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2008年8月10日 (日)

特攻艇・震洋の悲劇と消えた“被爆浦上天主堂保存計画”

300pxshinyoboat

震洋一型艇
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より

ザ・スクープスペシャル特攻艇・震洋の悲劇と消えた“被爆浦上天主堂保存計画”を見た

ザ・スクープスペシャルは可能な限りいつも期待して見ている。
鳥越俊太郎・長野智子両キャスターが、徹底した現場主義での検証取材により、いろんな事件などについて隠された真実とニュースの本質に迫る。
テレビ朝日が半年ごとに放映しているが特に夏のスペシャルは相当の手間と時間をかけて作っている。
2007年には「九大生体解剖事件」 も取り上げられた。(リンク先:下記)

NHKばかりが戦争特集をやるように見ているが民放も頑張っている。
先に紹介した「NHKのこの夏の戦争特別番組の紹介」

として民放分を取りあげてなかったのでここに鳥越俊太郎・長野智子両キャスターとテレビ朝日のスタッフに敬意を表します。
今後とも継続的なご努力をお願いします。

概要

❶ 「終戦翌日に何が!?特攻隊員ら111人死亡…特攻艇・震洋の悲劇」昭和20年8月16日、高知県の海岸で謎の大爆発が発生し特攻隊員ら111人が死亡。 爆発したのは特攻艇「震洋」。戦争が終わっていたはずのその時、何が…長野が真相に迫る


❷「追跡…消えた“被爆浦上天主堂保存計画”」長崎で戦後、被爆し た浦上天主堂廃墟を悲劇の象徴としてそのままの形で残そうとする動きがあった。だが進められた計画はある事をきっかけに急転頓挫。なぜ語り継がれるべき負 の遺産は失われたのか?鳥越が鍵を握る米国で追跡。真相に迫る

昭和20年8月16日。終戦の翌日、高知県・住吉海岸で謎の大爆発が発生。
特攻隊員ら111人が死亡するという悲劇が起こった。爆発したのは海軍の水上特攻艇
「震洋」。小型のベニヤ板製モーターボートの艇首部に爆薬を搭載し、搭乗員が乗り込んで
操縦。上陸を図る敵艦に体当たりするという日本軍の水上特攻兵器だった。
終戦時には本土決戦に対する備えとして4000隻近くが実戦配備についていた。

こうした状況のなか、終戦の翌日に起こったナゾの「大爆発」、はたして事故だったのか?
それとも何らかの「不測の事態」が突然起きたのか?
戦争が終わっていたはずのその時、現場でいったい何があったのか…。
番組ではその真相を総力追跡。関係者の多くが故人となるなか、数少ない存命搭乗員に
取材。初めて明らかにされた「真実」とは…。
01


さらに悲劇的な運命を迎えた特攻艇「震洋」関係者証言を積み重ね、現存する数々の
資料を読み解き、今なお現場に残る痕跡等を検証することによって、知られざる
「もう一つの神風特攻隊」の悲劇を追うとともに、終戦の大混乱のなかでいわば
<歴史の影>として封印され続けてきた「ことの真相」に迫る。
(以上NHKホームページから)

1265
写真で見る日本の歴史より


以下大津留コメントです。

特攻艇・震洋(しんにょう)の艇隊長で敗戦後自分が「爆破させた」という元参議院議員の田英夫さんが85歳になられて他のインタビューには応じてないが震洋のことならとインタビューに応じていた。

ベニヤ板と中古トラックのエンジンンで作ったおもちゃのようなボートに飛行機乗りの予科生をのせて体当たり攻撃させようとしたが日本の沿岸では一度も使われなかった。

土佐沖に米艦隊がいるという情報で出撃する体制をとって大事故になったのだが、8月16日に米艦隊は土佐沖には居なかったことがわかった由。
(では誰かがデマを流したことになる)

18回も事故が起こっておりこんな火薬庫のような船なのに一本の消火器もなかったという。

1艘の爆発の後全員集合命令が出てその後の連鎖爆発で111人もの人が死んだ。
その全員集合命令に従わず防空壕に避難していた人がテレビ朝日クルーに同行して現地から証言したが、広島長崎の被爆者や空襲の被災者からよく聞かれる自分だけ生き残った罪悪感があるという話が印象的だった。

8月16日にこんな事故が起こった背景には軍部の16日付けの「戦え」という電信があったからという。

鳥越さんも言っていたが特攻隊が美化されることがあるが特攻攻撃はそんな美化するようなものではない、こんな作戦をさせた日本軍部の知性の低さを将来こんなことを繰り返さないために語り継ぐべき事件だろう。

高知県夜須町にはこの時の防空壕が多く残っているという。



被爆国日本の象徴として世界文化遺産にも登録された、広島の「原爆ドーム」。
しかし同じく原爆が投下され7万人以上が亡くなった長崎でも、被爆した教会・浦上天主堂の
廃墟を「悲劇の象徴」として、そのままの形で残そうとした動きがあったことを知る人は少ない。
昭和24年に発足した原爆資料保存委員会は、戦争の記憶と記録を残すため被爆したマリア
像などを含む「一連の天主堂廃墟保存」の結論を打ち出しており、昭和26年から4期16年、
長崎市長を務めた田川務氏も廃墟を残す方針を表明していた。

しかし昭和31年・市長の訪米をきっかけに事態は急転する…。廃墟を残すとしていた市長が
アメリカから帰国後「(天主堂の廃墟は)原爆の悲惨さを証明すべき資料には絶対ならない」
と方針を一転したのだ。その結果、昭和33年、天主堂廃墟は建替えのため取り壊された。
市長の訪米中に、いったい何があったのか?そして背景に見え隠れする、冷戦下における
アメリカの「ある思惑」とは…。
02


番組では、被爆した天主堂がなぜ「悲劇の象徴」として残されなかったのか?
なぜ「負の歴史」を語り継ぐ遺産は失われてしまったのか?その謎を総力取材。
鳥越俊太郎がアメリカに飛び、関係者への取材を重ねて、「ことの真相」を追跡。
また、数少なくなった存命中の関係者にもインタビュー。
さらに数々の文書・資料を読み解くことを通じて、冷戦下のアメリカの「思惑」と、
これまで封印されてきた「歴史の悲劇」に迫る。
(以上NHKホームページから)

以下大津留コメントです。

被爆した教会・浦上天主堂の廃墟を「悲劇の象徴」として、そのままの形で残していれば核の拡散はこんなに広がらなかったかもしれない。

市議会で存続を求めた荒木徳三郎という市会議員の肉声が流されていたが半ば涙声の絶叫で市長に迫っておりいかにこの要求が強かったかを想像させた。

当時の長崎市長の田川さんは当初存続に賛成だったがアメリカに1か月滞在した後反対に変わったという。
そしてその一年前に長崎・セントポール姉妹都市条約が締結されているという。
(今年の田上長崎市長

鳥越さんたちのアメリカ取材でウイリアム・G・ヒュースという人やセントポール名家出身者が出てくるが結局決定的な証言は出てこなかった。
これは今後の日本人への宿題ということだろう。
そろそろアメリカの情報公開でこの辺の資料が出てくる頃だろう。

被爆マリア像の頭の部分だけは今も浦上天主堂の正面に焼け焦げのまま残って今日非戦を訴えている。
今回の分は8月11日から、ここの分は既に動画配信されています。
http://www.tv-asahi.co.jp/scoop/

参考大津留過去記事

2006年10月16日 (月)
東野利夫さんと鳥越俊太郎さん

汚名「九大生体解剖事件」の真相』を読んで


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