カテゴリー「歌論」の記事

大久保巳司短歌集を読んだ

大久保巳司短歌集を読んだ

まえがきによると大久保さんは19532月生まれなので私よりも丁度一歳若い。

場所は違うが従って学生時代の事などは共有するものが多い。

しかし境遇はかなり違う。

ホテルに就職後ほどなく筋ジストロフィーに罹って退職し38年の病気と闘う日々を送られて今は療養施設に居られ、現在動くのは首から上だけになり、本も読めなくなっています。   大きな病気をしたことのない平々凡々とした私の人生からすると驚愕の人生です。

共通しているのは短歌と俳句を作るという事です。生きる証としての今後の創作活動に期待をしています。

小平考常さんら新日本歌人愛知支部の方々のご努力で手作りながらこの山の綺麗な花々の写真が入った素晴らしい短歌集が出された事に感謝致します。

 

選んだ十首を紹介します。

「一握の砂」のページをめくり得ぬ萎えゆく吾が手の重さかなしさ

元気かと我が身に染みる親心わがため卒寿を越えゆけ父母よ

施設生活はやくも経ちし十五年床ずれ肺炎また冬が来る

代筆で葉書きに書きいる母いての十年を越えゆく短歌投稿

平和をば支える重みの一票ぞせめて病よゆっくりと進めよ

病む身をば彩る悲しみひめ蛍とおくなりゆく君がいた夏

幸せはありふれたことたとうれば母がつくりて食べいるおはぎ

老いてなお歌い続けるボブディランおまえはどうかと風に吹かれて

うず高くほこりかぶりし本の山再び取れぬ我が悲しき

尿道にくだを通して尿処理かかる痛みも生きいる確かさ

 

以上です。

2020/03/16 大津留公彦

 

 

 

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小石雅夫著 「やさしい短歌の読詠」を読んだ

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小石雅夫著 「やさしい短歌の読詠」を読んだ
著者は「はじめに」にこう書いている。
「短歌は作り方というものの基礎となるものは、一にも二にも読みかた」
従って多くの歌が紹介されそれについてのコメントがされている。
いくつかの文章を紹介します。
啄木の歌を四首紹介して「青春、窮乏、望郷、社会意識、病などのほとんどを見ることができると思います。」と書きこの歌を紹介しています。
亡くなれる師がその昔
たまいたる
地理の本など取りいでて見る
そしてこの歌を連想すると「新しい発見」をしています。
地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつゝ秋風を聴く
そして余計なことをいうようですがとして以下を書いている。
「すでに短歌をはじめているという人でも、よくよく聞いてみると、意外や意外、そうした歌人の歌集、さらには評論や歌論を、知識としてはよく知っていても、実際にはきちんと読んでいない“知識人”でだけでいる人が案外に多いものです。そうならないように、初心のうちに、これと思う歌人の歌集はまるごと読んでおきたいものです。」

「敵(短歌という容れ物)を知り己れ(盛り込む内容)を知るもの百戦(作歌)して破れず(短歌の成功)だと言いたいのです。」
「単なる『三十一文字』としてだけの器は底のないか浅い皿で、詩としての三十一音律を伴った器は底の深い、実もつゆも盛り込める大きな甕のようなもの」

1、 自分の感情を歌にこめるとき、むき出しにしないで、どう歌の内容に感情移入をして(仮託)いくか。
2、 歌のイメージをくっきりとさせる表現には、文字の意味上だけでなく、色彩的感覚の活用・効果も大きい。
3、 広大なものと卑小なもの、などのような対比的な表現で、より主題対象を明確にしていく。
4、 同じ対象でも、見方や性質など固定化せず、時・所によってさまざまな面から捉える
5、 対象の細かい観察と新しい発見に日頃から心を敏感にしている
6、 言葉の連想性などを捉えて、不要な説明的な部分の省略した表現をしていく

「作り方、あれこれ」からキーワードを並べます。
倣うこと、習うこと、一言メモ、一首一目、舌頭千転、まず、「生活を歌え」、人の心を種として、自然詠、生活詠、社会・時事詠、愛を詠う、終焉(期)を詠う、戦争を詠う、直接期的、間接的―詠み方、

最後に行分け短歌について
「新日本歌人」には行分け作品欄があります。主に田中収氏の「口語短歌の研究」からの紹介です。

「定型短歌的調律とはなにかといえば、五七五七七音の五句校正の調律であり、これが短歌基準律である。(中略)つまり短歌というからには短歌基準律によるものであって、それのない作品は、たとえそれがすぐれた短詩であっても短歌ではないと考えている」というのはかつて代表であり、口語歌を作った佐々木妙二の「短歌基準律論です。」
また渡辺順三はこう言っている。
「短歌の独特な韻律美というものは長短五つの句の構成によって生じているものだと思うのです。」
啄木の三行書きの短歌について「行分け(分かち書き)は、単に形式に変化を生じさせるだけのものではなく、内容にも大きな変化を生じさせる意図を含んだもの」であったと赤木健介はし、さらに後には、行の分かち書きだけでなく、字下げや句読点、記号まで使った新工夫をしめた点なども注目しています。

行分け作品欄の呼称について結論的に小石さんはこう書いています。
「新日本歌人」には行分け作品欄は「口語行分け自由律」とすることが、形式・内容ともに正確であろうと思います。
この呼称に私は大いに賛成です。

最後にまとめ、にかえての文章を引用します。

二八二首の多くの歌を紹介したことに触れ「短歌のつくり方というのは、つまり、より多くの短歌の読みののなかからこそ会得されていき、学びとられていくことが最良なことであるのだと思うからです。実際にも、先ずはじめに短歌を少し読みはじめてから、作歌への関心へ移ってくる、ということが一般です。したがって、本来の短歌入門というのは、短歌を読むことが第一歩であり、ここがもっとも基本点となるべきところなのだと思います。短歌の読み、作品の鑑賞力なくして、よい短歌が作れるはずはないと思っています。このことからあえて言えば、短歌のつくり方とは短歌の読み(の力)のなかにこそあると言えるだろうと思います。」
いい歌を沢山読みましょう。以上です。 2020/03/16 大津留公彦

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社会・自己一元の生を写すー田中礼評論集「時代を生きる短歌」を読んだ

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社会・自己一元の生を写すー田中礼評論集「時代を生きる短歌」を読んだ 大津留公彦

田中礼さんは二〇一九年九月十三日に亡くなった。

私がお会いしたのは二〇一八年五月に京都で一回だけである。

その時のことは歌集「燈火」の感想文に書いた。

二百ページを越える評論集の感想を短くまとめるのは難しい。

ましてこの中には一九六〇年代からの多岐に亘る文章が掲載されている。

従ってまとめは諦めて気になった文章を部分的にではあるが一部省略しながら紹介しようと思います。

この本は短歌論と歌人を語ると短歌時評の三つの章からなっているので二つの章について紹介します。

Ⅰ短歌論から

・桑原武夫は昭和二十二年に「われわれの理論的見とおしにも拘わらず、決して急速には亡ぶまいと思われる」(「短歌の運命」)理由として、次の諸点をあげられた。

  1. 今の日本人が前途に多くの希望を持たず、そして人間は苦しいとき郷愁がつよくなるものだからである。(中略)そして内容よりも形式が大切とする精神がなお強く、小説や詩よりも和歌を上品とする気持は中々消えまい。
  2. 日本のいまの社会は余り金がかからずにひまを消し、慰安を与えてくれるものに乏しい。日本人は二三人ならよいが、多人数で共通の話題を論じ合うことは下手であり、また嫌いである。ことに文学や思想のわかる人はむっつりして他人の話など問題にせぬ、という風でないといけないことになっている。そこで短歌俳句という甚だ作りやすいものが、日本人の孤独的なささやかな自尊心をみたすに最も手ごろのものとなる。二の「金がかからずにひまを消し、慰安を与えてくれるものに乏しい」については「金よりもまず暇がない」と書く。「日本人は、多人数で共通の話題を論じ合うことは下手」については「歌会は、人々に恰好の場を提供する。そこでは、議論下手で孤独な日本人が、ともかくも自分の作品をたずさえて討論に参加し、職業、階層の差をこえて他の人々と人間的なつながりを持ち得る。」という。(新日本歌人に)一行書き文語定型歌と行分け口語歌が共存するというのは一面ではよいことである。しかし、現在ではその利点は余り生かされてないように思われる。良い歌の基準は一つである筈だから、もっと作品の上でも交流があってもよいのではないか。行分け文語歌や一行書き口語定型歌というのもあってよいと思うが、そのような組み合わせはほとんど見られない。後者については俵万智がこれで成功したと言えるだろう。」(『新日本歌人』一九九〇・一二)Ⅲ短歌時評から
  3. (行分け文語歌にはトライしたことがあるがこの歌がここにある理由が分からないと書かれた事がある。)
  4. ・文語定型歌と行分け口語歌
  5. 礼さんは一について情勢の変化を述べながら「小説や詩よりも和歌を上品とする気持」は「歌人仲間の間でも希薄」であると書く。
  • 短歌史を歪めるもの近藤芳美の次の言葉を紹介している。「新しい短歌とは同時に、決してシュール的なものばかりをさすのではなく(略)各自が生きてゆく上に勇気をそそり、明るい救ひをもたらす様な歌を作りたい」(加藤克己)(『新日本歌人』一九九一・一一)
  • (決して古くはなく現代短歌への警鐘でしょう。)
  • 『人民短歌』や「新歌人集団」の意図したものを切り離して現代短歌を考えることは、無意味な試みである。むしろ、戦後「前衛短歌」の後を継ぐものの方が見出しにくいのが現代短歌の実情ではないか。
  • 「今日有用の歌とは何か。それは今日こそ現実に生きて居る人間自体をそのままに打ち出し得る歌の事である。」(近藤芳美)
  • (一九九〇年)『歌壇』九月号での岩田正の文章から『人民短歌』や「新歌人集団」に加わった有力な歌人たちの動きを描いている。
  • 社会詠と現代短歌(『新日本歌人』二〇〇二・八)「長い伝統ゆえの魅力と桎梏、この二つの要因のなかで、短歌はさまざまな努力を積み重ねて来た。時代の終わり目の度に、短歌否定論がでてくるが、その論とは直接に関わらないところで、前代を上回る人数の新しい作者が現れて、いっそう多くの短歌が作られる。その現象はしばしば、否定論者をいらだたせるが、このようにして再生される短歌文化は、明らかに西洋直輸入の文芸理論の網の目にかからぬところを持っている。そこを無視して通り過ぎるのも自由であるが、それでは本当の意味で、日本の文化を探り当てることはできないのではないか。短歌は最もよく日本の心を表現している。」   
  • 田中礼さんの歌論に頷くことばかり京都の街のにしんそば忘れじ
  • 歌友であり戦友であった田中礼さんのご冥福をお祈りします。
  •  英米文学の研究者であった礼さんならでは視点だと思います。
  • 最後にあとがきから紹介して終わります。
  • 「大体に社会を描くには背景の説明を必要とするが、記録性という点では短歌は、いかに凝視力、メタフォー、イメージ、虚構、文明批評などを駆使しても、詩や小説の描写力を越えることはむずかしい。短歌の力はやはりその事実性、体験性の重み、瞬間性の魅力にあるのではないか。同時に短歌の社会詠には、社会に働きかける心、実体験(実践)による社会との一体感、そこから滲み出る瞬間の叫びとでもいったものが要求されるのではなかろうか。自己の内部へ社会を抱え込むことが必要なのではないか。茂吉は自然・自己一体の生を写すと言ったが、この言い方を借りると、社会詠では社会・自己一元の生を写すことが必要なのではないか。いわゆる専門歌人の社会詠は、しばしばそこのところが欠落しているように思うのだ。」

二〇二十年三月十九日 大津留公彦  

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「短詩形文学」の2019年10月号を読んだ

短詩形文学」の2019年10月号を読んだ

毎月送って頂いてますがいつも斜め読みしています。

しかし今号は垂直読みをしました。それは行けなかった8・15を語る歌人のつどい特集だったからです。

特集内容は以下です。

海老名香代子「残された一つの命」

短歌リーディング「わたしたちの日本国憲法」(沖ななも他)

市川八重子「満州における少女時代の戦争体験」

小石雅夫「軍人でない海員としての戦死~暗き眼窩に魚の棲めるや」

 

海老名香代子さんのお話は壮絶です。三月十日の東京大空襲で、両親、兄二人、弟一人、祖母の六人をなくし一人だけ残されたそうです。その後沼津、能登と逃れ、戦後近くだった三遊亭金馬師匠の世話で林家三平氏と結婚し、夫が亡くなったあとは毎年三月十日には焼け跡を歩き始め、今は毎年三月九日に上野で「時忘れじのつどい」を開催しています。

海老名香代子さんもそうだった孤児が戦後十二万人居たがその半分は餓死で亡くなったと言う。悲しい、だけど忘れてはいけないことだと思います。

海老名香代子さんの以下のような平和万葉集の歌も紫あかねさんによって朗読されました。

  焼け跡に一人ぼっちの十二の子なぜ皆死んだのと天を突き泣く 香代子

 

市川八重子さんのお話の悲しいものでした。

敗戦前一週間にロシア軍が侵攻し、ロシア軍と中国国富軍と八路軍が闘い翌年の米軍の進駐まで無政府状態だったこと。色白い男性が連れて行かれ女性でないとわかり殺されたこと。自殺用に手榴弾を渡されたこと。十三歳で兵士にならされた子どもがいたこと。満蒙開拓青少年義勇軍と呼ばれた十八・十九の若者が長野から六千六百人も出ていること。引揚列車で「おっぱいが出なくなった」とつぶやいていた母親が赤ちゃんを抱いて列車から飛び降りたこと。多くの話が胸を撃ちました。

  二千体焼きし満州の湿原に姫百合の朱わが目を射ぬく 八重子

 

最後はわが新日本歌人協会代表の小石雅夫さんのお話でした。

これも聞いたことの無い話でした。

小石雅夫さんの父は敗戦の二十日前に小石さんが小学校の三年生の時に亡くなった。

疎開勧告を受けて愛媛の宇和島から軍部の町に移り八月十五日を迎えた。

一年経った頃父のこういう死亡通知が届いた。

「昭和二十年七月二十七日、敦賀沖三十海里において、潜水艦の雷撃による戦死」

大阪商船の合同慰霊祭に参加し貰った骨箱には「小石熊一之霊」という紙切れ一枚が入っているだけだった。

父の五十回忌を松山で行った翌年の父が死んで丁度五十年になる日に敦賀の海を見に行って、「おやじーつ、おーやじーつ!」と大きな声で叫んだ。

そのあと神戸の海員会館の「戦没した船と海員の資料館」に行き民間の船と海員が消耗品扱いだったことを知る。太平洋戦争船員の手記「海なお深く」には当時の船員は三十万弱で、その内死者は六万強という事です。更に当時のアメリカ海軍の日報を見せて貰い父が乗船していた筑前丸は雷撃を受けた時間が午後九時頃だったことまで判った。

ここには以下の衝撃的な記録がある。そこには日本政府がポツダム宣言に答えず、従ってトルーマン大統領が原爆投下の指示を決定したと書いてあったという事です。

ポツダム宣言の受諾がもっと早ければ小石さんのお父さんの死もなかった可能性がありますし、沖縄戦やヒロシマやナガサキの惨禍もなかったかもしれません。

戦争をしない、させない思いを痛切に思う講演でした。

   海深く父の髑髏の沈みいて暗き眼窩に魚の棲めるや 雅夫

 

8・15を語る歌人のつどい特集は以上ですが八月号についても書いていますので紹介します。新日本歌人2019年8月号の「受贈誌拝見」に書いた文章です。

短詩形文学8月号NO751反戦平和特集

冒頭に水野昌雄さんの<戦後短歌史抄>

作品と時代(336)が置かれている。

8月に反戦平和特集を組んでいるのは新

日本歌人と同じ。本号には新日本歌人で連

載中の英国在住の世界樹の渡辺幸一さんの

「国際社会と沖縄と短歌」という12頁の

評論が圧巻であった。芥川賞作家日取真俊

や紅短歌会の玉城洋子の作歌と行動の統一

の様を書いている。曰く「玉城氏らは辺野

古での座り込みを通して権力の重圧を肌で

感じ、それを歌に詠んできた。彼らにとっ

て抗議行動と歌を作ることは車の両輪なの

だ。沖縄では時代と歌がそのような形で繋

がっている。」他に52編もの「戦後七十

四年と私」と題したエッセイが掲載されて

いる。新日本歌人で見慣れた人の名もある。

作品はあいうえお順に並び会員は10首で

購読会員は3首です。総頁数は68頁で、

会費は2千円、購読会員費は800円です。

(発行人 下村すみよ)

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永田和裕と河野裕子の相聞歌

 先日のBSの平成万葉集はいい番組だった。2回目のテーマは「男と女」だった。

特に永田和宏と河野裕子の相聞歌が痛く胸に刺さった。

特に河野裕子の絶詠のこの歌です。

 

「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」河野裕子

以下あるサイトから二人の歌だけを紹介します。連休中に本を読もうと思います。是非みなさんもご鑑賞下さい。

 

 「歌は遺(のこ)り歌に私は泣くだらういつか来る日のいつかを怖る」という永田和宏

 

左脇の大きなしこりは何ならむ二つ三つあり玉子大なり(裕子)

 

歩くこと歩けることが大切な一日なりし病院より帰る(第九歌集より 裕子)

 

四年まへ乳腺外来に行きしかど見過ごされたりこれも運命か(裕子「日付けのある歌」)

 

病院の横の路上を歩いているとむこうより永田来る。

 

 何といふ顔してわれを見るものか私はここよ吊り橋じゃない(裕子)

 

白木槿あなたにだけは言ひ残す私は妻だったのよ触れられもせず (河野裕子「葦舟」)

 

淳の肩にすがりて号泣したる夜(よ)のあの夜(よる)を知るひとりが逝きぬ(永田和宏 夏・2010)

 

どこをどうふらつきをりし魂か目覚むれば身は米とぎに立つ(裕子)

 

 あの時の毀れたわたしを抱きしめてあなたは泣いた泣くより無くて(裕子)

 

一日が過ぎれば一日減ってゆく君との時間 もうすぐ夏至だ 永田和宏「夏2010」)

 

みほとけよ祈らせ給へあまりにも短きこの世を過ぎゆくわれに(裕子「京都歌紀行」)

 

わたくしはわたくしの歌の為に生きたかり作れる筈の歌が疼きて呻く(裕子「蝉声」)

 

 悔しいときみが言ふとき悔しさはまた我のもの霜月の雨(永田和宏「夏・2010」)

 

 ふた匙なりともの御言葉の通りやっとふた匙を啜り終へたり(裕子)

 

白梅に光さし添ひすぎゆきし歳月の中にも咲ける白梅(裕子)

 

わが知らぬさびしさの日々を生きゆかむ君を思へどなぐさめがたし

 

さみしくてあたたかかりきこの世にて会ひ得しことを幸せと思ふ

 

泣いている暇はあらずも一首でも書き得るかぎりは書き写しゆく

 

長生きしてほしいと誰彼(だれかれ)数へつつつひにはあなたひとりを数ふ

 

 のちの日をながく生きてほしさびしさがさびしさを消しくるるまで (以上裕子)

 

 歌は遺り歌に私は泣くだらういつか来る日のいつかを怖る(永田) 

 

雨?と問へば蝉(せん)声(せい)よと紅は立ちて言ふ ひるがほの花

 

たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり

 

君を打ち子を打ち灼けるごとき掌よざんざんばらんと髪とき眠る

以下全文を是非お読み下さい。

https://blog.goo.ne.jp/basama2009/e/49b053bda559ccb1528de86493596cbf

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啄木と一茶

啄木と一茶

たまたま持っている1997年に大阪で発行された「石川啄木の会」発行の「新しき明日」第19号に安井ひろ子さんの「啄木と一茶」という文章があった。

717短歌俳句勉強会で啄木と一茶と芭蕉の勉強を始めるに当り相応しいのでご紹介します。

この文章は軽妙なエッセイです。なにせ啄木と一茶と安井さんの三者鼎談なのですから。

(こういう文章の書き方があるのだということに感じ入りました。)

(第18号にはゲストとして前に学んだ橘曙覧も登場している。)

 

この鼎談の内容は極秘事項のようだがここに書かれていることを一部紹介しよう。

貧乏比べ

――

自分を上回る一茶の貧乏ぶりに啄木はかなり気を良くしたようだ。

 秋風や家さえ持たぬ大男 一茶

「詩集「呼子と口笛」の<>の詩が語るように、啄木にとって心から求めてしかし最後まで得られなかったのが安住の<>であった。」

梅咲くやあわれ今年も貰餅 一茶

 春立つや四十三年人のめし 一茶

 借金を重ねたまま二十七歳で逝った啄木。四十三歳まで他人のご飯を頂戴してきた一茶に比べれば何のことはない。啄木も自分の借金魔の悪評が多少なりとも緩和されたようで今回の鼎談は嬉しかったのではなかろうか。

――

春立つやの句は享和四年(文化元年)の歳旦句

貧乏比べのような様相だが、大衆性ということで通じ合うものがあるとしている。

 

江戸と東京への憧れと反発

――

ちち母は夜露うけよと撫でやせめ 一茶

(訳 父や母が冷たい夜露を受けさせるために撫でて子どもを育てたのだろうか。)

という句を一茶に披露させている。

(蕪村の「鰒(あわび)喰へと乳母はそだてぬ恨みかな」(落日庵句集)をヒントにして、一茶の継子意識から生れた句作り、貧窮問答歌の「われよりもまずしきひとのちちはははうゑこゆらむ」(万葉集・巻五)の影響もあるだろう)と「一茶句集」の解説にはある。

生涯二万句以上を残した一茶は蕪村の影響を強く受けている。

 

そして啄木の流浪生活を共感して「信濃の山猿一茶」がこういう自句群を述べている。

 春の雪江戸の奴らが何知って

初雪や江戸の奴らが何知って

名月や江戸の奴らが何知って

秋の風江戸の奴らが何知って

江戸への複雑な感情が初句以外は「江戸の奴らが何知って」で統一されている。

一茶の並々ならぬ江戸への憧れと反発が感じられる。

この句は最近大阪で発見された句か、一句も「一茶句集」には収録されてない。

 

下ネタ話

下ネタ話も共通項が紹介されている。

啄木は「ローマ字日記」で詳細に記事を残している。

ドナルド・キーンはこれを最高の日記文学と評している。

一茶は「千束町のお女郎さんや飯盛の八兵衛を相手に相当遊んだようだ」と安井さんにばらされている。

 

啄木と一茶はこれ以外にも大層筆まめなこと反エリート意識の強いことで意気投合したようだ。

安井さんは最後にこう感慨を言う。

――

今日においても金にも飾りにもならない俳句と短歌。一茶に引かれ、啄木に曳かれてこの魅力的な旋律のとりこになった人々が日々や句を歌に詠みつつ明け暮れる。

そういう私だって。

――

安井ひろ子さんは現在、秋沼蕉子さんとして「新日本歌人」誌に歌の投稿を続けている。

この四月号にこういう歌がありました。

p28このことばメールで打つたび迷うなり(素敵、素的、すてき、ステキ)どれがいいやろ

大阪 秋沼蕉子

★自由な言葉使いが素敵です。

以上です。

2019410日 大津留公彦

 

 

 

 

 

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大津留公彦流短歌の作り方

18年前の文章に追記しました。

やや古い部分もありますがアップします。

いかがでしょうか?

ーー

大津留公彦流短歌の作り方2019

20012月の文書を更新)

2019/01/23 大津留公彦

 

  • たくさん作る毎日1首作るのは大変だが1週間に8首作るのは難しくない。(2017年11月15日より毎日8首ブログに投稿中)

 

    1.  
    2. 1年間に365首以上作る
    3. 量の蓄積が質の変化に繋がるのでたくさん作る事を心がける。
  • メディアを活用する 

 

    1. 新聞・本・雑誌・ビデオ・CD・テレビ・インターネットで得た感動を自分なりの歌にしよう。
  • テレビを見ながら記憶できない言葉はメモしなければ自分の使用語彙からは消滅してしまう。メモしながら徐々に短歌にして行く。

 

    1.  
    2. その時しかメモするチャンスのない言葉もある。
    3. 気に入ったテレビ番組は再放送も見るか聞きながら作歌する。
  • モバイル作歌環境を作る時間の出来た度に細切れにでも短歌にして行く。

 

    1.  
    2. 通勤電車・出張等の中で思いを携帯機器(電子手帳)にメモする。
  • 個人的及び社会的出来事に敏感になる人より先んじて歌う心意気を持つ。

 

    1.  
    2. 今日の事は今日歌うのが一番迫力がある。
  • 熟成させる見なおす度に完成度は確実に上がって行く。漢字や文法の間違いをしないように(電子)辞書を引く。

 

    1.  
    2. 良い作品とは推敲の回数の多い作品。
    3. 一度作った歌は別の日に見直す。(この為にも携帯機器は便利)
  • 歌会で揉んでもらう人は自分にない観点を持っており指摘してもらう事によって必ず役に立つ。 

 

    1. 人の指摘は謙虚に聞く。(採用するかしないかは本人の問題)
    2. 自分の眼で校正するのと同時に他人の眼でチェックして貰うのが有効
  • 積極的に投稿する新聞に投稿する。 

 

    1. 文学コンクールに応募する。
    2. 短歌集団に属し歌会に参加し短歌誌に無欠詠を目指し出詠する。
  • 手がかりを残す 

 

    1. 写真・メモ・手紙・録音・日記などの形で残し後日それを元に作歌する。
  • テーマに食らい付く出来た歌からイメージを広げて連鎖的に他の歌を作る。

 

    1.  
    2. 一つのテーマで連作をする。
  • 進んで冒険をし失敗を恐れない字余り・破調を恐れない

 

    1.  
    2. 新しく思いきった表現を使い破綻を恐れない。
  • 個性のきらめきを自分にしか歌えない個性的な歌を目指す。 

 

    1. それは事柄にも表現にもいえる。
    2. 誰でも作るような歌はいくら作っても仕方がない。
  • 嘘は歌わない但し事実と真実は違うので必ずしも事実である必要はない。表現上のテクニック(誇張・デフォルメ・転用・愉等)は構わないが内容のでっちあげはいい歌に通じないのでやらない。 

 

    1. いつの世もリアリズムが文学の基本。
    2. 実感が真実であればいい。
    3. 真実を歌う事が肝要。
  • 整理はパソコンで作成日・作成場所(イメージ含む)・テーマ・季節・投稿の有無・掲載の有無を記録しソーティング(分類)出来るようにする。

 

    1.  
    2. 表計算ソフト(EXCEL等)を使って整理する。
  • ホームページに発表する歌をまとめるたびに更新する。

 

    1.  
    2. 自らのホームページを作り作成したデータを掲載し発表する。
  • 歌集を出す 

 

  1. データを日付別・テーマ別・季節別などにソーティングし厳選して歌誌掲載歌等他人の目を通ったものを中心に(電子)出版する。

以上

以下2019年追記

 

17、俳句や川柳にも興味を持ち可能なら作る

それを基に短歌を作る。

 

18、facebookの短歌グループに属し発信し交流する。

 

19、twitterに発信しその記録機能(twilog)を活用する。

 

20、幅広い芸術分野に興味を持ち交流し作歌に役立てる。

 

 

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小泉修一さんの歌文集「旗持ちの歌」を読んだ

小泉修一さんの歌文集「旗持ちの歌」を読んだ
「本書は2013年出版の『風と杖と』以降六年間に詠んだ短歌二三五首と、同時期に書いた評論二編を収め」たものである。(作者あとがき)
こういう歌がある。

わが翳す旗に人の眼まず留まる胸張らんはや腰疼くとも
妻逝きて六年独居の淋しさは言うまい皆(みんな)がんばっている
独り居の我は午(ひる)から行方不明隣(となり)都市(まち)のニュー・イヤーコンサートにいる

九十二歳の歌人・小泉修一健在である。
――
評論の二つはいずれも「新日本歌人」に掲載されたものである。
評論の一つは「歌に縋りてー石田マツ考」(二〇一四年十月号掲載)
石田マツは二十三歳で自死している。
こういう歌が紹介されている

馬車馬のごとくもくもく砂背負うこの苦しみを誰か知るらん

土木工事で働く少女マツの歌である。

当時の新日本歌人常任幹事信夫澄子に語る手紙の形の日記が残っている。

又、遺歌集にはこういう歌がある。

死を考え死なんと思い死にきれずすべてを歌に託して五年目

なんと十八歳から自殺を考えていたということになるが日記の中に「啄木を尊敬し、私も書き始めたのが短歌でした。」とあるのでマツが生き得たのは啄木のおかげだろうと小泉さんは書いている。

小泉さんが石田マツのことを知ったのは六十を過ぎての新日本歌人関東近県集会だそうであるがしばらく間を置いて、その後亡くなった蓑輪喜作さんの「石田マツ女を思う」という歌が新日本歌人に掲載されて以降再度興味をもたれたようである。
中にはこういう蓑輪さんの歌がある。

君の歌わが歌のりし雑誌「葦」ボロボロなれどいまだ捨てえず

「「葦」とは「生活記録雑誌」との副タイトルを持ち、当時の勤労青年層に普及した雑誌であり、マツも投稿者だったのだろう。」
「「葦」を通じてペンフレンドになったYに恋したマツは二人の中間点である新前橋で、目印に「新日本歌人」を抱えたYと初めて会う。」
なんだか映画のワンシーンのようだ。
こんな歌が残っている

青春を病み臥す友に女らしい愛のことばも書かず日は過ぐ
人を愛す美しい心も苦しみもほとほと知りぬ二十四歳(数え年)

「病いも峠に来た」というYの手紙に驚きマツは二度目に会いに行ったのがYとの最後の出会いだった。
その四ヶ月後の昭和三十二年九月五日二十三歳八ヶ月の命を自らの手で閉じた。
悲しい歌人の啄木よりも短い生涯であった。
――
評論のもう一つは「歌の絆ー立沢もり歌集『竹煮草』について」(二〇一七年七月号掲載)
立沢もり(旧制吉井もり)は長野のアララギの歌人金田(かねだ)千鶴(ちづ)が遺稿を託した人物である。
小泉さんがこの歌集を知ったのは新日本歌人二〇一四年一二月号のコラム欄「わが青春とうた」に載った千葉の会員田中なつみ氏の一文であり、最初の歌はこれである。

甘え来る事もなきよと中の娘の眠れるひたひなでてやりたり 立沢もり

小泉さんはこれを読み立沢もりとは吉井もりでなはいかと後に閃いたという。
田中なつみさんが「父も母もアララギ派の歌人で、教員の父は甲信越『アララギ』の選者だった。」「とあるのを読み返し間違いないと胸が高鳴った。」という。
小泉さんはこうも書いている。
「吉井もり」は、教員の歌人と結婚して立沢もりとなり、五人の子を育て、その一人は今私たち『新日本歌人』の列に加わっている。夢ではないか、と私は胸が熱くなった。」

『新日本歌人』が紡ぐ人生のドラマがここにはある。

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一年間八首投稿続きました。


今日で丁度一年間八首投稿を続けて来たことになる。
去年の11月15日から365日x8首で2920首作った事になる。通常の歌集は300首位であるから歌集10冊分位という事になる。
正月までには全てを電子出版したいと思います。
新たに作った歌ばかりではなく青春の歌も含めてである。
とりあえず一年を目標にやって来たのでそれなりに達成感がある。

もっともこれから先も以下の三つの理由で続きそうである。
一つは40年以上前の「青春の歌」の存在である。
毎回文語混じりの歌をある理由から口語に直して出していたが文語を堂々と使う事にした。
二つは俳句の存在である。毎朝送られて来る季語で俳句を作る生活も9年となりそれをヒントに短歌を詠んでいる。
三つはこれを始めた頃より使える時間があるからである。

次の一年間毎日八首投稿を続けられるかどうかは分からないがそれを目指して行きたいと思います。
是非TwitterかblogかFacebookでお読み頂き叱咤下さい。
2018年11月14日 大津留公彦

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中野菊夫著「私の短歌作法」から1

新日本歌人我孫子支部湖畔短歌会では新しく勉強会を始めました。
テキストは中野菊夫著「私の短歌作法」(昭和60年5月30日刊)です。
37個の文章を毎回4個づつ計9ヶ月で学びます。10月14日は短歌への誘いの4つの文章を学びました。
印象的な箇所を略して紹介します。

1、 読むことと作ること
若い人にはとにかく作品を作れと言い年配者には作品を読んで欲しいと言っている。
2、 読むことと作ること(続)
はじめに歌集を読みたい人には若山牧水と小泉千樫の歌集を勧める。斉藤茂吉や北原白秋は短歌に対する魅力にはなるが実作の役に立つところは少ない。
3、 啄木の導き
啄木から短歌へ入って行く者は、短歌のもつ形態的な美に魅力を感じるというよりか、短歌を媒体として文学の殿堂へ直接入ってゆこうとするものが多いのだろう。短歌の持つリズムは、五句三十一音律であるが、啄木はそれを生かしながら彼なりの発見を加えていっている。
4、 言葉の使い方
何も歌言葉として特別なものはない。
古語は絶対に使ってならないという立場も何が何でも古語でなければならないという立場も廃したい。
短歌は文語脈に主流をおいているだけに、今日の言葉だけではなかなかゆきにくいところも出来てくる。遠慮はいらぬから使いたかったら、古語だろうと使ったらいい。

以上ほんの一部だけを紹介しましたが、なかなか歌作りに参考になります。
11月11日は短歌への誘いの4つの文章を学びました。

5、 何を歌うか
作品は強烈な主観に貫かれていなければならない。作品は作者の考え方、捉え方、言いあらわし方、どれも作者自身の手で作られるもので、そうでなくては作者が自分を主張することは希薄になってしまう。
6、 これから作歌しようとする人へ
大切なことは歌いたい中心を外さないこと。
自分の作った作品を作ってしまってからしばらくの間は見ないで放っておく。作り上げてすぐに自らの作品の不備を発見することは、よほどの練達者でも困難なこと
7、 普段着の言葉
自分の作品は誰でも理解してもらえるという錯覚におちいりがちなものなのだ。だから作品を作るときは、表現は、共通の約束にしたがった表現にしたがうべきである。文法を大切にしてゆかなければならない。
歌をつくりはじめの人からよくきく言葉だが自分は歌の言葉を知らないからどうしたらいいかということだ。およそ歌専門の言葉等ありはしない。もしあったら、そうした言葉はなるべく使用しないことだ。
8、 生活に密着したところから
今日の短歌の多くは生活と密着したところから歌われていることを否定することはできない。私は短歌をつくろうとする人々に対しても、かまわず自らの生活からその素材をとりあげてほしいと思うのである。その場合に生活のわくを狭義に解さないで、広義にもっていってほしいのである。そうすれば、今日の短歌作品は私たちの今日を支えてくれる詩の一つとして有効であるばかりでなく、さらに明日への詩としての生命をもつものと信じるのだ。

新日本歌人我孫子支部湖畔短歌会は学習会と短歌会を第二日曜日13:00―16:30千葉県新松戸駅前の幸谷ふれあい会館で行っています。
ご興味のある方で遠くない方は是非覗きにおいで下さい。

2018年11月12日 大津留公彦


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