ハイジ(「阿弥陀堂だより」を想起)
M男の映画評論も再出発です。 少し前の映画になりましたが今回は「ハイジ」です。
シネマぶらり観て歩き(91) ハイジ(Heidi) イギリス映画
6月のある晴れわたった朝、スイスアルプスのアルムへ続く狭い山道を二人づれが登っていた。少女ハイジ(エマ・ボルジャー)と叔母デーテ(ポーリン・マクリン)である。
ハイジは幼い頃、孤児になり、デーテ叔母と暮していたが、叔母に働き口が見つかったのでアルムにいる祖父に預けられることになったのだ。
祖父(マックス・フォン・シドー)は険しい山の上に一人で暮していた。
村人との交流を嫌う偏屈者で人を殺したこともあるという噂もあった。
しかし、ハイジはすぐに祖父に慣れ、山羊飼いの少年ペーター(サミュエル・フレンド)や移り行く自然とともに満ち足りた日々を過ごしていた…。 お馴染みの「アルプスの少女ハイジ」。
1974年にアニメ(高畑勲監督)で1年間テレビ放映され、その後も繰り返し放映されたため、よく知られている。当時、アニメを見て育った世代がお母さんとなり、今ハイジの年頃の子どもを育てている。今でも絶大な人気があり、親が子どもに見せたいアニメのトップである。
万年雪をいただく峰々、青い空、お花畑。
現代人はスイスの風景に憧憬にも似た感情を抱く。
今回「ハイジ」を選んだのも心の病とつきあう妻の提案によるものだった。
映画はアルプスの巡る季節やハイジの成長、人々とのふれあいを描き、心に染み入る出来栄えだった。
あらためて、図書館から原作(「アルプスの少女ハイジ」角川文庫 関泰祐・阿部賀隆訳、昭和27年発行、絶版)を借りて読んでみた。
作者はヨハンナ・シュピーリ(スイス人、1827~1901)で「ハイジの修行時代と遍歴時代」(1880年)と「ハイジは習った事を使うことができる」(1881年)の2部からなる。
印象はかなりキリスト教色の濃いものだった。
根底には信仰が人々を幸せにする予定調和がある。
たとえば、字を読めるようになったハイジがアルムに帰って真っ先にしたことは貧しいペーターの盲目のおばあさんに賛美歌を読んで聞かせることだった。
また、アニメではクララが不注意で車椅子を壊すが、原作ではクララにハイジを取られたと妬んだペーターが車椅子を谷底に落とす。
(こちらが子どもらしい)ペーターは終盤、その罪を告白し、ゼーゼマン夫人(クララのおばあさん)からご褒美として一生困らないほどのお金を毎週もらうことになる。
そして、物語はゼーゼマン夫人の次の言葉で終わる。
「ハイジや。賛美歌を一つ読んでおくれ。わたしは、これから先は、たくさんのおめぐみを授けてくださった神様に感謝することよりほかには何もないんだからねえ」(前掲、p.293) もし、この雰囲気のまま映画化されたら観客は辟易してしまうだろう。
監督ポール・マーカスは原作に沿いつつも、宗教色をそぎ落とし、物語の本質を彫り出した。 何よりも、人々の心をとらえるのはハイジの明るさだ。
エマ・ボルジャー演じるハイジの屈託のない言葉やふるまいは自然と観客の心を開かせていく。「ハイジ」が永遠のベストセラーであり続け、たびたび映像化されるのも、少女のもつ向日性に人が魅きつけられるからであろう。
人間が求めてやまないこの明るさとは一体、何だろうと考えてみた。
確かに、親の庇護から離れ、人生が必ずしも輝きに満ちたものではないことが分かる時代、人は暗さに憧れることがある。
屈折した文学や反理性を説く哲学に傾倒する。
しかし、多分それは人間が成長する振幅の一つであって、その奥にもとめているのは明るさではないだろうか。
明るさとは希望であり、良くなるイメージ、良くなろうという意欲と繋がっている。
ハイジは持ち前の明るさで閉ざされた人々の心の扉を開け、人と人を紡いでいく。
シュピーリは人間の精神の美しさをハイジのなかに込めたのだろう。
しかし、シュピーリはハイジをただ天使のようには描かなかった。
物語に生命を吹き込んだのは影の部分である。
映画を観て思ったのはハイジとクララの病気を通して見える現代性であった。
ハイジはクララの話し相手としてフランクフルトに行く。
しかし、窓からは山が見えず、道は石で敷き詰められて土が見えない。
ロッテンマイヤー(ジェラルディン・チャップリン)が仕切る厳格な屋敷の生活で、ハイジはとうとう夢遊病になってしまう。
また、クララは日常を車椅子で過ごしている。
クララの母は亡くなっており、商人である父はたびたび出張し、親代わりはロッテンマイヤーである。 ところが、山に行くとハイジは元気を取り戻し、クララは歩くことが出来るようになる…。
古今東西を問わず都市化にともなう住みにくさは人を病気にしてしまう。
ハイジという少女のもつ自然さは大人たちを変えていくが、いびつな都市のなかで壊される。その自然が恢復するのは山のふところに抱かれた時であった。
「阿弥陀堂だより」(「ぶらり」No.45)を想起させるこのストーリーは、人間は自然の一部であり、自然によって生かされていることを示唆する。
映画はとりあえずの宗教色を排しながらも、我われの内にある、人や自然を敬う素朴な気持ち(宗教心)に繋がっている。
館内は親子づれが多かったが大人も十分楽しめる。
DVDが出たら、是非お子さんと一緒に観ていただきたい。 (M男)
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この情報が本物ならすごい事だ。早速聞きに行ってください。
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