「石川啄木と杉村楚人冠―閉塞の時代とその親愛」(碓田のぼる著)(光陽出版社)を読んだ
「石川啄木と杉村楚人冠―閉塞の時代とその親愛」(碓田のぼる著)(光陽出版社)を読んだ
一言で言うならばこの本は碓田のぼるさんでなければ書けなかった。
一つは啄木の研究者であり特に大逆事件以後の啄木研究については他の追随を許さないからである。
もう一つは楚人冠旧宅の近くに半世紀住み、義理の父は楚人冠の作った我孫子の俳句会(湖畔吟社)のメンバーであり楚人冠に直接薫陶を受け、楚人冠全集全十八巻を譲り受けており、碓田のぼるさんの亡くなった奥さんは楚人冠夫人の茶の弟子だったからである。
第二章の一は書下ろしだがそれ以外は「新日本歌人」誌の2103年4月―8月まで連載されたものである。その当時も読んだがこうして纏めて読んでみると読後感は圧倒的である。
第二章(同時代を呼吸する人びと)の一の書下ろしには若い時からのこういう人たちとの楚人冠との関係が記されている。伊藤左千夫、森鴎外、斉藤茂吉、土岐善麿、、
足尾鉱毒事件と明治の文化人の関わりのことも書かれて居る。
啄木は亡くなった年1945年の一月に極貧の中で楚人冠に三通の手紙を書いている。
第一の手紙は1月9日付けで年賀状への返信であるであるが長文である。
片山潜の指導する東京市電の6千名のストライキがあり「国民が団結すれば勝つといふ事、多数は力なりという事」という有名なフレーズを1月3日の日記に残している頃である。
前年の大逆事件についても触れている。
楚人冠は啄木救援カンパを集めて啄木にその旨送っている。
1月27日には啄木は第二の手紙でお礼を述べている。
1月26日には37円の義捐金が佐藤真一編集長の手で啄木の元に届けられている。
その礼状が第三の手紙である。
楚人冠はこの三通の手書きを生前公表しなかった。
それは大逆事件の菅野須賀子の獄中からの「針文字書簡」を公表しなかった事と同じく自分には何も出来ない「無念さの証」として又友情の証として公表をはばかったのだろう。
碓田さんは以下の楚人冠の菅野須賀子への思いについての大胆な推論も立てている。
楚人冠が朝日新聞の特派員としてベルリンで大逆事件に思いを馳せた「伯林の春衣」を書いた日付が不自然に明治44年4月9日となっているのは菅野須賀子の命日の1911年4月9日の191149を全部足すと25になり菅野須賀子の命日になるからだという。
楚人冠の大逆事件への思いを知ればこそこういう推論も成り立つのだろう。これも菅野須賀子への友情の証として公表をはばかったのだろう。
この本を千葉県民と啄木に興味を持つ人にお勧めします。
啄木と杉村楚人冠の関わりは公表されず友情の証と 2018年9月3日 大津留公彦 以上
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