「カティンの森」
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M男さんの映画評論です。
今回は「カティンの森」です。
東京では岩波ホールでやっています。
歴史の欠落した一ページを埋めた映画と言えるでしょう。
M男さんの文章の最後は日本人に向けられています。
ポーランドは将来を担う多くの優秀な人材を失ったこととソ連による支配で、戦後永らく政治的・文化的発展を阻害された。ソ連が事件をスターリンの命令による内務人民委員会(秘密警察)の犯行だったと認めたのは1990年、ゴルバチョフ大統領になってからである。
一方、全く同様の問題として、日本は第二次世界大戦における朝鮮・中国やアジアの人々に対する謝罪と補償の早急な解決を迫られている。
(M男)
シネマぶらり観て歩き(132)
カティンの森
ポーランド
1939年9月1日、ドイツ軍がポーランドに侵攻した。ポーランドの同盟国であったイギリスとフランスは9月3日にドイツに宣戦布告し、第二次世界大戦に突入した。同17日にはソ連軍がポーランド領内に侵攻。ドイツ軍とソ連軍に追われた人々が東西からポーランド東部のブク川の橋の上で出くわした。そのなかには、夫のアンジェイ大尉(アルトゥル・ジミイェフスキ)を探しにクラクフから来ていたアンナ(マヤ・オスタシェフスカ )と娘のニカ親子、ソ連軍から逃れて来た大将夫人ルジャ(ダヌタ・ステンカ)がいた。
アンジェイ大尉と友人のイェジ(アンジェイ・ヒラ)ら将校等は、ソ連軍の捕虜になっていた。アンナとニカは偶然にもアンジェイに会うことができたが、アンジェイはすぐどこかへ移送された。アンジェイはソ連が捕虜の人道的扱いに関する条約「赤十字条約」に加盟していないことが気がかりで、目撃したことを密かに手帳に残そうと決意する。アンナはナチス占領下のクラクフへ戻ろうとするが、ソ連から国境を越える許可がおりない。
11月、アンジェイの父ヤンなどヤギェロン大学の教授たちがドイツ軍に逮捕された。ドイツ軍は教授会を反ナチスだと決め付け、収容所に送った。
1940年初め、国境近くの町でアンナとニカはロシア人少佐の家にかくまわれた。少佐はアンナたちをソ連奥地への強制移住から守ろうと、善意から名目だけの結婚をアンナに申し込むが、アンナは拒否する。
1940年春、アンナとニカは運よくクラクフの義母のもとに帰ることが出来た。まもなく、義父ヤン教授の死亡を伝える通知が届いた。アンジェイの生存に望みをつなぎながら、母、妻、娘の3人の女性は待ち続けた。
1943年7月、ドイツ軍は不可侵条約を破ってソ連領に侵攻。カティンの森でポーランド人将校数千人の遺体を発見した。ドイツはソ連の犯罪だと大々的に宣伝した。
1945年5月、ドイツが無条件降伏し、ポーランドはソ連の属国となった。ソ連は「カティンの森」事件をナチスの仕業とする見解を取り続け、ポーランド人民共和国政府も追認し、国民が同事件に触れることは永らくタブーとされた……。
2007年、アンジェイ・ワイダ監督作品。ポーランドは悲劇の国である。上述のように、第二次世界大戦ではドイツとソ連の両国から占領分断され、戦後はソ連の属国として、長らく政治的自由を奪われた。
ナチス侵攻後のポーランドを舞台にした作品としては同じワイダ監督による「地下水道」(1957)、「灰とダイヤモンド」(1958)や「ブリキの太鼓」(フォルカー・シュレンドルフ監督、1979年)などがある。“ぶらり”No.49では「戦場のピアニスト」(監督ロマン・ポランスキー、2002年)をとりあげた。ユダヤ人ピアニスト、シュピルマンの実話を映画化したもので、絶滅収容所行きを偶然にも逃れ、戦火のなかを生き延びる話には救いがあった。
しかし、今作品は全く異なる。希望を予兆させるような暗示は一切ない。歴史の事実として、将校たちに何があったのか、残された家族にどのような苦難が待っていたのかを淡々と物語る。
圧倒的な部分はポーランド将校らが、ピストルで処刑されるラストシーンである。
将校たちが収容所からカティンの森へ窓のない囚人輸送車で運ばれる。森では大型ショベルカーが穴を掘っている。捕虜が一人ずつ車から降ろされ、コンクリートで作ったトーチカのような場所に連れられる。瞬間、将校はここが処刑場だということを知る。抵抗しようとするが両脇をがっしりと抱えられ動けない。将校の首には縄が掛けられ、両腕首は縛り上げられている。床中央へ引き出される。後頭部に銃口を当て、ピストルが撃たれる。血しぶきが飛び、兵士や壁にかかる。崩れる将校。兵士は死体を外へ引きずり出し、トラックへ放り投げる。荷台にはみるみる多数の死体が積み上げられていく。処刑場の床に溜まった血だまりを、兵士がバケツの水で流し、新たな将校が連れて来られる……。やがて、死体を満載したトラックは森に掘った大きな穴に投棄する。
アンジェイの最期も描かれる。車から降ろされ、コートを脱がされた後、首に縄がまかれる。穴の縁に座らされたアンジェイは祈りの言葉の後、後頭部を撃たれ、穴に倒れる。飛行機設計技師のピョートルは縛られた腕にロザリオを持っていた。祈りの後、撃たれ、穴の中に落ちる。折り重なった死体の上をトラクターが土をかぶせていく。ピョートルのロザリオを持つ手がピクリと動き、やがて止まる……。
戦争が終結してからも悲劇は続いた。ピョートルの妹アグニェシュカは帰ってこない兄を弔うために「1940年死す」と書いた墓碑を建てたことにより、秘密警察に処刑された。「1940年」はカティンの森事件がソ連の犯行であることを意味していた。戦時中、地下活動をしていた高校生タデウッシュは、戦後のソ連支配に抵抗し、秘密警察に追われ、不慮の事故死に遭った。生還したアンジェイの友人イェジは、ソ連から事件をドイツの犯行だと証言させられたことで良心にさいなまれて、ピストル自殺した。
映画は「両親に捧ぐ」というワイダ監督の献詞で始まる。監督の父親は事件の被害者であり、母親も夫の帰還を待ちながら、失意のうちに亡くなったと言う。
人はだれでも心の奥で死に方にこだわって生きている。“畳の上で死にたい”という時の“畳”は、単に場所の問題ではなく、家族が住む暖かい空間のことであろう。同じ死でも、本人が生きようと努力し、伝えたいことを伝えて逝った場合には、残されたものの哀惜は時間とともに小さくなる。しかし、不幸な死に方をした場合、家族がそれを受け入れるまでの時間は無限だ。なぜ、死んだのか、死ぬ時、どのような気持ちだったのか、自分に出来ることはなかったのかと。
もし、「カティンの森」の犠牲に意味があるとしたら、まず、我われが事件の詳細を知りえた時であろう。死者たちは数千人という括りから解かれ、名前を与えられるのだ。その次に、再び繰り返さないことを多くの人びとと共有しえた時であろう。ワイダ監督は事件がソ連による戦争犯罪だったという事実を再現し、殺された一人ひとりに愛や信仰があり、かけがえのない家族や友人がいたことを祈りにも似た静謐な映像にして世に送り出した。“追悼”とは生前の死者に思いをはせ、悼むことであるが、やがて85才を迎える老監督はようやく、悼む時を得たということだろう。
演技では気丈に生きる妻アンナ役のマヤ・オスタシェフスカが素晴らしい。彼女の曾祖父もカティンで虐殺されているという。その他、累々たる死体役をはじめ、多くのエキストラが作品の成功のために演じている姿に心うたれる。
ポーランドは将来を担う多くの優秀な人材を失ったこととソ連による支配で、戦後永らく政治的・文化的発展を阻害された。ソ連が事件をスターリンの命令による内務人民委員会(秘密警察)の犯行だったと認めたのは1990年、ゴルバチョフ大統領になってからである。
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