もりのない家庭のなかで身を寄せ合って育ったかけがえのない兄である。
ペンはその視点を保持しながら、自然と人間、社会と個人などをコントラスト濃く浮き上がらせた。短かったけれどこう歩むしかなかった若い生命の燃焼。クリスの生き方にたいする相反する意見におそらくペンはどちらにもうなずきながら聞くことだろう。
クリスは死ぬ直前までつけた日記に神の啓示のごときメモを残している。
「幸福が現実になるのはそれを誰かと分かち合った時だ。僕の一生は幸せだった。みんなに神のご加護を!」
                                       (M男)


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2008年8月12日 (火)

歩いても歩いてもーアンビバレントなもの

人気のコーナー M男さんの映画評論 今回は「歩いても歩いても」

小津作品をみるような家庭劇です。ただ、タッチは現代。涙を流している人もいました。じんわりと心に残ります。家族は暖かく、しかし、やっかいで、時々どうしようもないものですね。(これもMさんの文章)

本当にそうなんです。!

「家族のなにげない会話のなかに生命の終わりと誕生という小宇宙を出現させた」秀作か?

シネマぶらり観て歩き(114)

    歩いても歩いても                邦画

ある夏の日、横山良多(阿部寛)はかつて開業医を営んでいた父・恭平(原田芳雄)と母・とし子(樹木希林)が暮らす実家を訪れる。良多は子連れのゆかり(夏川結衣)と結婚したばかり。いまは失業中している。長女・ちなみ(YOU)一家がすでに来ていた。その日は事故で亡くなった横山家の長男・純平の命日だった……。
 横山家の一日をドキュメンタリータッチで描く。館を出てからも、まるで自分が居合わせたかのような感触が残る。
ここで描かれた光景はだれしも、お盆やお正月などに経験している。久しぶりに親と会い、親族が集まる。兄弟や姉妹はそれぞれの道を歩んでいる。羽振りのよいものもいれば、うだつの上がらないものもいる。親との関係でも可愛がってもらったと思う人もいれば、疎まれて育ったと思っている人もいる。親子・兄弟の間で愛憎半ばする感情(アンビバレンス)が錯綜する。傍らにはそのつれあいが遠慮がちに座をしめており、その場所は半ば世間だ。
 さて、将来を嘱望されていた長男とは違い、父親とそりが合わない次男・良多は絵画の修復を生業としているが仕事がない。しかし、意地もあって失業していることを周囲に言えない。言えない良多に自動車のセールスをしている長女ちなみの夫が新型モデルを売り込む。負い目を背負った良多より辛いのは妻ゆかりだろう。子連れの再婚である。子どもは良多のことを「良ちゃん」と呼んでいる。このような設定にて進行するドラマはすでに激しい葛藤を内包している。

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2008年7月14日 (月)

西の魔女が死んだ

Top01
映画オフィシャルホームページより


今回のM男さんの映画評論は「西の魔女が死んだ」

M男さんは「同じようなテーマで山間の美しい四季を綴った「阿弥陀堂だより」の水準は高い」と
この作品の自然描写に奥行きの無さを感じている。

山紫水明の日本の芸術は自然描写に奥行きが求められる。
(少なくとも今まではそうだった)

「魔女は自分の直観を大事にしなければなりません。でも、その直観にとりつかれてはなりません。そうなれば、それはもう、激しい思い込みとなって、その人自身を支配してしまうのです……」
含蓄がある言葉だ。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
                                      
中学生のまい(高橋真悠)とママ(りょう)に「西の魔女が死んだ」という知らせが入った。「西の魔女」とはママのママ、つまり、おばあちゃんのこと。おばあちゃん(サチ・パーカー)はイギリス人で日本の田舎に一人で暮らしている。まいは不登校になった時、おばあちゃんと二人で田舎に暮らした。おばあちゃんは「自分は魔女」だと言い、まいに魔女になる訓練をほどこした……。
梨木香歩原作の大ロングセラーの映画化。原作(新潮文庫)は2001年に初版を出して以来、今年59刷を重ねている。映画を観てから原作を読んだ。映画は原作にほぼ忠実に作られている。
緑に囲まれたロッジ風のおばあちゃんの家を中心に進む。この作品の生命はちりばめられた数々の「ことば」である。事件や行動によって話が進展するのではなく、ことばが紡ぐ物語といえる。印象に残るセリフをいくつか紹介しよう。(原作から引用)

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2008年6月14日 (土)

映画は幸福論(最高の人生の見つけ方)

「極限すればあらゆる映画は幸福論につながる。様々な人生を描き、観客に提示する。幸せだったり、不幸だったり。そこには隠された作者の価値観がある。
しかし、死を前にした映画ともなればテーマは凝縮され、純化される。

そういうと誰しも思い浮かぶのは黒澤明監督の「生きる」(1952)だろう.・・・・・・」

こういう印象的な文章があった。
「いきる」はBSで近々やるのではないかな・・

M男の映画評論はますます快調です。
今回は「最高の人生の見つけ方

「極限すればあらゆる映画は幸福論につながる」

では今回の幸福論をどうぞ・・・・

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(112)シネマぶらり観て歩き

             最高の人生の見つけ方
                                   アメリカ

自動車整備工カーター(モーガン・フリーマン)は家の都合で大学進学を諦めたが、知的好奇心は旺盛で仕事中もラジオのクイズ番組に挑戦していた。ある日、検診結果を知らせる電話がなり、がんであることを知らせる。ただちに入院し、家族が見舞った。同じ病室に大金持ちのエドワード(ジャック・ニコルソン)が入院してきた。しかし、見舞い客は秘書だけ。二人の共通点は余命半年の末期ガン。カーターは冗談で死ぬ前にやっておきたいことをメモしたリストを作っていた。それを、見つけたエドワードはリストを追加した。そして、二人は周囲の反対を押し切ってリストを実行する旅に出た…。
極限すればあらゆる映画は幸福論につながる。様々な人生を描き、観客に提示する。幸せだったり、不幸だったり。そこには隠された作者の価値観がある。しかし、死を前にした映画ともなればテーマは凝縮され、純化される。
そういうと誰しも思い浮かぶのは黒澤明監督の「生きる」(1952)だろう。渡辺勘治(志村喬)という市役所の市民課長を務める53歳の男がふとしたことからがんで余命半年ということを知ってしまう。今まで死んだも同然の暮らしだった彼は、その日から「生きている」ことを実感し、残された日々を充実させたいと考える。勘治は妻をなくし、男手一つで息子を育てた。だが、息子は自分のことしか考えていない。やけになり、貯めたお金をパチンコやストリップショー、キャバレーに使った。しかし、心が満たされない。打ちひしがれて公園のブランコに揺られ、「ゴンドラの歌」を歌う。やがて、彼は人に役立つことをすれば生きがいを感じるのではと、住民から要望があった公園づくりに精を出す…。
もう一つ、「死ぬまでにしたい10のこと」(2003、カナダ・スペイン)。23歳の女性アン(サラ・ポーリー)は余命2ヶ月と告げられて、ひそかに死にゆく準備をする。原題は“My Life Without Me”、17歳で子どもを生み、子育てと仕事に追われて「私」というものがなかった主人公が淡々と自分と周囲を見つめる。今まで、気づかなかった日常生活の何気ない会話や所作がいとおしい。彼女は死ぬまでにしたい10のことを書き出し、実行する。リストの一つに“夫以外の男性とつきあう”という項目があって賛否を呼んだ。しかし、自分というものを持たなかったアンがしみじみと来し方を振り返り、残された家族を気遣う姿は心に響いた。
これら3つの作品は、基本的には同じ構造をもっている。死の「宣告」は時間を止める。今まで日常の暮らしで見えていなかったものが見えてくる。そして、死ぬまでの時間を充実したものにしたいと願う。
ここで「最高の…」は他の2つの作品と、やや異なる設定をとった。今までは当事者が自分で死ぬ準備をするストーリーだったが、二人の共同作業になる。
カーターのリストのうち、「荘厳な景色を見る」「見ず知らずの人に親切にする」「泣くほど笑う」などは精神的な充実を得たいということだろう。これに自動車整備工だった彼の憧れの車、「マスタングの運転」が加わったことは理解できる。しかし、エドワードが付け加えた「世界一の美女とキスをする」は愛嬌だとしても「スカイダイビング」「ライオン狩」などはワルノリというか、カーターの経済力では実現不可能である。(また、体力や体内カテーテル感染の心配もある)それを、エドワードが金にあかして実現する。家族を大切にしながら、つましく暮らしてきたカーターには異次元の世界ともいえる。つまり、映画の面白さは価値観や人生観の異なる二人が友情で結ばれ、ときには激しく火花を散らしながら、ある一つの結末に向かって進む。その過程に面白さがあり、それはそのまま人生は素晴らしいという人生賛歌になるはずであった。
しかし、ハリウッドを代表する芸達者を起用しているにもかかわらず、試みが成功したとは言いがたい。内面的に深まっていかないのだ。だから、予想されたハッピーな結末も喜びを生みだすまでにはいたらない。むしろ、いくつかのリストの実行場面では私の胸には死ぬときまでもアメリカンドリームかという虚しさすら去来した。邦題「最高の人生の見つけ方」に惑わされたのかもしれない。なにせ、原題は単純に“The Bucket List”(棺おけリスト)、とやかく言わず、やりたいことをやって楽しんであの世に行けば良いのだから。
監督は少年時代の冒険をノスタルジックに描いた傑作『スタンド・バイ・ミー』(1986)のロブ・ライナー。生きづらい世の中、邦題効果(?)と宣伝力により、観客動員に成功している。

                                    (M男)

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2008年5月11日 (日)

ノー・カントリー

今やこのブログの共同執筆者とも言えるM男さんの映画評論の今回は「ノー・カントリー」
今回は「なぜオスカーなのかわからない」と手厳しいです。
バランスをとる為にこの映画を2007年のNO1に推した人のコメントを下に掲げておきます。
ではどうぞ・・・
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
シネマぶらり観て歩き(111)
             ノー・カントリー


メキシコ国境に近い砂漠で狩りをしていたルウェリン・モス(ジョシュ・ブローリン)は死体の山に出会う。そこには、大量のヘロインと現金200万ドルが残されていた。危険を感じながらも大金を持ち去ったモスはすぐさま追われる身になった。追うのは殺し屋アントン・シガー(ハビエル・バルデム)。次々に居所を変え、必死に逃亡するモスをあたかも知っていたように見つけ出し、銃を乱射した。そしてことの真相を知った老保安官エド・トム・ベル(トミー・リー・ジョーンズ)はモスを救うべく二人の後を追った…。
暗い映画だ。えんえんと殺人が続く。映画はモスがハンティングする場面で始まり、全編、狩の緊張が続く。観客は追われるモスに感情移入し、かつての映画にはない恐怖を味わう。終盤に夢の場面が登場する。現実のなかで生きる希望を表そうとしたのだろうが、負の余韻がかき消してしまう。
一言で言えば、この作品の特徴は恐怖感を極大化させたことにある。
シガーは怖さのあらゆる要素を持っている。ぎょろりと見開いた目、無表情な顔、威圧的な肉体、ナチスのヘルメットに似た異様な髪型、見た者は思わず立ちすくむ。
次に、行動の怖さ。シガーはモスを追い、潜んでいそうな空間に銃を乱射する。たとえ、人違いであっても表情は変わらない。そして、出会った市民にコイントス(コインの裏表を当てるゲーム)を強制し、相手が外れたら殺す。遭遇しただけで殺される不条理、次々と出来る死体のおびただしさ。観客はある時はモスに、ある時は市民にわが身を重ね、戦慄する。パンフによると、原作者コーマック・マッカーシー(「血と暴力の国」扶桑社刊)はこの暴力を「純粋悪」(pure evil)と呼んでいるそうだ。聞きなれない言葉だが、人間感情が一切通じない悪魔と理解すれば納得する。悪魔は狡知を駆使して人間を地獄に陥れる。ボンベに圧縮空気を溜めたエアガンや完璧なまでの消音銃の無機質な光が脳裏に残る。
私は味わう恐怖が殺人者へのそれであることは論を俟たないとしても、圧倒的にはシガーの「抽象性」に起因すると考える。視線を隠すサングラスが不気味なように、正体の知れないものは怖い。(逆に「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」のように分かってしまったら恐怖心は消える)つまり、容貌や道具立てより、怖さは彼の得体の知れなさから来ている。それは、相手が何を考えているのかわからない怖さである。
人はみな自らの行動原理を生み出す価値観をもっている。追うシガーにも価値観があるはずだ。殺人を重ねて200万ドルにこだわる何かがあるはずだ。しかし、映画は彼がどのような人間か、何のために殺し屋をやっているのか一切説明しない。ただただ、圧倒的な迫力で獲物を追い詰めていく。殺人が起きる時は決まって人通りがなかったり、密閉された部屋のなかであったりで、その孤独さが死ぬ恐怖を倍加させる。さらに効果音楽がない。銃撃音のあとは静寂が支配するのみ。その怖さ。コーエン兄弟はこれらを上手く使って、ひとつの寓意あるストーリーに仕立てた。
アメリカの隠喩であることは伝わってくる。アメリカ大陸にわたったアングロサクソンは他民族や他国侵略を繰り返してきたが、かつては大義名分があった。神の御心の示すままにであったり、自由と民主主義のためであったりで、その「正しさ」を世界に発信してきた。ところが、最近のアメリカは「9.11テロ」や「大量破壊兵器」にまつわる情報が誤りだったと判明した後もアフガンやイラクに居座り続け、大量殺戮を続けている。「正しさ」の原理に返ることができなくなっている。
行き着くところ、それはニヒリズムの世界だろう。この思想は社会の善悪や人生の意義・目的などには無関心であり、自分の身の回りに関する支配とその手段としての武器、金だけが真実である。映画はこの行き着いた世界を示す。
しかし、作品はここから内面的な深化を遂げることはない。本当に恐ろしい悪魔は、いつも市民たちの諦観や絶望の背後でほくそ笑んでいるのだがそこは描かれない。シガーのあっけない結末には腰を折られるし、ラストの夢の部分が有効に働いているのか疑問である。現実の不条理を切り取ったとは言えるものの、人間を描いたという点では同じコーエン兄弟による「ファーゴ」(1996)が優れている。
原題はNo Country for Old Men、“年寄りのいる国はない”ほどの意味。老保安官エドが法と秩序のシンボルとして登場するが、シガーは彼の手には負えず、不安と諦念が漂うことを暗示する。邦題はfor Old Menを省略したので分かりにくいものになった。
第80回アカデミー賞最優秀作品賞など4部門を受賞。
                                       (M男)
―――――――――――――――――――
『ノーカントリー』は『ゲッタウェイ』以来最高の現代西部劇で、またかつてないほど素晴らしい小説の完璧な脚色だ。最大の驚きは、サイコパスの殺し屋アントン・シガー役として、映画を盗みかねない、かつてない怪演を披露しているハビエル・バルデムだ。  ― スティーブン・キング

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2008年4月 3日 (木)

シネカノンの映画「歓喜の歌」

今回のM男さんの映画評論は「歓喜の歌 」です。
例によってかなり詳しいストーリー解説があります。
あまり知りませんでしたがこれを読んで見たくなりました。

M男さんの解説にはこう書いています。

 

「企画・製作・配給は「フラガール」「パッチギ」などのシネカノン。残念ながら、シネカノンに資金力がなく、宣伝不足ゆえあまり知られていない。しかし、観た人から口伝てに広がり、息ながく上映された。」

シネカノンを応援しましょう。
その為にブロガーができる事はこれを見て記事にすることでしょう。
「靖国」の東京での上映中止に見るように文化が支配者に支配されているとするならばそれを打ち破るのはそういういいものを選び抜く「文化力」とweb2.0の双方向性を使った「発信力」でしょう。
これを見ることができれば又書きます。
以下本文です。

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2008年3月 9日 (日)

映画「アース」 

Earth_book


光栄なるM男さんの映画評論の最初の読者となって久しい。
本になる予定の由なのでこのブログでの連載開始の前の分はその本で読んで頂きたい。
今回は「アース」
かなり長い環境問題に関する論説です。
最後の方の文章が映画の感想文です。

こんな映画評論があってもいいでしょう。

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シネマぶらり観て歩き(109)

アース                    アメリカ

人は40才を過ぎたころから、一世紀という長さを実感できるようになる。私の祖父は明治28年(1895)生まれで平成4年に亡くなった。96歳の長寿でほぼ一世紀を生きた。曽祖父は弘化元年(1844年)、曾祖母は安政2年(1855年)生まれで、親父は江戸生まれに抱かれている。もし、曽祖母が祖父と同じ寿命まで生きながらえたなら、私は生まれた時、江戸生まれと接している。江戸時代は遠いようだが、ほんのちょっと前だ。
 生身の人間が生きることができるたった100年の間に推定年齢46億才の地球に異変が起こっている。
2007年に公表された国連の気候変動に関する政府間パネル(IPCC)の「第4次評価報告書」は地球温暖化について次のように述べる。(気象庁HPより)
「現在、二酸化炭素の濃度は379ppm、メタンの濃度は1774ppb 以上で、どちらも少なくとも過去65万年間のどの時よりも非常に高い可能性がかなり高い。最近の変化率は劇的で、前例のないものである。二酸化炭素が1000年間当たり30ppmを上回って増加することは一度もなかったが、現在、二酸化炭素はわずか過去17年で30ppm上昇した」
 さらに、温暖化がこのまま進んでいくと、21世紀末に「生態系については、多くの生態系の復元力が、気候変化とそれに伴う撹乱及びその他の全球的変動要因のかつて無い併発によって今世紀中に追いつかなくなる可能性が高い。これまで評価された植物及び動物種の約20~30%は、全球平均気温の上昇が1.5~2.5℃を超えた場合、絶滅のリスクが増加する可能性が高い」と述べる。報告書はその他、海水面の上昇により、沿岸面積の30%が水没することや食料減産、伝染病の蔓延など深刻な予測を提示し、温暖化防止の緊急性を警告する。
私には生物の2~3割が絶滅する環境で、人間が生存できるというイメージが持てない。報告書を読み進むうちに、脳裏に浮かんだのはブラックSFの世界だった。
気温上昇により、生物の多様性、食物連鎖が断たれる。洪水と乾燥により、土が流れ、砂漠化が進む。農業や漁業、畜産業が成り立たず、食料供給が乏しくなる。開発途上国では飢餓により、国そのものが滅んでいく。人間にとって最低なくてはならないものは空気と水と食料である。水は海水をろ過して得た。野菜は工場のなかでつくった。感染症を避けるために、お金持ちはシェルターのなかで暮らした。(なにやら、少年の頃読んだ「月世界の暮らし」に似ている)しかし、工場労働者が薬の効かない伝染病で倒れて稼動できなくなった。お金を持っていてももはや買う物がない。「金って何にも役にたたないんだ」最後まで生き残った男が吐き棄てるように言った。(男はヘッジファンドのCEOにしよう)
 このストーリーを私たちは笑えるだろうか。いや、ひょっとしたらこのSFを私たちは地で行っているのかもしれない。
 環境問題は人間にとって実にやっかいな問題だ。現実のことではなく、近未来のことでイメージ力に負うところが大きい。これには、一定の文化水準や民度が求められる。なにより、利害がからむ。国内の水問題一つとっても利益は相反する。大きな自治体は遠く離れた山にダムをつくり、そこから水を引くが、地元の村はその水道水を高い料金で買うことになる。あるいは大きな自治体はよその河川に堰をつくり、導水するが、下流の農家は灌漑用水が不足し、漁民は魚がとれなくなると反対する。こうした利害対立は都市と地方、第1次産業と第2・3次産業、工業国と開発途上国というようにどこまでも広がる。
現在の地球温暖化防止の障害は世界第一位の温室効果ガス排出国であるアメリカが経済発展の妨げになるという理由で京都議定書から離脱していることにある。日本政府も実際には追随している。第2の温室効果ガス排出国である中国は途上国ということから京都議定書では目標数値設定を免除されている。
このような現実に目を奪われて、人間は所詮、貪欲な生き物だ、経済成長を止めるのは不可能だとする意見がある。何かを努力して、結果及ばなかったのは致し方ないことである。しかし、46億年の時間をかけて、奇跡的に知性をもつ生物体となった人間の到達した結論がそれだとすると余りにも寂しい。それに、いずれ滅ぶという諦観は戦争に反対する理由も弱いものにする。
先ほど、利害がどこまでも広がると述べた。実際には「どこまでも」といっても限りがある。
あくまで、地球の上での話だ。そうならば、地球の上に棲むありとあらゆる生き物が安全に暮らせる方法を考えるしかない。核兵器だって人間がつくったものだ。人間がつくったものは、人間が廃棄できると考えるのは自然なことだ。幸い、EU諸国が温暖化防止で世界をリードしている。 
人間は叡智を集めて、環境問題をきっと解決するにちがいない。その思いから肯定的なイメージを膨らませた。
20XX年、国連に世界各国の憲法が持ち寄られた。「地球環境法」をつくろうとの呼びかけに応えたものだ。憲法だけでなく、世界中の思想・文学や伝承民話の類も持ち込まれた。なぜなら、この法は従来の個人や企業・国家間の権利の枠組みでは収まりきれない新たな考え方を必要とするからだ。それらを超えた絶対法にしないかぎり、各国の利害対立の前に吹っ飛んでしまう。ドイツ代表からは中世、収穫の良し悪しを平等にするために、農民が耕地を年毎に交換した制度が紹介された。それを聞いたアメリカ代表が「我らの祖先は西部開拓時代、インディアンの襲撃の危険性を平等にするために幌馬車隊のしんがりを交代しながら進んだ」といって、会場をシラケさせた。
日本代表の発言が最も自信に満ちていた。日本では国内を疲弊させた新自由主義的政策に訣別する新しい政権が誕生していた。「列島北部に住むアイヌ民族は動物や自然のなかに神を見て、尊敬し、かれらと共生する哲学をもっていました。農民は水争いを避けるため、平等に各田んぼに水が張れるような取水の技術と定めをもっていたのです。農民は排泄物を肥料にし、漁民は魚を取るために山や野に木を植えました。明治時代まで、自然に帰らない廃棄物はなかったのです。循環型社会のモデルは日本にはことかきません。なによりも、戦争への反省から制定した憲法第九条が最大の環境破壊である戦争を抑止してきました……」
こうして、「地球環境法」は日本のリードのもとに制定された。イギリス代表が閉会の挨拶で述べた。「かつて、わが国の政治家が政治は国民の文化水準を映す鏡であると言いました。今、地球に住む生きとし生けるものの知性がここに輝いています」
拍手が起こり、各国代表が互いに抱き合った。この頃、日本では世界遺産に指定された知床半島に流氷が訪れることはなく、それらが運ぶ栄養で育った鮭が北海道の川を遡ることも稀になっていた。ヒグマは絶滅の危機にあった。しかし、地球の復元力が残っており、法施行によってすんでのことに温暖化にブレーキがかかった。監視事務局は京都に置かれた……
映画は温暖化防止をテーマにしてはいない。登場するのは様々な動物たちである。最初は白熊。長い冬から目覚め、生まれたばかりの小熊が雪面を滑り落ちる姿は屈託がない。しかし、漁に出た母熊の足元には例年張っていた氷はなく、アザラシを獲ることが出来なかった。獲物をとれないことは死を意味する。カメラは北極から南下して各地に棲む様々な命の営みをいとおしむように見つめる。
個体数40頭になり、絶滅寸前のアムールヒョウ、水を求め、灼熱のカラハリ砂漠をえんえんと歩くアフリカ像の群れ、日光と雨に恵まれたパプアニューギニアの森で求愛の踊りを見せるカタカケフウチョウ、そして、息を飲むソメイヨシノの開花。最後は南極海を目指す2頭のザトウクジラに寄り添い、旅が終わる。なんと地球は美しいのだろう。この生物たちを大切にしたいと観たもののこころを締め付ける。
 監督は「ディープ・ブルー」のアラステア・フォザーギルとマーク・リンフィールド。世界26ケ国、200箇所以上のロケ地で撮影し、野外での撮影日数は4,500日に上るという。1秒間に2000フレームの撮影ができる超ハイスピードカメラなどの高度技術が臨場感あふれる映像を生み出した。その驚くべき映像をベルリンフィルハーモニーが美しい音楽で謳いあげている。

                                      (M男)
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2008年2月10日 (日)

日本映画の一つの到達点(母(かあ)べえ)

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M男さんの映画評論。
今回は話題の母(かあ)べえ
私は、まだ見ていませんが今年のベストテンは間違いない感じです。

M男さんによると
・キューポラに次ぐ小百合さんの出来栄え
・10歳の子の母親に違和感がない。
・吉永小百合はきっと山田洋次監督の心の恋人
そして
・日本映画の一つの到達点を築いた作品

辛口のM男さんがここまで絶賛するのは珍しい

吉永小百合はきっとM男さんにとっても心の恋人?

ちょっと年の差があるかな・・・・

無駄話はこれ位にして評論です。
(ネタバレあります。)

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2008年1月16日 (水)

 4分間のピアニスト

M男さんの映画評論 今回は 「4分間のピアニスト」

ハリウッドの計算づくの泣かせる映画(彼らは試写を経て、エモーションを高めるために映画を容易に作り変える。ニューハンプシャー州予備選で逆転勝利したヒラリー・クリントンの涙はハリウッド関係者の指南だと私は確信している)とは一味違ったドイツ映画の新しい波に注目する。

2007年度ドイツアカデミー賞では8部門でノミネートされ、見事作品賞と主演女優賞に輝いた作品。
たまにはハリウッド映画でなくドイツ映画を見よう。

ーーーーーーーーーーーーーーー

(107)シネマぶらり観て歩き

            4分間のピアニスト
                                    ドイツ

80歳になるクリューガー(モニカ・ブライブトロイ)は、60年以上女子刑務所でピアノを教えている。机を鍵盤代わりにして指を動かす少女ジェニー(ハンナー・ヘルツシュプルング)を見つけ、秘めた才能に驚く。人に裏切られ続け、自損行為を重ねるジェニーを見て、彼女の才能を花開かせようと所長を説得してピアノのレッスンを始める。が、2人には卑劣な妨害が加えられる。コンテストの決勝が迫るなか、ジェニーは暴力事件を起こしてピアノを禁止され、クリューガーも解雇される…。
 1年間にドイツ映画を3本見たことになる。「善き人のためのソナタ」(07年3月、「ぶらり」No.97)「ブラックブック」(07年4月、イギリス・オランダ・ベルギーと合作)と今作品である。「ブラックブック」はいま一つ心に迫らず、書きかけたままにしている。今回も似た感覚に囚われた。
「善き人」評で「サスペンスとハードボイルドが融合したようなこの映画は第一級のエンターテイメントにも仕上がっている」と述べた。仕掛けの大きさでは「ブラック」が上回っている。「善き人」において、観客は秘密警察・盗聴員ヴィースラーの心の葛藤に思いをはせたが、「ブラック」はナチスとたたかうレジスタンス内での裏切りが最後まで続き、私には手の込んだ犯人探し映画のように思えた。ある評論家が「ナチス=悪、レジスタンス=善」の図式を否定した「ポストモダン」の作品と書いていた。ismのことはこの際、横に置くとしても、この言い方で何か新しいことを言ったとも思えない。重要なのは表現しようとした主題であり、それが観客の共感を得たかどうかであろう。
映画は医療機関の評価に良く似ている。どんなに最新技術を駆使しようとメディア露出度が高かろうと、それだけでは持続的な集客力は作れず、決め手は総合的満足度としての「口コミ」である。案の定、「ブラック」はレジスタンス運動に新たな視点をもたらした作品としては浸透しなかった。
さて、今作では同性愛、殺人などそれぞれ負の人生を背負っている二人が刑務所で出会う。接点はピアノだった。互いに対立しながらも、当局や看守の妨害を撥ね退けてコンテスト決勝に進んでいく。ピアノを止められ、脱獄するジェニー。迫る演奏時刻、追う警察。遂にコンサート会場は警官で取り巻かれた。舞台には渾身の力で弾くジェニーの姿が。この息詰まるラストシーンは松本清張原作の映画「砂の器」の臨場感に似ている。
「囚われの身から自由へ」の希求は古くは「パピヨン」、やや近くは「ショーシャンクの空に」で描かれたテーマだ。
しかし、今作品が先にあげた作品群を越えたかというと私は疑問を持つ。
それは何故か。二人の内面描写が説明的に流れ、奥行きに乏しいからだ。ナチス時代にクリューガーの同性愛の恋人が弾圧されたことやジェニーと養父の忌まわしい関係もエピソードで挿入されている。しかし、淡々としすぎて心理的に迫る力が弱い。
外部の設定とも関係している。二人は残された人生を燃焼させようとしているが、それを妨げる障壁が弱い。「パピヨン」や「ショーシャンク」が作り出した絶望的な状況がこの作品にはない。スティーブマックイーンはけちな金庫破りをやっただけだが、仲間の裏切りによって南米ギアナに送られ終身刑となる。動物以下の扱いに耐え、ゴキブリを食べながら、ついに紺碧の海原へと飛翔したあの爽快感や「ショーシャンク」において無機質な収容所の上の青空に響いた「フィガロの結婚」の神々しさ(私はこれを「ぶらり」に何度書いたことだろう)が今作品にはない。それらは、観るものの魂を根底から揺さぶった。
パンフにクリス・クラウス監督へのインタビューがある。
― 一番描きたかったことはなんですか。
「まず、ストーリーができて、それが何を意味するかは、あとからはっきりしてくる。本作の個人の自由というものに強く関わっていると思う。そして、自由が最もその効果を表すのは、人間にとって最も非実利的な領域なのだということが次第にわかってきた。つまり、芸術を創造したり愛したりする行為において、自由はなくてはならないものなのだ。これが、本作の主題だと思う。人は内なる自由にいかにして到達するのか、また、どうしたらその手助けができるのか、ということを語っているのだ」
 ……
 私は監督が述べていることを否定しない。人は実用的なもの(持つこと)以上に実用的でないもの(あること)を大事にする存在だ。山田太一が書いた「岸辺のアルバム」は1974年の多摩川洪水で家とともに流されたアルバムを悔いる実話をヒントにした家族と時代のあり方を見つめた傑作だった。
今作品においてはピアノがその役割を果たし、意図したテーマを実現するはずであった。もし、諸々の重層性を終盤の美的世界(ラストは歌舞伎の大見得である)に収斂させていくことに拘り過ぎたあまり、結果的に内面の凝縮度が薄められたとしたら残念なことだと思う。
 とは言え、ハリウッドの計算づくの泣かせる映画(彼らは試写を経て、エモーションを高めるために映画を容易に作り変える。ニューハンプシャー州予備選で逆転勝利したヒラリー・クリントンの涙はハリウッド関係者の指南だと私は確信している)とは一味違ったドイツ映画の新しい波に注目する。
クリューガーを演じたモニカ・ブライブトロイとジェニーを演じたハンナー・ヘルツシュプルングが好演。ハンナは1200人のオーディションを勝ち抜いたまったくの無名女優だそうだ。2007年度ドイツアカデミー賞では8部門でノミネートされ、見事作品賞と主演女優賞に輝いた。
                                                        (M男)

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2007年12月 6日 (木)

自虐の詩

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M男さんの映画評論 今回は自虐の詩

M男さんの映画を観たきっかけは福岡県生まれの原作者の身内が会社のOBにいて、勧められたことによる由

プロデューサー 植田博樹さんの日記から

<2007年4月9日 16:45
試写終了

バカなことだが僕が一番
泣いてしまった

原作を取りにいったのが
飛行機ドラマをやってた頃だから
四年?

長かったなあ

終わって監督と
中谷さん阿部さんの主役の二人と
脚本家、プロデューサーたちと乾杯

会議室から見える葉桜が
季節の代わり目を感じさせてくれました。

(了)
ご参考
映画『自虐の詩』オフィシャルブログ


うちのかみさんは原作のイメージが壊れるから見に行かないと言っています。
この感想を読んだら見に行きたくなったのだけれどどうしよう・・・・

さあM男さんの映画評論本編の始まりです。

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2007年11月22日 (木)

映画「エディット・ピアフ」

 「死を恐れますか?」
 「孤独よりましね」
 「女性へのアドバイスをいただけますか?」
 「愛しなさい」
 「若い娘には?」
 「愛しなさい」
 「子供には?」
 「愛しなさい」
  ……

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2007年10月16日 (火)

湖水地方の自然はわが身と一体(改)

少し紹介が長すぎると指摘があったそうで短くし、連番も間違っていたので訂正しました。

M男さんの映画評論です。
今回は「ミス・ポター」
すでにこの映画については私も書いていますが私が言い足りなかったことを書いています。
それは

芸術を愛し、自然を愛するが、単に愛好家ではない。それを妨害する者とは断固としてたたかう、繊細にしてスケールの大きい「革命家」ともいえる彼女の生き様、葛藤が映画でもう少し描かれていたら、さらに深みのある作品になっただろう。  人に優しい人は自然に優しい。自然を大切にする人は人に優しい。もし、彼女がノーマン死後、世捨て人となってコテージで暮らしていたら、今日の湖水地方は日本で見るようなけばけばしい観光施設で埋め尽くされていたことだろう。ビアトリクスにとって湖水地方の自然はわが身と一体だった。1943年に彼女は亡くなるが、遺言には遺骨を湖水地方に散骨すること、その場所は「絶対、秘密にしておくこと」とあったそうだ。

ということです。
いかに彼女が湖水地方の自然の保全に貢献したかは湖水地方に行けばわかります。

記事詳細は次に

続きを読む "湖水地方の自然はわが身と一体(改)"

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2007年9月16日 (日)

私たちの幸せな時間

M男さんの映画評論です。

今回は韓国映画です。

この映画のホームページで南野陽子さん「韓国映画は深く深く人の心に入っていく作品が多いので好きです。」
と言っている。
また、「作品を見た観客たちは皆号泣で泣きはらした目で会場を後にしていた。 」と書いている。

死刑囚の男と自殺願望の女。人生の果てに訪れた、奇跡のような"幸せな時間"
映画「私たちの幸せな時間」の情報をお知らせします。
出演:カン・ドンウォン イ・ナヨン  監督:ソン・ヘソン
official blogから

翻訳は拉致被害者の蓮池薫さんです。

シネマぶらり観て歩き(103)

            私たちの幸せな時間
                                    韓国

ユジュン(イ・ナヨン)は経済的に恵まれて育ったが、母親から抱きしめられたことがない。歌手として一度は世に名を知られたが、今は退き、投げやりの人生を送っている。ある日、シスターである伯母に連れて行かれた刑務所で死刑囚のユンス(カン・ドンウォン)と会う。ユンスはかつて歌手ユジュンのファンだったと言う。響きあうものを感じて、ユジュンはいつしか毎週木曜日に叔母の代わりにユンスに会いに通うようになった。初めは固く心を閉ざしていたユンスの心にも変化が生じた……。
普段、我われは死を意識しないで暮らしている。そして、平均年齢くらいまでは生きるだろうと素朴に思っている。その象徴的な区切りはお正月だろう。「今年が良い年でありますように」と神社に詣で、賀状に言葉を添える。本当は、明日、交通事故で死ぬかもしれないし、数ヵ月後に病気で死ぬかもしれないのにそんなことは考えない。
この作品に登場する二人は死を意識している。ユジュンは誰にも言えない辛い体験を背負い、3度、自殺を図ったが死に切れず、無気力な日々を送っている。ユンスは3人を殺し、死刑執行の日を待っている。彼が実際に殺したのは一人だったが、相棒がユンスになすりつけてしまった。ユンスは裏切られても、抗弁するつもりもないほど、人間不信に陥っている。

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2007年8月16日 (木)

夕凪の街 桜の国(人の言葉や表情で)

M男さんの映画評論です。

佐々部監督とM男さんのやり取りが面白い。

又、佐々部監督の「一番大事なことを伝える時は、人の言葉や表情で伝えようって心がけています。これは浦山桐郎監督から教わったんだと思います。助監督としてついたことはないですけど、僕はどっかで、最後の浦山桐郎の弟子だと思っているんです」

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シネマぶらり観て歩き(102)
              夕凪の街 桜の国 
             
邦画

昭和33年の広島。原爆投下から13年。原爆で父と妹を失った平野皆実(麻生久美子)は、母フジミ(藤村志保)と暮らす。職場仲間の打越(吉沢悠)に愛を告白されるが、自分が生き残ったことが負い目になって素直に受け入れられない。そんな彼女に打越はそっと寄り添う。しかし、やがて皆実に原爆症の症状が……。
それから半世紀。水戸市に疎開して被爆を逃れた皆実の弟・旭(堺正章)は、子どもたちと東京で暮らしている。彼は時々、家から姿を消した。一体どこへ行っているのか。心配する娘の七波(田中麗奈)は友人とともに、旭の後を追う。行き先は広島だった……。
原作はこうの史代の同名の漫画。平成16年度文化庁メディア芸術マンガ部門大賞・第9回手塚治虫文化賞新生賞を受賞。それを監督、佐々部清が映像化した。

 “ぶらり”で佐々部監督作品を取り上げるのは「(61)半落ち」(2004.3)に続き、2回目である。次のように書いた。「結論的にいうと最後は主人公が守ろうとしたものが何であったかというテーマに収斂している。殺人事件を切り口にヒューマンな作品に転化させた筋運びは見事だ。しかし、意図の良い作品ほど注文もつけたくなる。社会的問題を扱ったにしては全体に不消化感が残り、シャープさに欠けるのだ」
 「半落ち」は2005年の第28回日本アカデミー賞最優秀賞を受賞した作品だが、ウェットな描写に抵抗を感じた。続いて観た「出口のない海」(06年)は血を流す場面が一切登場しない戦争映画だ。佐々部監督はひたすら人間の想像力を信頼し、内面に語りかける。しかし、あと一つ内部から弾ける力が欲しい。そう思った。続く今作、いささかの警戒感をもって館に足を運んだ。

半世紀を隔てた二つの時代を背景に、二人の女性を主人公に二つの物語(「夕凪の街」「桜の国」)が描かれる。貫くのは「ものいわぬ」被爆者である。 
結論から言えば、佐々部監督は自らのスタイルを貫き、かつ進化している。今作もやはり、被爆直後の死屍累々たる場面は登場しないし、原爆を憎む声高な叫びもない。代わりに彼が描いたのは込み合う銭湯で女たちが見せるケロイドの皮膚であり、一瞬の閃光が家族や恋人間に落とした心の闇だった。
前編「夕凪の街」で皆実に愛を打ち明ける打越。贈った刺繍入りハンカチがまぶしい。告げられた皆実はその喜びよりも、自分だけが幸せを受けてもよいのかと罪悪感にさいなまれる。打越は皆実が受け入れてくれるのを待つ。今考えるとじれったいような、この気持ちの交流が作品に命を吹き込んでいる。
しかし、それは表面的に過ぎたかもしれない。

皆実が死ぬ間際、吐き出す言葉がある。
「なあ、うれしい?13年も経ったけど、原爆を落とした人は私を見て『やったぁ、また一人殺せた!』って、ちゃんと思うてくれとる?」
遠慮がちの彼女にこんなに激しい気持ちがあったとは。観客は最後の最後に刃を突きつけられるのだ。
原爆は人の心に深く沈潜した。後編「桜の国」でドキリとする言葉がある。疎開して被爆を逃れた旭が「幼い時、ピカにあった」という結婚相手を母フジミに紹介する場面だ。
「あんた、被爆者と結婚する気ね」「なんのために疎開させ、養子に出したのか」
母がなじる。その言葉が館の暗闇の中に見えない波紋を作る。

人は皆、固有の評価軸をもっている。映画が良かったかどうかは、その人の価値観、感動点(心の沸点)プラス、私の経験では映画を観た時の体調によって決まる。私はそれに加えて、ある程度、客観的なものさしとして、エンディング時の観客の振る舞いに置いている。感銘を与えた作品で人は席を立たない。今作品では最後まで多くの観客が残った。(「バベル」をロングラン終了間際に観たが誰一人残らなかった)

実は、映画を見る一月前、佐々部監督の話しを聞く機会に恵まれた。講演後の質問コーナーで私は「シンドラーのリスト」をオスカー狙いだと激怒した淀川さんなどのエピソードを引き合いに出し、多様な「評価軸」(監督の側からは創作軸)について尋ねた。佐々部作品への評価も結構、振幅が大きいのだ。訥々とした調子で答えて頂いたが、残念ながらうろ覚えで自信がない。

映画のパンフレットに佐藤忠男氏との対談で同じような下りがあるので紹介したい。

佐 藤「あなたの映画は倫理観というか、そういうのが一貫していますね。いかにあるべきかと、いうようなことをいい加減にしないで、きちっとやっている」
佐々部「自分のなかの決め事は、どの映画でも通しているつもりです」
佐 藤「どういうことですか」
佐々部「一番大事なことを伝える時は、人の言葉や表情で伝えようって心がけています。これは浦山桐郎監督から教わったんだと思います。助監督としてついたことはないですけど、僕はどっかで、最後の浦山桐郎の弟子だと思っているんです」(パンフp.16一部略)

この意図が成功したかどうか。その結論は、読者が作品と切り結ぶなかから生まれる。
演技では二つの物語の主役を演じる麻生久美子・田中麗奈が素晴らしい。麻生は昭和30年代の顔になり、運命のはかなさを見事に演じている。田中はクールでお茶目な現代っ子になりきっている。驚いたのは、この二人が二歳しか違わないことだ。

最後に、佐々部監督のメッセージを送りたい。原作に感動して、この作品を映画化したいとメジャー系に持ちかけたが「地味で暗い」とことごとく拒否された。
意地でも作り、興行的にも成功させ、見返してやりたいと製作委員会を立ち上げ、完成させた。
日本人にしか出来ない映画だ。是非、多くの人に館に足を運んで欲しいと。
こう結んだ時、シャイな顔が引き締まった。
                                     (M男)
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2007年7月17日 (火)

サン・ジャックへの道

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M男さんの映画評論です。
今回はフランス映画「 サン・ジャックへの道 」です。

M男さんのコメントはいつもこんな風に深みがある。

 

人はタテ軸時間のなかでのみ生きている訳ではない。家族愛や友情、人の成長は経済効率とは関係がない。また、人の命には限りがある。だれでも、日常のいとなみのなかで喜びに出遭った瞬間に「時よ、止まれ」と思ったことがあるだろう。私たちは時々、時間を止めているのだ。

映画は人間にまとわりついたタテ軸時間を剥いで、内奥に潜む人間的自然(人間性)を浮かび上がらせる。そこには、もう一つの時間が流れており、もう一つの世界への入り口でもある。

さあ!

時間を止めよう。

タテ軸時間を剥ごう。

映画って本当にいいものですね。

さいなら さいなら さいなら


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2007年6月15日 (金)

シネマぶらり観て歩き100回記念 日本の青空

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M男の映画評論100回記念です。
このブログでは途中からしか中継してないがM男さんの継続的な努力に敬意を表します。
今やこのブログは何割かはM男さんのものです。
この映画評論はネタバレ評論です。
ネタバレがいやな人はスルーしてください。

M男さんと一緒に話を聞いた早稲田大学法学部教授 水島朝穂さんの言葉も紹介されています。

国民の側から正確に言えば「憲法を守る」ではなく、国や自治体に「守らせる」ということであり、それにより、国家権力を縛り、個人や人権を尊重させるということになる。

ジェームス三木さんの言葉も紹介されている。

文化や技術には国境がない。今、実施しようとしている日本国憲法改正こそ、アメリカ政府が望んでいるものだ

城山三郎さんの言葉も紹介されている。

戦争で得たものは『憲法』だけ。

M男さんの「ぶらり」映画宣言はこうだ。

私は「ぶらり」を書く際、無意識に憲法を意識してきたように思う。もし、他人から「なぜ、映画を観るのか」と問われれば、「おかしくならないため」と答える。映画はおかしくならないための姿見であり、生きることの一部である。

ではどうぞ。

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シネマぶらり観て歩き(100)
                           
                                   邦画

中山沙也可(田丸麻紀)は販売部数減少が続く雑誌「月刊アトラス」の派遣社員。編集部は復活をかけて「特集・日本国憲法の原点を問う!」を企画する。編集部員たちが白洲次郎やベアテ・シロタ・ゴードンなどの有名人を企画する中、沙也可は母(岩本多代)の助言により、全く名を知らなかった憲法学者・鈴木安蔵(高橋和也)の取材を進める。安蔵の娘・ 子(水野久美)と潤子(左 時枝)の取材を通じ、自由主義的な思想への弾圧下で在野の憲法学者として信念を貫いた安蔵の姿を知る。安蔵を支えたのは妻・俊子(藤谷美紀)だった。
 敗戦、新しい民主国家の建設に向けて知識人たちが行動を開始する。鈴木安蔵は高野岩三郎(加藤剛)、森戸辰男(鹿島信哉)、室伏高信(真実一路)、岩淵辰雄(山下洵一郎)、杉森孝次郎(坂部文昭)らと民間の「憲法研究会」を結成した。天皇を主権者とした大日本帝国憲法に変えて、国民が主権者になる新憲法を自分たちの手でつくろうという意気込みに溢れた集団であった。
日本政府が作成した憲法草案は大日本帝国憲法と似通ったものでGHQは採用を拒否。逆に「憲法研究会」の草案は高く評価され、GHQ案に多大な影響を与えた…。

映画は、連合軍の押し付け憲法という批判に応える作品。現憲法は占領下に生まれたが、下敷きになったのは鈴木安蔵ら民間人の「憲法研究会」が作った草案であったという歴史的事実を明らかにする。

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2007年5月16日 (水)

王室のあり方についてのマイルドな批判(クイーン)

恒例のM男さんのシネマぶらり観て歩きです。
今回は「クイーン」

この評論は英国の「クイーン」ではなく日本の皇室について書いています。

天皇に関する日経のスクープ記事にもふれブレアさんのことにも触れ社会性の高い評論となっています。

ではどうぞ・・・・

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(99)シネマぶらり観て歩き

               クイーン
                                 英仏伊合作

1997年5月、イギリス総選挙で労働党が大勝し、43才の若きトニー・ブレア(マイケル・シーン)が第73代首相に就任した。ファースト・レディとなった妻シェリー・ブース(ヘレン・マックロリー)は,女王エリザベス2世(ヘレン・ミレン)に謁見するが王政廃止派の彼女はその格式に苦笑する。8月31日、ダイアナがパリで「事故」死した。女王はチャールズ皇太子(アレックス・ジェニングス)とは一年前に離婚し、民間人となったダイアナに弔意を示す必要はないと沈黙する。皇太后(シルヴィア・シムズ)や夫のエディンバラ公(ジェームズ・クロムウェル)らもこれに賛同する。しかし、ダイアナを惜しむ国民の声は日毎に高まり、沈黙し続ける女王に世論の批判は大きくなる。若きブレアは国民と王室が離れていくことに危機を感じる…。
観終って、様々な感慨を抱く。イギリス王室の現状、日本の皇室との違い、政治家とくに首相と王室の関係。密着して描く王室一家の日常には説得力がある。
映画には王室だけでなく、ダイアナやその家族、ブレア一家が実名で登場する。「キネマ旬報」(2007年5月上旬号)を読むとヴェネツイア国際映画祭には多くの弁護士が潜入したとの噂がたったという。この種の作品には弁護士が絡むことはよくあるとフレアーズ監督が涼しい顔で答えている。その後、どこからもクレイムがついたとは聞かないので許容範囲内の描かれ方であったのか。
日本人の皇室観は宮内庁のフィルターを通した身辺記事と画像で知るのみだからひどく貧弱だ。少し、踏み込んで発言したり、書いたりしようものなら宮内庁記者室からは締め出され、右翼からは攻撃される。10年前の本島長崎市長狙撃事件は天皇の「戦争責任」発言が原因だった。
2006年7月20日に「日経新聞」がスクープを放った。故富田朝彦・元宮内庁長官が残した「富田メモ」(日記、手帳)にもとづいて、昭和天皇が昭和63年の靖国神社へのA級戦犯合祀に不快感を示したと1面トップで報道した。この企画は2006年度新聞協会賞を受賞した。しかし、右翼筋や政治家からの記事に対する攻撃には激しものがあり、同社は外部有識者を中心に構成する「富田メモ研究委員会」を設けてその真実性を再確認した。日本の皇室をめぐる言論は未だに自由を得ておらず、声を出しにくくする見えない力のもとにある。
それでも、近年少しずつ、皇室内の模様が知られるようになった。2004年5月10日、皇太子が欧州歴訪前の記者会見で「雅子のキャリアや人格を否定するような動きがあった」と発言したことは記憶に新しい。皇室といえども生身の人間、社会や国の状況を反映してさまざまな葛藤、軋轢があるのは当たり前のことであろう。

さて、ドラマはブレアとクイーンの関係をタテ軸に、両者の間に流れる葛藤、心理の彩を描く。ブレアが初めて女王に謁見するシークエンス。ブレアに扮するマイケル・シーンの初々しさ、威厳を見せようとするクイーン。まるで、母と出来のよい息子のようである。儀礼を通り越した感情が流れる。しかし、この感情はダイアナの死後、世論が沸騰しゆく1週間の間に変わっていく。
ダイアナの死を民間人のものとして無視したい女王に王政廃止支持が国民の1/4に上り、国家の危機を覚えるブレアは哀悼の意をあらわすことを進言する。重大な局面にあって、立場を異にする二人に緊張関係が高まる。のめり込むブレア。筆者に最も印象深かったのは、女王を援助するブレアに妻シェリーが“嫉妬”する場面である。この構図は新鮮であった。
女王には守るべき格式と永い伝統がある。ブレアには国内外への影響を考慮したうえでの政治的思惑がある。二人はまず、その枠組みのなかで役割を果たさなければならない。しかし、役割を担うのは人間である。枠組みや役割との葛藤もある。女王と王室一家は結局、ブレアの忠告を受け入れて国民へのメッセージを発表する。
女王を変えたのは何だろうか。人は立場や思想が異なっても、他人と響きあうことがある。その本質は人間が持つ志、誠実さのようなものではないかと思う。職務への忠誠心にたいする尊敬、互いの立場への想像力が深いところで二人に共振を呼び起したのであろう。作品はブレアの視点から、そこに到る心の襞を描いて人間エリザベスを浮かび上がらせる。外では常に威厳をたたえる女王だが、本作ではユーモアを解し、4輪駆動車を操る女性としての一面も描かれている。女王はタフさを兼ね備えたイギリス国民の母なのだ。
それでは単なるクイーン賛歌なのかということである。なるほど、苦悩する女王を描いたという意味では従来の王室物を超えているが、私が注目したいのは映画が黙示する歴史的な見地である。それは何かというと、「制度」と「現実」の矛盾・葛藤と変化の方向を示唆していることである。半世紀前なら、王室はダイアナの死を民間人のものとして無視することはできたであろう。しかし、ダイアナはブレアがpeoples Princesと表現したほどの存在である。国民が許さなかった。宮殿の前に手向けられた無数の花束が王室のしきたりを変えたのである。映画ではクイーンの内面描写に焦点を当てているが、冷静に見れば王室のあり方についてのマイルドな批判ともなっており、このあたりをスティーヴン・フリアーズ監督は実に上手く捌いている。
* 同監督は左翼で知られ、「ぶらり」No.37 (2002年3月)に第二次世界大戦前夜、リバプールにおけるファシスト党の活動を告発した「がんばれリアム」がある。
「見てきたような嘘」という慣用句がある。この作品はまさにそうだろう。だが、嘘といっても悪意のものもあれば、生活に潤いを与えるものもある。この作品は後者だ。
2007年アカデミー賞でヘレン・ミレンが主演女優賞を受賞した。最近もこの作品の話題はことかかず、女王がヘレン・ミレンを王室のお茶会に誘ったが出席を断ったなどと伝えられている。一方、ブレアは従来の労働党を否定した「第三の道」を打ち出して一時、支持率75%を誇ったが、アメリカのイラク戦争支持が仇となって凋落し、この6月に辞任する。
日本の皇室は100年後とは言わないまでも、50年後、果たして現在のイギリス王室の姿に近づいているだろうか。
                                  (M男)

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2007年3月15日 (木)

善き人のためのソナタ

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M男さんの映画評論、今回は先日のアカデミー賞で外国語映画賞を受けた「 善き人のためのソナタ」です。

ドイツの秘密警察から日本の公安警察に思いが及んでいます。

「約5千人いると言われる現代日本の諜報機関、公安警察(*)の情報収集能力はシュタージをはるかに超えているに違いない。」とか

私もサダムフセイン治世下のイラクで秘密警察を付けられたことがある。
なぜわかったかと言うと自分がお前の担当だとクルド人に教えられたから・・・
(イラクの話は前に行った講演のペーパーがありあます。)

日本の誰かにお前の担当だと言われる時代にはしたくないな・・

では・・・・

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シネマぶらり観て歩き(97)

善き人のためのソナタ
                                     ドイツ

1984年、冷戦下の東ベルリン。ドイツ民主共和国の国家保安省(STASI、シュタージ、秘密警察)に勤めるヴィースラー大尉(ウルリッヒ・ミューエ)は、文化部長から劇作家のドライマン(セバスチャン・コッホ)と舞台女優である恋人のクリスタ(マルティナ・ゲデック)が反体制的である証拠を手に入れるよう命じられる。成功すれば出世が待っている。早速、ドライマンの部屋に盗聴器を仕掛け、屋根裏から二人の言動を監視する。ある夜、ドライマンの誕生パーティが開かれ、多くの友人が集まった。国家から芸術活動を禁止されていた演出家イェルスカもそのなかの一人だった。彼は、ドライマンに誕生祝いとして楽譜「善き人のためのソナタ」を送る。
クリスタの初舞台を観て一目ぼれしたヘムプフ大臣は権力を利用して、関係を持つ。クリスタは大臣とドライマンの間で悩む。一方、盗聴を続けるうちにヴィースラーに変化が起こった。彼は国家を信じ、一筋に仕えてきが、盗聴器を通して知る「向こう側」の世界が彼のなかで閉じられていた感覚を開かせていった…。
ドイツといえば思い出すのは1989年のベルリンの壁崩壊である。群衆がブランデンブルク門そばの壁に上り、歓喜の声を上げながらハンマーを打ち下ろす映像が今でも脳裏に浮かぶ。この年は内外にて様々な事件が起こった。1月に昭和天皇が死去し、元号が平成に変わった。4月には消費税(3%)がスタート。6月に天安門事件が発生し、テレビで多くの日本国民が広場の学生に向かって発砲する中国人民軍を見た。同じ6月、戦後最大のスター、美空ひばりが死去。12月にはルーマニアのチャウセスク首相が公開処刑された。こうした事跡を改めて振り返ると一つの時代の区切りであったことが分かる。時代はとうに独裁権力による支配の終焉を告げていたのだ。
東ドイツは翌1990年、西ドイツに吸収される形で統一される。しかし、東ドイツの秘密警察シュタージについては、長い間タブー視されていた。17年を経て、ようやく人々は冷静に見つめることができるようになり、作られたのが今作品である。
付けられたタイトルはロマンスのような甘美な響きを持つ。抱くイメージはヒューマンドラマである。しかし、映画を観ての印象はサスペンス小説の読後感に似ている。観客をある種の怖さが襲う。しかし、その向こうに仄見えるものがある。絵で言うと一面をダークグレー色に厚く塗り込めたキャンバスの下から明るい色が滲む抽象画の世界だ。
ヴィースラーは二人の監視を続ける。盗聴器から聞こえてくる自由な会話、二人の間に揺れる愛、心が洗われるような「善き人のためのソナタ」の旋律。彼はある日、ドライマンの部屋からブレヒトの詩集を盗み出し、読む。すべてが、新鮮な驚きであった。徐々に彼は文学や劇や音楽の世界に魅かれ、「社会主義の敵」達が憎むべき人間ではないことを知っていく。
しかし、観客はこうしたヴィースラーの心の変化を台詞やそれと分かる行動で知ることはできない。映画の宣伝に使われているほどにこの部分は際立って描かれてはいない。観客は彼の心の変化を微妙な顔の表情から推し量ることになる。そう、彼は諜報機関のプロなのだ。真実は深く心の奥に仕舞い込まれている。そして、見物は上司に気づかれないようにどうやって二人の安全を保つか、寡黙な男とシュタージの(?)知恵比べだ。互いに相手の手の内を知り尽くしたプロ同士のたたかいは緊張とスピード感に満ちており、最後まで手に汗を握らせる。サスペンスとハードボイルドが融合したようなこの映画は第一級のエンターテイメントにも仕上がっている。
138分間の殆どが東独崩壊前のドラマで占められているが、観客が少しでもホッとするのは崩壊後を描くラストの一コマである。
主役を務めるウルリッヒ・ミューエは女優である前妻に10数年間、シュタージに密告されていたと言う。統一後の情報公開制度で知った。監視社会は密告によって人間を互いに疑心暗鬼に陥らせ、怯えさせ、精神文化の自由な発展を阻害する。これは過去の東独の話ではなく、体制を問わずどこでも起こりうることである。約5千人いると言われる現代日本の諜報機関、公安警察(*)の情報収集能力はシュタージをはるかに超えているに違いない。
 監督はフロリアン・ヘンケル・ドナースマルク。2007年アカデミー外国語映画賞受賞。

                                  (M男)
* Wikipedia「公安警察の問題点」
「捜査の段階で通信傍受(「盗聴」)やいわゆる盗撮を行っている可能性が指摘されている。公安捜査における盗聴・盗撮はかなり昔から行われており、人権侵害として訴えられる場合も多かった。最近では通信傍受法が制定されたので、警察が捜査上必要な場合、通信傍受や盗撮は法的要件を踏まえたうえでならば合法とされている」

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2007年2月18日 (日)

ダーウィンの悪夢ー社会ダーウィニズムへの批判

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久しぶりのm男さんの映画評論です。

今回は「ダーウィンの悪夢」
日本では最近まで白スズキという名で流通し現在は弁当・給食の白身魚フライなどに使われている肉食魚ナイルパーチはアフリカのヴィクトリア湖から来ているという。
ナイルパーチは非難されるべき存在ではない。
非難されるべきは
「新自由主義、それと表裏一体となっている社会ダーウィニズム」
これはそれへの「映像による痛烈な批判」
の由。

シネマぶらり観て歩き(96)
             ダーウィンの悪夢
                          フランス=オーストリア=ベルギー

タンザニア、ケニア、ウガンダの3国に囲まれたアフリカ最大の湖ヴィクトリア湖。世界第2位の大きさで面積は59,000k㎡、九州の約2倍、琵琶湖の100倍。かつてそこは多様な生物が棲む生態系の宝庫で「ダーウィンの箱庭」と呼ばれていた。周辺の漁民たちはティラピアという30cmほどの魚やダガーと呼ばれる小魚をとって暮していた。しかし、半世紀ほど前に放流されたバケツ1杯の肉食魚ナイルパーチが、またたくまに他の魚を駆逐した。湖畔では、ナイルパーチの漁業産業が発展し、加工された魚は毎日、輸送機で最大の消費国であるEU諸国や日本へ運ばれていった。湖畔に住む人々の暮らしは大きく変わった。パイロットや漁業キャンプの住民を相手の売春婦が住み着き、蔓延するエイズによって多くの住民が死んでいった。残された子どもはストリートチルドレンとなり、身を取った後のナイルパーチを得ながらその日暮らしを送っていた…。
湖面に映る小さな機影。波間で不安定に揺れ動いている。カメラは長回しで追った後、上空の飛行機を捉える。すでに高い位置にいる。飛行機はどこへ行っているのだろうか。暗示に満ちた導入で映画は始まる。
観終わって思った。これは現代の宗教批判だ、新自由主義と言う名前の。もう少し立ち入って言うと、それと表裏一体となっている社会ダーウィニズムへの映像による痛烈な批判だと。
われわれはアフリカの歴史をほとんど知らない。私が小学生のころ、少年雑誌に登場するアフリカはヨーロッパ人による冒険譚の舞台としてであった。昼でも暗いジャングル、探検隊を襲う豹や大蛇、木々の間から毒矢を放ってくる土人。このようなアフリカのイメージは暗黒大陸という言葉とともに、少年の心に深く根付いた。
 実際のアフリカは第二次世界大戦後、植民地からの独立のたたかいが起こる一方、資源の豊かさに目を付けた西側諸国の介入やIMFなどによって急速に「民主化」され、「人間」界に取り込まれていった。魔境は秘境となり、秘境は観光地となった。絶滅が心配される野生動物は自然公園のなかに隔離され、保護された。囲われたのは動物ばかりではない。人間も同じだ。今、アフリカの多くの国々は先進国や世界銀行、IMFからの援助による債務返済に追われている。国民には多国籍企業がもたらした「貧困」がのしかかる。そして、今なお根強い人種的偏見に支配されている。

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2007年2月 5日 (月)

[愛妻記」か「武士の一分」か

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久しぶりにM男さんの映画評論です。
今回は「武士の一分」です。
この映画の感想は昨年の記事に書きました。

私はその中で「愛妻記」とならなくて良かったと書きましたがM男さんは
山田監督は当初、「愛妻記」というタイトルを考えたそうだが、それでも良かったと思う。「武士の一分」のタイトルにこだわると、映画の本質を見失う。
と書いています。

(私は、「愛妻記」というタイトルには少し引いてしまいますが・・・)

さらにこう書いています。

これは、藤沢周平3部作の最後を締めくくる作品となる。観る前まで私は「たそがれ清衛兵」が持つ緊張を超えることはあり得ないと思っていた。しかし、監督は別の世界を創っていた。

主演の木村拓哉が変わっていく新之亟を好演し、アイドルのイメージを超えている。
妻・加世を演じた壇れいは、凛として美しい。梅馥郁(ふくいく)という常套句があるが、そのような香を放っている。
また、徳平役の笹野高史の軽妙さを抑えた演技が奥行きをもたらしている。
いつまでも心に沁みる名作といえる。

シネマぶらり観て歩き(95)

             武士の一分               
                                     邦画

下級武士、三村新之丞(木村拓哉)の役目はお殿様の毒見役。嫌気がさしながらも、妻・加世(壇れい)、中間・徳平(笹野高史)とつましい毎日を送っていた。ある日、貝毒にあたり、新之丞は意識を失う。なんとか、一命はとりとめたが視力を失った。人の世話になる自分を恥じ、一度は命を絶とうとするが、加世と徳平のために思い留まる。ある日、義姉(桃井かおり)から加世が男と密会しているという噂を聞く。新之丞は徳平に尾行させる。密会の相手は番頭・島田(板東三津五郎)だった……。

館を出て、雑踏のなかを歩きながら、胸に温かいものが溢れてきた。この映画を観た人は人に優しくなれる。そう思いながら家路に着いた。
山田洋次監督はこの作品で人のこころを描いている。平穏な澄んだこころではない。激しく揺れ動くこころである。愛と憎しみ、矜持と屈辱、希望と絶望。人生の長短を問わず、我われは死ぬまでこれらのアンビヴァレントな感情とともにある。しかし、その波乱に満ちた生の陰翳をも山田監督はむしろ生の充実として浮かび上がらせている。(注:以下、結末に触れている)
盲目になった新之丞は妻・加世を頼りにしないと生きて行けない。厄介者の自分を背負う加世は不憫だ。いっそのこと、死のうと刀を探す。しかし、刀は無い。自死を避けるため、加世が隠したのだ。しかし、隠した加世の気持ちも分かっている。分かっていながら、加世をなじる。
加世は盲目となった新之丞が引き続き仕官出来るように上司の島田に身を任せる。不義は死罪に相当する。やがて、新之丞の禄は保たれることになったが加世の心は救われない。以前のようにこころを開いて夫と向き合うことができないのだ。

続きを読む "[愛妻記」か「武士の一分」か"

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2006年12月13日 (水)

再度フラガール!

フラガール!についてはすでにフラガール賛歌で書きましたがM男さんからも寄せられたので掲載します。
このブログはM男さん映画評論ブログでもあります。

「当時はこうして周りのみんなから信頼される人間になることが人生の最大公約数的な目標ではなかったか。決して、金持ちになること、勝ち組になることではなかったような気がする。子どもが生まれ、成長し、結婚し、孫が生まれる。親は子の成長に喜びを見出し、子どもも親の願いに応えようとした。そのために、一所懸命働いた。働くことによって、自分の成長と家族の幸せと戦後の復興がイクオールで結ばれているという誇りがあった。だから、仕事や生活の空間には良くなろうという意欲と充実感がみなぎっていた。」

最近の教育の問題事件を見るたびに「地域の教育力」という言葉を思う。
子どもは近所のおじさんや友達自身が教育していた。
昔の親は教育に今ほど関心がなかった。

自分もテストの前にあそんでいたら「中学校になったら試験の前は勉強するものだ」と近所のお兄ちゃんに言われた事を覚えている。

教育基本法や憲法九条があったから日本は戦後犯罪が一路減ってきた。
教育基本法に濡れ衣を着せてはいけない!
真犯人はほかにいる。

フラガール!から離れてしまった。
昭和三十年代が時代背景の映画が多かったのが確かに今年の特筆すべき事だろう。
私もフラガール!を今年のトップグループに評価する。
今年の自分ランキングを作ってみたい。
皆さんのランキングも教えて下さい。

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以下M男さんの映画「フラガール!」評論です。

続きを読む "再度フラガール!"

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2006年11月14日 (火)

父親たちの星条旗

久しぶりにM男さんの映画評論です。

今年話題の硫黄島シリーズの第一弾「父親たちの星条旗」です。

以下教訓的な文章です。

5千万人以上の犠牲者を出した第二次世界大戦がもし、人類の歴史に何か新しいものを付け加えたとすれば、それは日本国憲法第9条であろう。ここにはアメリカ独立宣言(1776)やパリ不戦条約(1928)など世界の叡智が凝縮されている。憲法制定国会で吉田茂首相がこう言ったのは記憶されてよい。
「近年の戦争は、多くは国家防衛権の名において行われたことは顕著な事実であります。ゆえに正当防衛権を認めることが偶(たまたま)戦争を誘発する所以であると思うのです。正当防衛、国家の防衛権による戦争を認めるというご意見のごときは有害無益のご議論と私は考えます」(1946年6月28日 衆院本会議)

シネマぶらり観て歩き(93)

         父親たちの星条旗
                                 アメリカ

ウィスコンシン州で葬儀社を営むジョン・“ドク”・ブラッドリーは最期の時を迎えていた。彼は1945年、海軍の衛生兵として硫黄島で戦い、そこで撮られた1枚の写真によってアメリカ中から“英雄”と賞賛された。しかし、彼はその後、硫黄島について語ることはなかった。硫黄島で何があったのか。息子が硫黄島の真実をたどり始めると、あの有名な写真に隠された秘密にたどり着いた…。
ベトナム戦争時代をご存知の読者は、裸の少女が泣きながら逃げる写真を覚えておいでだろう。南ベトナム政府軍が解放戦線を攻撃しようとして、誤って民間人にナパーム弾を投下してしまった。1972年6月8日AP通信のカメラマンが撮影し、翌年ピューリッツアー賞を受賞した。少女の名前はキム、この時、背中に大やけどを負っていた。ベトナム統一後、彼女は医師をめざしたが、この写真がきっかけとなり、戦争を伝える生き証人として西側のマスコミ攻勢にあう。そのため、学業を続けられず退学したが、退学後も新政府は彼女に学生を演じさせ、取材させたといわれる。((『ベトナムの少女』デニス・チョン 文春文庫 *叙述にはかなり西側のバイアスがかかっている)キムは希望をかなえるために首相に直訴し、キューバに留学する。しかし、結婚を機にカナダに亡命し、17回の皮膚移植手術を経て、現在はユネスコ親善大使として活動している。(『ナパーム弾とキムちゃん』早乙女勝元 草の根出版会)1枚の写真がもたらした人生である。

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2006年10月10日 (火)

ユナイテッド93 とWTC

私の ユナイテッド93 の感想文は消失したので「M男の映画評論」に頼ります。

WTCを見たばかりですが私も以下とM男さんと同じ感想を持ちました。

「ワールド・トレード・センター」(オリバー・ストーン監督)も観たが、冗長な運びはまだしも、海兵隊員がアクション映画の主人公よろしく振舞う安易な作り方にいたく失望した。死に向き合う人間を扱ったこの2つの作品の間にある決定的な違いは、国家や人種を超えた人間愛、人間の尊厳を視点として有するかどうかだろう。

シネマぶらり観て歩き(92)                ユナイテッド93 

        アメリカ  2001年9月11日。

アメリカ、ニューアーク空港。8時発予定ユナイテッド93便は渋滞のため、42分遅れて飛びたった。 その4分後、世界貿易センター北棟にアメリカン航空11便が突っ込み、炎上した。人々が混乱している最中、今度はボストンからロスに向かったユナイテッド175便がツインタワー南棟に突入した。 これは組織的なテロだと察知した連邦航空局が、全米を飛行中の4200機に、コックピットへの潜入を警戒せよとのメッセージを送信する。

しかし、すでにユナイテッド93便では5人のハイジャック犯が動きはじめていた…。 

この日のことは鮮明に覚えている。見逃していた「タイタンズを忘れない」(「ぶらりNo.32 」)のリバイバル上映を観て、帰宅した直後だった。テレビは「NHKニュース」が世界貿易センターを映し出していた。少し前、北棟に飛行機が衝突したという。

ビルから黒煙が昇っていた。事態が飲み込めないまま見つめていた時(午後10時3分)、画面左方に飛行機が現れ、南棟に閃光が走った。 「また、飛行機がぶつかったようであります」というキャスターの声にはどこか緊張感がなかった。「タイタンズ」は1970年代初頭、ヴァージニア州の保守的な町で白人と黒人の統合高校のフットボールチーム「タイタンズ」が差別を乗り越え、地区大会で優勝する話である。映画はヘイト・クライム(憎しみが起こす犯罪)をなくす可能性を示唆し、心地よい余韻に浸りながら帰宅した私には、眼前で起きた40名の乗客とクルーの死を現実のものとして受け入れることができなかった。  

「9.11」を分岐点に世界が大きく変わった。疑惑の開票で大統領の椅子を獲得したブッシュ・共和党は相変わらず不人気をかこっていたが、「同時多発テロ」以降、国民に「新しい恐怖」の到来と正義のたたかいを訴え、ただちにアフガンを攻撃した。

そして、2003年イラクへの「先制攻撃」へと突っ走った。あれから5年、イラクに大量破壊兵器があるとしたのは誤りだったとアメリカ政府は正式に謝罪した。

アメリカを支持したイギリスのブレア首相も謝罪した。しかし、日本政府は今でも戦争支持が正しかったと繰り返している。そして、「誤り」によって占領されたイラクでは毎日のように戦争中より多い犠牲者を生んでいる。この5年間に世界の人々はなにを学んだだろうか。

「ユナイテッド93」は待っていた作品だった。

しかし、館を出て、名状しがたい気持ちに囚われた。無力感や虚無感のグレー一色で蔽い尽くされた訳ではない。

脱力感はあるものの、何かほっとした、救われた気持ちもあった。

この不思議な感覚が一体何なのか分からないまま、私はいつものように性急に結論を出さずに頭のなかで自然に発酵するにまかせた。

作品の結末を観客は知っている。乗客が助かることはありえない。事実、ありえないまま、映画は終わった。 悲劇の極みを描いたにもかかわらず、救われた気分を感じたということは、この作品のなかの何かが私に肯定的なものを投げかけたからだろう。

かつて、怖い夢を見たことがある。私は閉所も高所も怖い。

一つは炭鉱の落盤で真っ暗闇に閉じ込められた状況。外部と遮断され、狭い空間で酸素も残り少ない。残された時間は短い。世界貿易センターに似た夢も見たことがある。火災でホテルが炎に包まれた。逃れる手段はなく、取り残されたベランダに火の手が迫る。もう飛び降りるしかない。地上の人々が豆粒のように見える…退路を絶たれた恐怖。

日本では怖い夢のことを悪夢と呼ぶ。 ユナイテッド93便の乗客たちは他便の乗客たちと違い、まもなく機の運命を知ってしまう。同じ飛行機でも尾翼が吹き飛んで制御不能に陥った日航123便とはまるで違う。機長には生きようという意思がない。

どうすることも出来ない乗客を乗せたまま、93便は飛び続けた。怒り、諦め、絶望が数十分の間に交錯し、誰しもこれが悪夢であって欲しいと祈ったことだろう。「3人の男にハイジャックされたの」*実際は4人と言われている。「愛していたわ」犯人の目を盗んで携帯電話で家族と話す。しかし、乗客たちはこのまま死ぬよりは、残された時間を力の限り、努力して生きようと思い始めた。互いに連絡をとりあい、機を取り戻すことを決断する。幸い、元パイロットも乗っていた。  少女が電話する。

「みんなで協力して飛行機を取り戻すって。親切な女の人が電話を貸してくれたの」 そして、「いくぞ」の声とともに男たちが突入する。この場面、観客はもはや、この作品にモデルがあることなど忘れて、男たちと一体になる。私は思う。

先に「救われた気分」と表現したのは、この30分間の乗客たちの心の変化から来るのではないかと。そして、それは私たちにとって、生の本質に関わっているからではないかと。 何かを社会から得たり、何かを社会に与えたり、人はそれぞれ生の充実度をはかる物差しを持っている。それは、個々の人間が生きる過程で身につけてきた価値観と言ってもよい。しかし、同時に、歴史的には人間として共通の価値観を形成してきたとも言えるのではないか。

アウシュビッツなど3つの強制収容所で死と隣り合わせの経験を持つ精神科医、V・E・フランクルは言う。避けることの出来ない運命にたいしてどのような態度をとるかは、人間に与えられた生きる価値(態度価値)のひとつだ。

人間は苦境においても自分自身を実現できると。(「意味への意志」春秋社 2002年) 実際に最期まで望みを捨てず、生きようとした例は沢山ある。もう数年前になろうか、私がみた悪夢のような例がNHKで放映された。元鉱夫が落盤を機に閉ざされた廃坑を訪ねるドキュメンタリー番組があった。旧坑道を掘り進み、落盤現場に達して彼が見たのは、災害時のマニュアルどおりに整然と陣を組んで救援を待つ仲間たちの遺骨であった。

すでに老境に達した元鉱夫は語り終えぬまま、激しく嗚咽した。タイタニック号が沈む時、専属楽団の指揮者ハートレイが沈没までの1時間半、演奏を続け、救助を待つ乗客たちを励ましたのは有名な話だ。足元まで海水に浸りながら、最後の曲目の賛美歌を奏でると、甲板や海に浮かぶ人々の間に唱和が起こったという。

93便の乗客たちは生の最期の瞬間まで自らの態度に責任をもった。ハイジャック犯との激しいたたかいに先立ち、胸に十字を切ったことだろう。しかし、機は日本時間午後11時3分、ペンシルバニア州シャンクスビルの畑に墜落。他に一人の巻き添えも出さなかった…。 ポール・グリーングラス監督は抑制のきいた演出でこの作品を亡くなった乗客へのレクイエムとしている。監督の制作姿勢に共感し、実際にその日、管制官などの業務にあたった人々が自分自身の役で出演しており、作品に演出を超えたリアリティをもたらしている。

そして、この作品で留意すべきことは、監督は乗っ取り犯をただのテロリストとして描いていないことだ。映画は犯人となる青年の神への祈りから始まり、犯行を信念にかられた行動として描く。乗客の祈りとハイジャック犯の祈り、監督はこの2つの祈りが高い次元で真に成就されることを願っているのではないか。一部に「テロとのたたかい」を訴えたなどの受け止め方があるが、私には皮相的に思える。

同じく「9.11」を題材にとった「ワールド・トレード・センター」(オリバー・ストーン監督)も観たが、冗長な運びはまだしも、海兵隊員がアクション映画の主人公よろしく振舞う安易な作り方にいたく失望した。死に向き合う人間を扱ったこの2つの作品の間にある決定的な違いは、国家や人種を超えた人間愛、人間の尊厳を視点として有するかどうかだろう。グリーングラスの意図を受け止め、改めて犠牲となった人々のご冥福を祈りたい。                                     (M男)

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バルトの楽園

少し古くなりましたが[M男の映画評論]バルトの楽園です。

前のブログに載せていたものです。

シネマぶらり観て歩き(90)

バルトの楽園             邦画

1914年、第一次世界大戦で日本軍はドイツ領青島(チンタオ)要塞を攻略した。敗れたドイツ兵は日本各地の俘虜収容所に振り分けられた。俘虜たちは当初、久留米の収容所で過酷な2年間を過ごす。1917年、収容所の統合により、

徳島県鳴門市

にある板東俘虜収容所に移送された。ここでは、所長 松江豊寿(松平健)が捕虜たちに地元民との融和を図る寛容な待遇をしていた。頑なな姿勢の捕虜達も次第に心を開いた。その後、ここは彼らにとってパン焼き、新聞印刷、楽器演奏など思い思いの技術を活かして過ごせる「楽園」となった。総統クルト・ハインリッヒ(ブルーノ・ガンツ)は彼らの心の支えでもあった。1918年11月、ドイツが破れた…。

筆者は大学を卒業後、製薬会社に勤めていた。本社が徳島にあったので訪れた際、作品の舞台となった記念館にも行った。展示されたスナップ写真の中のにこやかな笑顔が今でも印象に残っている。日本で最初にベートーベンの「第9交響曲」が演奏されたことも説明にあり、これは美しい話だと思った。

あれから、30年弱の年月が経ち、再び坂東の光景に巡り合った。写真を見て描いていたイメージとさほど違わなかった。

私は日頃、人間を評価する物差しは「何を言っているか」ではなく、「何をしているか」に置く。通常、人間は思ったり、言ったりしている内容より行為の方が立派だ。たとえば、「自分が一番可愛い」と思っている人が、しばしば自分を犠牲にして他者のために尽くす。世の中はその両義性の上に成り立っている。

ある人間が真に人間愛の持ち主かどうかは弱い者への態度で分かる。松江所長は戊辰戦争に敗れた会津藩士の息子であった。「会津降伏人」と蔑まれた父の苦労、敗れたものの気持ちを知っている。だから、捕虜たちへの第一声において「諸子を遇するに博愛の精神を縦糸に、武士の情けを横糸にしたい」と述べたのは外交辞令ではなく、心の底からのメッセージであった。

坂東収容所のエピソードはこの松江の特質に負うものが大きい。

逆に、作品を観た人が違和感を持つとしたらこの部分だろう。第一次世界大戦はドイツとイギリスを前面に出して戦われた帝国主義列強の戦争であった。戦車や毒ガスなど残虐な近代兵器が史上初めて使用されたこの戦争中に“博愛”の言葉は浮いて聞こえる。また、捕虜に“武士の情け”を施すというのも時代錯誤めいている。しかし、彼は信念を貫こうとし、その心はドイツ人捕虜たちに通じた。先の第一声を聞いた瞬間、捕虜たちの顔には安堵の色が浮かんだという。

捕虜の多くは民間人で、農業技術者や経済学者、土木技術者など多彩であり、彼らは技術を生かし、地元民にも伝えた。「鉄条網はあったが、事実上外出は自由で、ドイツ皇帝誕生日やクリスマスにはビールパーティも許可、手紙の回数制限もほとんどなかった。規律違反などの処罰権を捕虜自身に与えている」。

 スポーツや音楽も楽しむことが出来た。いくつかの楽団が結成され、それは大正7年6月1日、日本最初のベートーベン『第九』演奏につながった。ドイツ人一千人の自治が花開いたのである。

今日では、誠実、人類愛、友情などの普遍的な人間性を表す言葉が本来の意味を失い、記号化している。これらの言葉に会うと一瞬フリーズするのだ。しかし、坂東の奇跡をもたらしたのはまさに言葉を誠実に実行する人間的態度であった。人間が歴史的に創り上げてきた理性という高い精神性は民族の違いを突き抜ける共通語であった。

マスメディアによって刺激的かつ殺伐たる事件が洪水のように流される。しかし、それほど人間は狭くないし、映画も狭くない。30年前、私が美しいと感じた話は今日、映画化され、人々に観たいという欲求を起こさせる力をもっているのだ。

この種の物語には常に人間愛を類型的に描く危険性がまとわり着き、しばしば評価が分かれるが(「シンドラーのリスト」を想起する)、今作品はぎりぎりの処で踏みとどまっている。松平健が所長役を良くこなし、ドイツ人エキストラたちも生き生きと演じており、「第九」の高らかなシンフォニーがいつまでも残響する。

                                   (M男)

【エンゲル少尉の楽団】

記録写真は同著から

参考文献:「日録20世紀1919年」(講談社)。「 」中の文は同著に拠った。

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2006年9月30日 (土)

ハイジ(「阿弥陀堂だより」を想起)

M男の映画評論も再出発です。 少し前の映画になりましたが今回は「ハイジ」です。

シネマぶらり観て歩き(91)                ハイジ(Heidi)                                イギリス映画

6月のある晴れわたった朝、スイスアルプスのアルムへ続く狭い山道を二人づれが登っていた。少女ハイジ(エマ・ボルジャー)と叔母デーテ(ポーリン・マクリン)である。

ハイジは幼い頃、孤児になり、デーテ叔母と暮していたが、叔母に働き口が見つかったのでアルムにいる祖父に預けられることになったのだ。

祖父(マックス・フォン・シドー)は険しい山の上に一人で暮していた。

村人との交流を嫌う偏屈者で人を殺したこともあるという噂もあった。

しかし、ハイジはすぐに祖父に慣れ、山羊飼いの少年ペーター(サミュエル・フレンド)や移り行く自然とともに満ち足りた日々を過ごしていた…。  お馴染みの「アルプスの少女ハイジ」。

1974年にアニメ(高畑勲監督)で1年間テレビ放映され、その後も繰り返し放映されたため、よく知られている。当時、アニメを見て育った世代がお母さんとなり、今ハイジの年頃の子どもを育てている。今でも絶大な人気があり、親が子どもに見せたいアニメのトップである。

万年雪をいただく峰々、青い空、お花畑。

現代人はスイスの風景に憧憬にも似た感情を抱く。

今回「ハイジ」を選んだのも心の病とつきあう妻の提案によるものだった。

映画はアルプスの巡る季節やハイジの成長、人々とのふれあいを描き、心に染み入る出来栄えだった。

あらためて、図書館から原作(「アルプスの少女ハイジ」角川文庫 関泰祐・阿部賀隆訳、昭和27年発行、絶版)を借りて読んでみた。

作者はヨハンナ・シュピーリ(スイス人、1827~1901)で「ハイジの修行時代と遍歴時代」(1880年)と「ハイジは習った事を使うことができる」(1881年)の2部からなる。

印象はかなりキリスト教色の濃いものだった。

根底には信仰が人々を幸せにする予定調和がある。

たとえば、字を読めるようになったハイジがアルムに帰って真っ先にしたことは貧しいペーターの盲目のおばあさんに賛美歌を読んで聞かせることだった。

また、アニメではクララが不注意で車椅子を壊すが、原作ではクララにハイジを取られたと妬んだペーターが車椅子を谷底に落とす。

(こちらが子どもらしい)ペーターは終盤、その罪を告白し、ゼーゼマン夫人(クララのおばあさん)からご褒美として一生困らないほどのお金を毎週もらうことになる。

そして、物語はゼーゼマン夫人の次の言葉で終わる。

「ハイジや。賛美歌を一つ読んでおくれ。わたしは、これから先は、たくさんのおめぐみを授けてくださった神様に感謝することよりほかには何もないんだからねえ」(前掲、p.293) もし、この雰囲気のまま映画化されたら観客は辟易してしまうだろう。

監督ポール・マーカスは原作に沿いつつも、宗教色をそぎ落とし、物語の本質を彫り出した。 何よりも、人々の心をとらえるのはハイジの明るさだ。

エマ・ボルジャー演じるハイジの屈託のない言葉やふるまいは自然と観客の心を開かせていく。「ハイジ」が永遠のベストセラーであり続け、たびたび映像化されるのも、少女のもつ向日性に人が魅きつけられるからであろう。

人間が求めてやまないこの明るさとは一体、何だろうと考えてみた。

確かに、親の庇護から離れ、人生が必ずしも輝きに満ちたものではないことが分かる時代、人は暗さに憧れることがある。

屈折した文学や反理性を説く哲学に傾倒する。

しかし、多分それは人間が成長する振幅の一つであって、その奥にもとめているのは明るさではないだろうか。

明るさとは希望であり、良くなるイメージ、良くなろうという意欲と繋がっている。

ハイジは持ち前の明るさで閉ざされた人々の心の扉を開け、人と人を紡いでいく。

シュピーリは人間の精神の美しさをハイジのなかに込めたのだろう。

しかし、シュピーリはハイジをただ天使のようには描かなかった。

物語に生命を吹き込んだのは影の部分である。

映画を観て思ったのはハイジとクララの病気を通して見える現代性であった。

ハイジはクララの話し相手としてフランクフルトに行く。

しかし、窓からは山が見えず、道は石で敷き詰められて土が見えない。

ロッテンマイヤー(ジェラルディン・チャップリン)が仕切る厳格な屋敷の生活で、ハイジはとうとう夢遊病になってしまう。

また、クララは日常を車椅子で過ごしている。

クララの母は亡くなっており、商人である父はたびたび出張し、親代わりはロッテンマイヤーである。 ところが、山に行くとハイジは元気を取り戻し、クララは歩くことが出来るようになる…。

古今東西を問わず都市化にともなう住みにくさは人を病気にしてしまう。

ハイジという少女のもつ自然さは大人たちを変えていくが、いびつな都市のなかで壊される。その自然が恢復するのは山のふところに抱かれた時であった。

「阿弥陀堂だより」(「ぶらり」No.45)を想起させるこのストーリーは、人間は自然の一部であり、自然によって生かされていることを示唆する。

映画はとりあえずの宗教色を排しながらも、我われの内にある、人や自然を敬う素朴な気持ち(宗教心)に繋がっている。

館内は親子づれが多かったが大人も十分楽しめる。

DVDが出たら、是非お子さんと一緒に観ていただきたい。                                    (M男)

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