相原ゆう詩・歌集「柊の花」を読んで
11・16の憲法を考える歌人のつどいで我が新日本歌人協会代表幹事の菊池東太郎さんが抄出をして芸術と自由の梓志乃さんが朗読をするパワーポイントの資料を作るために菊池さんに借りて読んだこの本に感銘を受けたので紹介します。
相原ゆう詩・歌集
柊の花
付・戦争寡婦の六十年ー折々の記
2004年の静岡県田方郡大仁町の相原ゆう詩・歌集刊行委員会が発行したもので書店で売られている類いの本ではない。
菊池さんが初めて今回歌壇の中に紹介する事になるのだろう。
ネット検索では全く出て来ないので少なくともネット上では本記事が最初のものとなる。
有名歌人の紹介はいつでも誰でも可能だがこういう埋れた歌人の発掘はその時に関わった者しか出来ないのでより意味が大きいだろう。
この本が感動を呼ぶのは柊が象徴している三十代で戦死した夫の事でありそれを思い続けるゆうさんの人生である。
そして女々しくではなく雄々しく子どもを育て生きた彼女の人生である。
柊の花というタイトルがまさにこの本を象徴している。
タイトルは主題と付かず離れずがいいというが見事なタイトルである。
相原さんはジョン・ダワーの「敗北を抱きしめて」の第一章「破壊された人生」の冒頭に紹介されている。
そこには天皇の玉音放送にうつ伏せになって倒れたゆうさんがいた。
更にそれに続くアナウンサーの「外地にいる日本軍は武装解除して帰国させる」に夫の帰国を信じたゆうさんがいる。
そしてその五日前にソ連軍との戦いで夫が亡くなっていたと三年後に知るゆうさんがいる。
戦地の夫からの手紙にはこうある。
「ヒイラギは、どこに植えられてもそこに根をおろし、どんな気候にもどんな土にも耐えて育つものだ。冬のものみな枯れるとき、ヒイラギは、ひそかに花をつけるだろう。春が来て、すべてが美しく装い浮き立つとき、ヒイラギは人知れず実を結ぶ。一年じゅう変わらぬ緑は、平和の象徴だが、そのからだには、うっかり触れることができない。そんなヒイラギがおれは大好きだ・・・・・」
短歌も素晴らしいが詩もいい。
章ごとに短歌と詩を紹介しよう。
短歌と詩・1 から
骨の無い墓
青春の無かりしわれに老後あり夫には戦の日のありしのみ(59・9)
軍閥を憎み恨みしわがくらし軍人恩給に頼るほかなく(62・7)
ゲンノショウコ
あの頃いつも軒端に
ひからびたゲンノショウコが
かさかさに風に揺れていた
胃腸の弱ったあの人が
「これさえ飲んでいれば調子がいい」
といって お茶代りにしていた草
あの朝も ヤカン一ぱいゴクゴク飲んで
元気で出ていった
それなのに
たった半年で戦病死
夏の終わりに畦草で
ゲンノショウコの白い花を見ると
私は涙があふれる (51・4)
柊
この開拓へ嫁にきて初めての夏
あの人はいってしまった
「柊の花を見たら雪になるから」
と 遠い戦地から便りをくれた
真っ赤な柿の実を二つ三つ残して
秋が終わる頃
いつのまにかしらじらと咲いている小さい花
私は薪を取り入れて えんどうに霜除けをして冬ごもりの支度を急ぐ
「柊の実が成ったら蒔き物だ」
と あの人はいっていた
黒曜石のイアリングのような実が
とげの葉隠れにいっぱいつく頃
出稼ぎの人らは帰ってくるけど
あの人はかえってこない
私は一人で畑を耕して
町まで種を買いにゆく
くる年も くる年も
こうして柊の木には大きなコブができ
私の髪はすっかり白くなったのに
あの人はまだかえらない(51・5)
割り箸
興安嶺の白樺が
割り箸となって
日本に輸入されているという
その箸はどこで売れているだろう
私は逢いたい
四十二年前の八月十日
灼熱の興安嶺で
倒れたと聞くあのひとは
傍の白樺の木にすがって
起き上がろうとしたに違いない
そのとき
日本に残した家族のことを
考えていたに違いない
あのひとが
その根本で眠っている筈の白樺で
作られるという割り箸に
私はどうしても巡り逢いたい(62・7)
出針
朝食に汁をかけるな
一切れと三切れは食うな
明治の職人の父には
数々のジンクスがあったが
中でもきびしかったのが出針
出掛けに針を使うことを
絶対に許さなかった
あの人が家を征つ朝
奉公袋を肩にした時あっと気がついた
胸の名札が反対につけてあったことを
私は慌てて襖の陰に伴って付け変えた
あの人は還らなかった
あの時見ない振りをしていた父の横顔と
急いで針箱を持ってきてくれた母の姿が
今も脳裏を離れない(2・3)
叙勲の季節
勲八等白日桐葉
これが
遺品の一つも還らないままの夫へ
終戦から二十四年経って贈られた勲章
叙勲の季節がくるたびに
私は悔し涙にむせぶ
国民兵だから八等なのか
敗れた兵士だから白色なのか
勲章なんていらない
たとえ勲一等であろうとも
これが三十歳で果てた命の価値だなんて
思いたくない
勲章なんてほしくない
せめて
中ソ国境にあるはずの夫の骨の一ひらでも
私のもとへ返して欲しい(6・2)
短歌と詩・2野良着の歌 から
農地
「愛国」という稲を作った
風が吹いても倒れない稲だった
「護国」という名の芋も作った
肥料が少なくてもよく太る妹だった
あのころは
峡の棚田も峠の段畑も
余すなく耕されていた
それがいま
葦のなびく休耕田と
葛に覆われて原野に戻る畑
増産の掛け声からあっという間の
農民無視の減反政策
自給率三十パーセントの
輸入一辺倒に不安を唱える人もない
平和が続けば農地が荒れる
不思議な国日本に
本当の平和がおとずれる日はいつ(平10・12)
短歌と詩・3老いの日々 から
篤農家といわれし日あり今はただ日銭欲しさにパートに通う(57・5)
短歌と詩・4生まれた里の記憶
父の死
三年前から床についていた父は
田植機というものを知らない
早乙女を幾人たのんだのかと
くり返しくり返し聞いていた
うちの田植がすんだと告げると
となりではどうかと心配した
そして近所中の田植えが終わると
待っていたかのように
息を引き取った(49・7)
親心
「たとえ三日の間でもあの子に
所帯を持たせてやりたかった
あの戦争さえなければ」
といいつづけて四十年
米寿の祝いの膳についても
老人の日の贈り物にも
笑顔を見せない二人
観光旅行に連れ出しても
黙って遠くを見ている二人
還らぬあの子に代わることは
他の五人の子供達には
どうしてもできない(59・6)
長くなりましたが紹介は以上です。
この本で詩の魅力を感じる事が出来ました。
又短歌や詩を紹介しながら私達がやるべきなのは自作の作品を作ると同じくこういう埋れた作品を紹介する事ではないかと思いました。
この本を紹介頂いた菊池さんに感謝します。
11.16の資料は会の終了後アップしたいと思います。
相原ゆうの詩や短歌に心動く
「柊の花」
もうすぐ咲く頃 公彦
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以上です。
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