「新日本歌人」2013年4月号を読んで
「新日本歌人」2013年4月号を読んで
十一回目の「新日本歌人」誌の感想文です。
今回は次の7つに分けて書きます。
1.10首選
2.ピックアップ歌人
3.読者歌壇から
4.渡辺順三(田中収)
5.「押し付け」の憲法ということ(吉村陸人)
6.石川啄木と杉村楚人冠(一)(碓田のぼる)
7.歌集評 碓田のぼる歌集「桜花断章」
1.10首選(特選◎)
春近し「今年も花見しようね」と病夫を抱きて指切りをせり
東京 森川玉江 p35
青年よ大局を観よ未来なる君らの歴史は君らがつくる
東京 赤塚堯 p38
他国になき二つの表記文字を持つ日本 この「かな・カナ」に我らはぐくまれきし
東京 岩川とき子 p43
昨日できて今日できぬこと又ひとつ冬の真昼の台所に立つ
北海道 大江初枝 p45
癒えぬまま七十を越す年の明けたのむぞ六十兆のわれの細胞
山口 松野さとえ p46
歌誌に読む君がうた雪の讃歌なり花満つる春のうた待ちたるに
東京 矢島綾子 p49
形見ともなりしいもとの少歌集ひらけば落ちぬ押し葉ひとひら
愛媛 尾上正一 p50
夫の遺骨に並べて入るる子の遺骨早すぎると目に溢れくるもの
福岡 加来和江 p74
ポケットに収まり左右と声を出すスマホのナビにて初詣する
愛知 小平考常 p79
◎メディアを真実の前にひざまずかせる闘いは君ら若きが引き継ぎくれよ
東京 故 近藤幸男 p80
(意図して取った訳ではないが7首が死や病気の歌だった。)
(特選にした近藤さんの歌を遺言のように私は受けとった。)
(近藤さん!確かに引き継ぎを受け取ったよ!)
2.ピックアップ歌人
大丈夫保育士さんが見てくれる幾度も幾度も言い聞かせ行く
福岡 田村柚 p48
(病気や死の歌が多い中で田村さんの歌は若い時代の記憶を思い出させてくれる。)
3.読者歌壇から
ふふふとエノコログサが笑ってるきょうは良きこと起こるかしらん
鹿児島 宇都幸枝 p88
(確かにふふふとエノコログサは笑っているような気がする。)
4.渡辺順三(田中収)
「歌と時代と協会と」連載第四回目です。
私も名古屋時代の短歌の先生です。
「短歌性」についての論争を紹介します。
坪野哲久
「一息に云ひきることの出来る完了体としての詩型であること。句と句との間にも階級的な粘り強さが必要であること」
「プロレタリア短歌の方向」荒川繁三「プロレタリア歌論集」
(「階級的な粘り強さ」というのは独特の表現だが時代的な反映がある)
岡部文夫
「プロレタリア短歌とはそう長くないしかも五句に切れるものだ。」
「誰にもわかるプロレタリア短歌の形式」
(今の短歌もこう言えるのだろう)
佐々木妙二
「私は短歌基準律を離れては、ついに短歌性をつかむことができなかった。短歌というからには、短歌基準律によるものであって、それのない作品はたとえそれが優れた短詩であっても、短歌ではない。」
(自由律短歌律私見)(「新日本歌人」1955年12月号)
「自由律短歌という言葉を口語行分け短歌と同じ意味に便宜的に使っているけれどこの二つは同じではない。自由律短歌という言葉は、あいまいで不明瞭で「新日本歌人」では口語行分け短歌と言った方がいい」
(「新日本歌人」1964年5月号)
(現在の「自由律」ではなく「口語行分け」という新日本歌人のジャンルは今や青息吐息だがここから来ている。長い議論の経緯がある「口語行分け」を残して行きたい。)
八目女十
「定型基準律を行分けしただけでは、調の変化はあっても、律そのものの変化はなく、句切れ、句またがり、字余りから生ずる句の長短の構成自体の変化や句数の変化にこそ、新しい自由律が生まれる」
「自由律論、律及び調」(「新日本歌人」1957年5月号)
(田中収さんの歌にこれを見るような気がする)
向井毱夫
赤木健介の歌を高く評価してその作品は「定型基準律などという曖昧で妥協的な自己矛盾のつけ入るすきのない個性的で独創的」なのものであると言っています。
(田中収「赤木健介論」「口語短歌の世界」)
(自由律を若い時に作られその後ずっとは定型作者だった向井さんは鮮烈な記憶を残して亡くなった。先週の全国幹事会の部屋ばなしでも話題になった。
この文章自体矛盾しているが赤木健介さんを評価する為の向井さん独特の白い唾のようなものだろう。赤木さんの歌は田中さんに引き継がれているような気がする。)
5.「押し付け」の憲法ということ(吉村陸人)
この新アララギの吉村さんという人の発言に最近注目している。
オスプレイの訓練が安保条約に基づいて行われるという事に対して正しくこう指摘している。
「平和憲法の下では不可能な米軍の駐留を沖縄を始めとする米軍の基地を保持する為の、これこそ理不尽な「押し付け」ではないか。」
(全く同感である。
安保などへの関心の無い歌人が多い中で姿勢の正しい重鎮歌人である。)
6.石川啄木と杉村楚人冠(碓田のぼる)
連載の第一回目である。
新日本歌人我孫子支部に属する者としては我孫子に暮らした楚人冠に興味がある。
啄木は亡くなる1912年に26通の手紙を残している。
友人・知人宛としては最後の手紙が楚人冠宛である。
啄木と楚人冠の交際に付いては空白に近いのでこの論考が最初の纏まったものだろう。
関東近県集会で案内頂いたことがあるが碓田先生宅は楚人冠旧宅に近い。
縁や資料はいろいろとある事だろうと思います。
楚人冠は漱石の「我輩は猫である」を酷評し、伊藤左千夫の「野菊の墓」を評価した。歌人としての伊藤左千夫をあまり評価してなかった漱石も自分を酷評した楚人冠の評価する「野菊の墓」を高く評価した。
啄木の朝日新聞入社三年前の明治39年に楚人冠は朝日新聞の記者として東北の凶作地探訪のルポを書いている。
啄木はこのルポの一ヶ月後渋民村の代用教員になっている。
啄木はその4年後の明治43年に朝日歌壇の選者になっている。
その時楚人冠の寄与は小さくなかったという。
二人は東北大凶作について黙契者の位置に立っていたという。
東日本大震災で多くの良識ある国民と私は黙契者の位置に立っている。
7.歌集を読むー碓田のぼる歌集「桜花断章」(津田道明)
優れた歌集の優れた評である。
四つの歌とそれへのコメントを紹介します。
<君のおかげで>と言葉にいわず抱き来し傘寿の花束を妻にも抱かす
閃閃と花火のごとく胸にちる遠き相聞のいくつかの歌
このような静謐で緻細な相聞の世界を示しうることに驚きを禁じ得ない。
(全く同感である。)
キツネウドンを立ち喰いてしばらくドンブリのネギの輪意味なく片寄せている
こうした意味もない行為を私自身、自分の日常にも見出したし、<これって、何?>
と想い返させた。まさに碓尊びしの眼は詩人の眼だ。
尊びし師のなきがらに添いし朝よ雪はしんしんと悲しみに降り
師順三を送った日の朝の歌。結句を終止形<降る>とせず、感傷の甘さを拒否してこの一瞬を永続しようとする工夫といえる。
「桜花断章」は述志と自省の歌集である。
29日に水野さんに歌論や時評に付いて習ったが雑誌総評というのもありでしょうか?
以上です。
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