水野昌雄氏講演「佐々木妙二について」
九条歌人の会の短歌サロンで佐々木妙二についての水野昌雄さんのお話を聞いたのでメモしました、
映像もあります。
水野昌雄氏講演「佐々木妙二について」
九条歌人の会の短歌サロンで佐々木妙二についての水野昌雄さんのお話を聞いたのでメモしました、
映像もあります。
1.佐々木妙二の息子の佐々木潤之助さんの東大での講演から。
佐々木妙二は高校卒業後最初に国学院大学に行っている。その後小樽商科大学に行った。
同級生の伊藤整の「若き詩人たちの肖像」 に「いつも眠そうな、あたりに無関心な顔をして、一目見て、「文学」というものに取りつかれていると私に分かった佐々木重臣」として登場する。一年上の小林多喜二は「不在地主」を書いた頃に佐々木を訪ねて来たことがある。
民衆とは何か 「戦前に民衆に逆らったのは左翼である。」という論があるように民衆の定義が曖昧になっている。
「みんながそうだったので斎藤茂吉だけが悪いのではない」という戦争責任を曖昧にしている短歌論が出て来ている。
潤之助は民衆のエネルギーを否定しているとそれらの論者を批判している。
2.略年譜
1923 秋田で村木清一郎と五行律短歌誌「韻律の国」発行
(村木清一郎は「訳万葉集」を著し、4500首を現代語訳した。)
1929 大塚金之助の「まるめら」に参加 (「まるめら」はかりんを意味する言葉)
1931軍事教練反対と「戦旗」を読んでいた事で教員を追放され山谷の夜間補習学校の教員となる。
1936 東京医専卒業後、東京都立大久保病院の産婦人科に勤める。
1940 5月「潮」創刊 8月廃刊
1941「新胎」創刊
1943「まるめら」廃刊
1946 人民短歌創刊 新日本歌人協会の創立に参加 常幹 選者
1947 新しい短歌のつくりかた(中野菊夫と共著)新しい短歌入門(渡辺順三と
1955 短歌基準律論を主張
1962 自宅の一部を新日本歌人協会の事務所として提供
1972 渡辺順三の死去の後新日本歌人協会代表幹事となる
1982 脳梗塞で倒れ半身不随となる
1997 熱海温泉病院にて93歳で没
3.その他
笹塚の佐々木医院が新日本歌人の事務所だったが産婦人科の医務室を通って行くのが恥かしかった。
新日本歌人誌は赤字だったので佐々木さんは毎月五万円位出していた。「新日本歌人」が発行出来たのは佐々木さんのお陰。
熱海の温泉病院に見舞いに行った時に文字盤で一文字づつ「あ・と・を・た・の・む」と書かれた。
個人的には私的な事(離婚・再婚)で非難された事もあったが悔いのない生涯を過ごされたと思う。
参加者から
佐々木さんを偲ぶ会は盛大だったがその会で佐々木潤之助さんは絶句した。多分お母さんのことを思ってだと思う。
蒔田さくらこさんのお父さんは小樽商工で佐々木さんを教えた。
森川さんが「今度病院に見舞いに行ったら違う女が付いていた。」と言っていた。
新短歌人連盟副委員長だったので真鶴には毎年桜の時期に見舞いに行っていた。
教育会館で夫婦の出版記念会をやった。
宮崎信義が偶然京都で会ったが違う女の人と一緒だったので知らん顔をしたと言っていた。
直腸癌と分かって27年も闘病生活をやられたのは凄い。
以下映像です。
1.http://twitcasting.tv/f:100001222398242/movie/103570527
2.http://twitcasting.tv/f:100001222398242/movie/103576789
3.http://twitcasting.tv/f:100001222398242/movie/103583441
以上です。
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電子出版「戦わぬこと」
http://p.booklog.jp/book/88624/read#none
俳句は新俳句人連盟
短歌は新日本歌人
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宇都宮健児・井戸川克隆 未来を語る
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