ドラマ「咲くやこの花」に期待
1月9日(土)夜7時のニュースの後テレビを付けっぱなしにしていたら「咲くやこの花」というドラマが始まり私は藤原定家ですとナレーターが語り始めたので、それまでパソコンに向かっていたがソファーに座り直してじっくり見てしまった。
百人一首をテーマにした初めての時代劇だそうだ。
10回あるようなのでなるべく観ようと思います。
この一首がタイトルの歌。
みどころ
百人一首が大好きで、地味に目立たず生きようとしていたはずのヒロイン・こい(成海璃子)が「大江戸かるた腕競べ」で勝ち進み、江戸中の注目の的となっていき、さらには仇討ちを志す浪人・由良(平岡祐太)との初恋を経験する中で、人間として成長していく大江戸青春グラフィティー。愛、友情、親子愛、師弟愛、全ての泣き笑いをぎっしり盛り込んだ、感動の30分!成海さん、平岡さんとも時代劇初出演!
番組ホームページより
http://www.nhk.or.jp/jidaigeki/sakuya/html_sakuya_midokoro.html
話題は変わりますが定家からみで
『小倉百人一首』は隠岐へ流され非業の死を遂げた後鳥羽上皇に捧げた歌集だという説をやや長いですが紹介します。
まずこれから
昔テレビムックという番組でこの内容を観て興奮して鳥肌が立ったことがあります。
その時はなかった小倉百人一首のただ一つの組み合わせから真ん中にあるのが後鳥羽院の眠る水無瀬神宮です。
世間で言われているように定家は後鳥羽院を裏切ってなかったというのです。
これを観たときにはこの近くに住んでいました。
この組み合わせを考えたのは資本論の分析の手法を使った経済学者の林直道さんです。
百人一首と藤原定家__
今日27日は「百人一首の日」。鎌倉初期の歌人に藤原定家という人がいる。栄華を極めた道長の_末裔で、平安末期の優れた歌人・藤原俊成の次男。有名な小倉百人一首の選者として知られる。__定家の著作物の中に、15歳から74歳の60年間に亘る日記「明月記」があるが、その文歴2年(1235)の5/27の項に, 定家が友の宇都宮入道の求めに応じて揮毫した短歌百種が襖に張られた、__という記述があり、これが小倉百人一首の初出だと考えられている。百人一首とは、_百人の歌人の歌を、一人一首ずつ選んだ撰集で、後の各種百人一首のお手本的存在。__天智天皇から順徳院まで百人の歌人の歌を一首ずつ選び、百枚の色紙に揮毫し,小倉山荘の襖に_張り付けたことから、山荘の名をとって『小倉百人一首』と呼ばれる様になった。__ただ、この『百人一首』は秀歌撰というものの、果たして歌人にしろ、その歌にしろ『古今集』_から『新古今集』の頃までの選び抜かれた代表歌百撰といえるかどうか昔から疑問のあるところ。__しかしその事は定家自身先刻承知の様で「百人一首の中には歌の名人と誇り高い人の_秀逸な歌といわれているものが、ほとんど漏れている。選択の基準は自らの心中にあり、__その事をとやかく言っても、それは意味のない事だろう」といった内容の事を述べている。_裏返せば、この撰集は定家のある特殊な意図の下に編纂されていた、という事が__大阪市立大学の経済学博士 林 直道教授 の発表した著書「百人一首の秘密_驚異の歌織物」の_中で解き明かされている。大変興味あるものなので、百人一首の日に因んで紹介したい; __百人一首の百首の歌を、縦十種・横十種の正方形のます目の中にある特殊な並べ方をすると、上下左右隣り合う歌同士が「合わせ言葉」によってぴったりと一致する。そして、その合わせ言葉を絵に置き換えていくと、そこには秘められた『水無瀬絵図』が現れるという。水無瀬は京都の西南、長岡京の南に位置し都にほど近い景勝の地で、後鳥羽上皇が水無瀬離宮を建てた地でもある。承久の変が挫折し、後鳥羽院が隠岐に流されて水無瀬離宮は荒廃していった。定家は自分を引き立ててくれた恩人としての後鳥羽院に、密かに心をこめて百人一首を選定したのだろうというのである。__承久の乱後の京に和歌の最高権威として君臨した定家は、後鳥羽院が下命した『新古今和歌集』に続く、第九番目の勅撰集撰進を依頼されるが、鎌倉幕府をはばかった前関白・藤原道家の意向で、その勅撰集『新勅撰和歌集』から後鳥羽院の歌など百首強の歌を削除しなくてはならなかった。__その無念の思いを、碁盤目に並べた百首によって浮かび上がってくる水無瀬離宮の絵図に_託したのだろう。定家は全知全能を駆使してこの条件に合う歌百首を集めたらしいのである。__以下参考の長岡京・小倉山荘の水無瀬絵図にポインタを移動するとモノトーンの「合わせ言葉」が浮かび上がり、水無瀬絵図と「合わせ言葉」がどのようになっているのかが、よくわかる。__(水無瀬図会の横十行は大丈夫なのですが、縦は左側の三行が抜けています。まあ、しかし見事に_合わせ言葉になって、各升目が、上下左右に繋がっている事が分かりますね)
新・こんなところにこんなものが!
百人一首の日
http://blogs.yahoo.co.jp/gulliverbros/59548301.html
より
そして全体についてはこれ
藤原定家の才能に最初に目をつけたのは、第82代天皇・後鳥羽上皇でした。
当時の学者・歌人といった人たちは、権力者にいかに気に入られるかで、その出世の道が開かれるわけですから、自分の才能を高く評価してくれる後鳥羽上皇を定家も敬愛し、それに答えて上皇も彼を取り立てる・・・という事が多々ありました。
そんな親しい関係にあった二人ですが、ある日些細な事でケンカをしてしまいます。_それは、親しいがゆえの、つまらないケンカでお互いが「すぐまた仲直りできるだろう」と、たいした事ではないと思っていたのです。
ところが、お互いがつまらない意地をはっている間に後鳥羽上皇はあの『承久の乱』(ブログ:5月14日参照)を起こしてしまうのです。
つまらないケンカ別れが永遠の別れとなってしまいました。_後鳥羽上皇は、そのまま謀反人として隠岐へ流罪の身となります。
幸か不幸か、ここしばらく上皇と接触していなかった定家は、その後も宮廷歌人としての地位を確保できる事になります。_・・・が、しかし、それは今後、上皇と連絡をとれば、仲間とみなされて処分されるかも知れないという危険もあるという事になります。
「あれほど仲が良かった自分からの連絡がない事を、上皇はどのように思っているのだろう」という不安にかられながらも、やはり定家も現在の地位を失いたくはありません。
やがて、怨みを抱いて隠岐に幽閉されている上皇の「生霊」の話や、怪奇現象の話が噂されるようになります(ブログ:7月13日参照)。
そして、ついにある日、定家のもとへ「後鳥羽上皇が亡くなった」というニュースが飛び込んで来るのです。
その話を聞いた定家は、意を決したようにスクッと立ち上がり、なにも言わず山荘にこもったのです。
何週間かして、人前に現れた彼の手には、一首ずつ和歌が書かれた百枚の色紙があった・・・それが、『小倉百人一首』だったというのです。
・・・・・・・・
ですから、この話でいくと、『小倉百人一首』は秀歌を集めた歌集ではなく、隠岐へ流され非業の死を遂げた後鳥羽上皇に捧げた歌集だったという事になります。
もちろん、これは仮説です。
今日は何の日?徒然日記
2007年5月27日 (日)
百人一首に隠された暗号
http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2007/05/post_55f5.html
百人一首の最後の方に二人の歌はある。
97 来ぬ人をまつほの浦の夕なぎに 焼くや藻塩の身もこがれつつ 権中納言定家
99 人もをし人もうらめしあぢきなく 世を思ふゆゑに物思ふ身は 後鳥羽院
て定家の歌の意味は
いくら待っても来ない人を待ち続けています。
そんな私は、松帆の浦の夕なぎの頃に 焼く藻塩のように
貴方をずっと恋い焦がれているのですよ。
まつほの浦…人を待つ「まつ」と「松帆の浦」(淡路島北部海岸)の「まつ」の掛詞。
まつほの〜藻塩の…「こがれつつ」の序詞。
夕なぎ(夕凪)…季語は夏。
夕方 海辺で海風と山風が変わる現象・時間帯。風 波が一時的にやむ。
藻塩…藻は海に生える海草。その海草に海水を注いで日に干し、
焼き、水に溶かし、煮詰めて、精製した塩。
ある時は人を愛おしいと思い、またある時は人を恨めしく思う。
つまらない世だと思うからこそ、あれこれと もの思いをする私には。
後鳥羽院の歌の意味は
後鳥羽院は3才の時から18才の時までの15年間(1183〜1198)を天皇として在位。
この歌は、承久の乱(1221年)の 9年前(1212年)の作。
_ 後鳥羽院が32才の時(退位後14年目)の作。
鎌倉時代の始まりは1192年。後鳥羽天皇12才&在位9年目の時。
在位中に幕府に実権が移ったのでしょう。1192年の6年後18才の時 在位を退いている。
有能な野心家ゆえに「幕府が実権を持ってること等へのはがゆさなど」からの歌でしょうか?
鎌倉時代の始まりは1192年。
この29年後の 承久の乱(1221年)は、後鳥羽院 41才の時の挑み。
この挑みにより後鳥羽院は、後の19年ほどを隠岐で過ごす。
ただ、隠岐でも活動的だったという。没年齢59。
小倉百人一首の散策 今風の意味解釈と楽しい覚え方で 百人一首に親しむ
歌の意味解釈 96〜100番
http://hyakuninnissyu.seesaa.net/article/108845515.html
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