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2011年1月15日 (土)

日本橋から笹塚まで歩いた

今日も午前中が仕事だった。
日本橋から東方面を歩いてなかった事を思い出し午後新宿方面へ歩くことにした。

ユーミーの旅と旅というサイトの 甲州街道 日本橋~内藤新宿という記事をiphoneで見ながらほぼその通り歩いた。
12時半から歩き始めて4時に終点の笹塚に到着、3時間半で約12キロのウオーキングでした。
寒かったけれど楽しい経験でした。
これで日本橋から東西南北全て歩いて来たことになります。(東と北の記事は末尾に掲載)
このサイトの記事をお借りして書きます。( )内は追記です。
ーーー
歩いたコースは
区間経路 (日本橋)国道15号線→1号線→20号線→一般道→20号線→(内藤新宿)一般道→20号線(渋谷区笹塚)

内藤新宿:日本橋から最初の宿の高井戸が遠かったため1698年(元禄11)に新たに作った宿場で、
       内藤(清成)家の近くにあったため「内藤新宿」と呼ばれた。

日本橋を出発して国道15号線を南へ200mほど歩くと、左角にCOREDO日本橋のビルがある。
ここは火災で裾の乱れを気にした女性店員がロープを思わず手放し墜死した事故や、
横井英樹の乗っ取り事件などで有名な白木屋デパート跡である。

(最近COREDO室町というものも出来ましたがCOREDO日本橋の方が大きい)

1号線に戻りJR線ガード(写真左)を潜って西へ進むと前方に交通標識があり、
大手町信号交差点で甲州街道は左折する。
1号線(日比谷通り)を南に向かった。

1号線は皇居の濠沿いに走っていて、右手が濠で前方には和田倉橋が見える。

1号線に戻り歩道を歩いて行くと、和田倉門跡がありその先には特別史跡江戸城跡が見える。

堀の南端の日比谷交差点を横断し、右折して国道20号線を進む。

交差点の左側から日比谷公園が始まり、しばらく20号線沿いの日比谷公園中の道を歩いた。
公園の入口を入ると、公園案内看板があり、その先には日比谷見付跡碑がある。
さらに進むと濠の一部を利用して作った、心の字の形をした心字池がある。

(旧管理事務所の建物で結婚式の披露宴をやっていた。なかなかいい感じだった。)

公園を出て20号線に戻るとすぐ右手に祝田橋があるが、橋というよりは広い道路といった感じ。
さらに進むと、右手に桜田門が見える。

濠沿いの20号線を進んでいくと、国会前交差点に出る。
ここの交差点は歩行者にはとても複雑でまた分り難い。
なんとか左手に国会議事堂を見る横断歩道を渡って、尾崎記念公園に辿りつく。

(確かに分りにくかったが説明の通りに行ったので迷わなかった)

ここで公園に入り左折すると、日本水準原点標庫がある。
この中には全国の標高基準として明治24年(1891)に設置された日本水準原点があり、
その標高は24.4140mと定められている。
この標庫はローマ風神殿に倣って建築されたもので、明治期の数少ない近代建築史上貴重な建物という。
また近くに高い塔があり、トップに時計が取り付けられているが、この塔は時計台?

(尾崎行雄が貰った時計をトップに付けた時計塔にしたようです。今は日本製の時計が付いてます。)
(衆議院と参議院の植樹した日本国憲法50年記念樹がありました。)

元の20号線に戻り、濠沿いの三宅坂を歩いていく。

左側には、最高裁判所、続いて国立劇場が見える。
(国立劇場の庭に庭に梅が咲いていました。
こんな俳句を作りました。

国立劇場素心鑞梅香り初む

紅千鳥雪柳の黄に交じるなり)

半蔵門の前で道は丁字路になる。
直進は九段坂方面へ。甲州街道の20号線は左折して新宿方面へ進む。
ビルが林立している道を歩いて行くと、目の前に 東京メトロ麹町駅の出入口が現われた。
歩道には麹町案内板がところどころに設置され、町のいろいろな歴史などが書かれている。


麹町を過ぎると、紀尾井町となり左側に上智大学、そして隣接してイグナチオ教会がある。
この辺に紀伊徳川、尾張徳川、井伊家の大名屋敷があり、それぞれ一字をとって
紀尾井の町名としたとのこと。

20号線の反対の北側には、カマボコ型のJR四谷駅の建物がある。
その手前を右折して甲州街道は20号線と別れ、駅舎の北側の丁字路の坂道を左折する。
丁字路の角には、甲州街道の要所であった四谷見附跡がある。
見附というのは、江戸城の見張所で城の周囲に36箇所あった。
坂道を下り300m程行ったローソンの交差点を左折して、20号線に戻る。
20号線を西へ進んで行くと正面の遠くにトンガッタ建物のシルエットが見えてくる。
四谷消防署消防博物館の前を通り、四谷四信号交差点で進行方向が2つに分かれる。
左手の新宿御苑沿いの新宿御苑トンネルに入るのが20号線で、
右手の一般道が甲州街道となる。
その三角地帯の四谷区民センター前に、四谷大木戸跡碑と玉川上水記念碑がある。
玉川記念碑は、昭和34年に地下鉄工事で発見された玉川上水の石樋を使って作られている。
四谷大木戸を過ぎると、新宿一丁目、2丁目、3丁目となり、ここが内藤新宿跡となる。
新宿御苑は内藤家屋敷の一部であったもので、その北側の甲州街道に面して
宿が造成された。

新宿2丁目に入り四谷警察署新宿交番から右に入ったところに太宗寺がある。
1596年(慶長初頭)に僧太宗によって開かれ、その後信州高遠藩主内藤家の菩提寺として発展した。
江戸時代の面影を残す多数の文化財が伝えられている。
境内の左側には不動堂、正面にはコンクリート造の近代的な本堂がある。
入口のすぐ右には銅造地蔵菩薩座像があり、江戸の出入口の6ヶ所に設置された6地蔵の一つで、
1712年(正徳2)に甲州街道沿いに建立された。像高は267cmもある。

地蔵菩薩坐像の左側には、閻魔堂がある。

正面に「内藤新宿の閻魔さま」で親しまれている,1850年奉納の閻魔像が安置されている。
その左側には、閻魔大王に仕え三途川を渡る亡者から衣服を剥ぎ取るという、
明治3年(1870)作の奪衣婆が置かれている。
なお衣を剥ぐところから、
内藤新宿の妓楼の商売の神として「しょうずかばあさん」と呼ばれて信仰されたという。

伊勢丹のある新宿3丁目の交差点(写真左)は、甲州街道と青梅街道が分かれる追分となり、
直進するのが青梅街道で、甲州街道の20号線は左折する。
100mほど行った新宿4丁目の交差点で右折して、新宿駅JR各線を横断する跨線橋を渡る。


跨線橋の頂上でJR新宿駅を横目で見ながら、今度は下り坂となる。

西新宿、初台に入ると高速道路が20号線を分断して走る。
やがて、京王線初台駅の標識が見えてくる。
すると突然道は緑に囲まれ、ビックリしてしまう。
長い距離ではないが、気持ち安らぐ通りである。
ちなみに20号線の反対側の歩道を見たがどうも緑地帯はなさそう。

(玉川上水の跡地に作られた公園ですね。意外と長かったです)
(笹塚の牛窪地蔵と青岸寺には行けませんでした。)

笹塚の信号に戻り、先に進むと京王線笹塚駅前が、日本橋からちょうど12kmの地点。

ーーーー
玉川上水の跡地に作られた公園が良かったですね。
四谷大木戸跡碑から笹塚まではほぼ玉川上水の上を歩いた感じですね。

三郷に帰って来てから駅から家まで歩いている時に腰が痛くなった。
少し歩きすぎたかな?

過去の記事です。


東 日本橋から越中島まで歩いた(人形町 芭蕉記念館 清澄公園等 ...)
https://ootsuru.cocolog-nifty.com/blog/2010/07/post-16b3.html
北 日本橋から中央道りを上野まで歩く: 大津留公彦のブログ2
https://ootsuru.cocolog-nifty.com/blog/2010/10/post-0ef9.html
南は品川まで歩きましたが書き忘れていました。その内書きます。

今日はこんな所です。


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