« おは!Twitter俳句(瓢(ひょん)の実)と歌句作り | トップページ | 青春の歌33(京都旅行)(法然院・永観堂・鈴虫寺) »

2018年10月15日 (月)

「歴史と戦争」(半藤一利著)を読んだ

「歴史と戦争」(半藤一利著)を読んだ
半藤一利さんの80冊以上の著作の中から「歴史と戦争」の部分を集大成したなかなか勉強させられる歴史書だった。
心に残った部分を抜書きします。私のコメントは( )の中です。

1、 昭和12年1月の野上八重子
年頭の新聞に野上八重子が心からの願いを寄せている。
「・・・・たったひとつお願いごとしたい。今年は豊作でございましょうか、凶作でございましょうか。いいえ、どちらでもよろしゅうございます。洪水があっても、大地震があっても、暴風雨があっても、コレラとペストがいっしょにはやっても、よろしゅうございます。どうか戦争だけはございませんように・・・・」
(野上八重子さんの戦争を避けるべしという思いが強く伝わって来ます。)

2、ノモンハンから今に続くもの
『ノモンハン事件から何を学べるか聞かれたら、私は5つあると考えています。「当時の陸軍のエリートたちが根拠なき自己確信を持っていた」「驕慢なる無知であった」「エリート意識と出世欲が横溢していた」「偏差値優等生の困った小さな集団が天下を取っていた」、一番最後に、「底知れず無責任であった」。これは今でも続いている。』
(まさに戦犯政治は今に続いているものですね。)

2、 昭和十六年一月の示達、先陣訓にこうあった
戦場へのぞむ兵士の心得が、まことに名文で書かれている。校閲を島崎藤村に依頼し、さらに志賀直哉、和辻哲郎にも目をとおしてもらったという。藤村は細部まで手を入れ、全体に知的な要素がないことを指適したが、陸軍兵隊に知は必要がないと一蹴する一幕もあったという。ともあれ名文である。それが名文であればあるほど、この文書がその後の太平洋戦争に与えた影響は筆舌に尽くしがたいほど大きかった。われら当時の小国民ですら、強制的に記憶させられた一行がある。
「生きて虜囚の辱めを受けず、死して罪禍の汚名を残すこと勿れ」
これである。捕虜になるなかれ、それは「郷党家門」を辱しめる恥辱中の恥辱であると、兵士たちは覚悟させられた。そのために死ななくてもいいのに、無残な死を死んだ兵士がどれほどいたことか。
(島崎藤村、志賀直哉、和辻哲郎が戦争に利用されたということだがこれからの戦争にも短詩系を含む文学者の協力は必須であろう。)

3、真珠湾への奇襲作戦 山本五十六大将の海軍大臣宛の手紙
「(対米英戦争に踏み切るのは)非常の無理ある次第にて、これをも押切り敢行、否、大勢に押されて立ち上がらざるを得ずとすれば、艦隊担当者としてはとうてい尋常一様の作戦にては見込み立たず、結局、桶狭間とひよどり越えと川中島とを併せ行うの已むを得ざる羽目に追込まれる次第に御座候」
桶狭間もひよどり越えも川中島も。山本の脳裏には奇襲の戦いとして描かれている。真珠湾攻撃はそれらを全部あわせたような「大奇襲」を意図したものであった。
(もし山本が桶狭間とひよどり越えと川中島とを併せ行うのは無理だと判断し上申できてれば日本人が310万人も死ぬ無謀な戦争は起きなかった。歴史にもしはないが、、、)

3、 昭和十七年春のレイテ島
フィリピンのレイテ島での成した日米比較
日本(1年有余で)
1、 数本の田舎道を完成させた。
2、 井戸を五つ掘った。
3、 現地人用に水運びのための天びん棒を多量に作った。
4、 照明用にロウソクを大量にこしらえた
アメリカ(10日間で)
1、 数本のアスファルト道路を作った。
2、 小規模な飛行場を完成させた。
3、 水道設備をくまなく完成させた。
4、 自家発電機を作った。
(全く話にならない。軍部は戦争をする気によくなったものだと思う。)

4、沖縄県民斯ク戦ヘリ
昭和二十年六月六日付け沖縄方面司令官大田実少将の海軍次官宛電文最後
「沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
 軍は沖縄防衛戦において、共に戦い共に死なん、と呼号して、非情にも県民を戦火の中にまきこんで戦った。そのときに非戦闘員にたいするかくも美しい心遣いを示した軍人のいたことを誇っていい。
 そしていま、はたしてわれわれは沖縄の人々に「特別の配慮」をしているだろうか。
(していない。しているとすれば軍事基地を沖縄にまとめているという「特別の配慮」だろう。沖縄から基地がなくならない限り沖縄は全面返還されてない。まして新基地建設などは言語道断です。日本の全ての地域から米軍基地は撤去させなければならない。)

5、「最後の一兵まで」は本気だった
日本大本営の当初の本土決戦計画は(ソ連参戦が決定的になるまで)、戦場の足手まといとなる老幼病弱者を犠牲にしてでも、日本本土を焦土にしてでも、本土で死にもの狂いで戦い、最終的に天皇を満州の安全な陣地に移し、ソ連となんとか手を結び、その支援のもとに、必勝の信念をもって米英に対しては徹底抗戦しよう、というものであったからである。アメリカがあらゆる手練手管を使い、ソ連の対日参戦を一日も早く決意させようとしたのは、けっして故なきことではなかった。
(私の母はソ連が不可侵条約を破ったのはけしからんと言っていた。しかしもしソ連が参戦しなければ天皇は満州に行き戦争は日本壊滅まで続きていたのかしれない。)

5、 なぜ日本人は「終戦」と呼んだのか
 明らかに敗戦であるのに、「終戦」と呼び替えたことが、「負けた」という事実を認めようとしない、あるいはそれを誤魔化そうとする指導者たちの欺術のごとくに、批判的に指摘されている。それはもうそのとおりである。しかし、当時、国民が敗戦を終戦と呼んだのは、単に「敗戦」という表現を嫌ったという理由からだけではないように思われる。そこには一億総兵士、一億玉砕まで戦うという総動員体制がスゥーと消え去ったという安堵感があり、この、とにかくこれ以上戦わなくていいのだ、戦争は終わったのだという安心した気持に「終戦」という言葉はぴったり、国民的な実感があったのである。
そんな気がしてならないのであるが・・・。
(私は「終戦」と言わず「敗戦」ということにしているがこの夏は「敗戦」はまだ戦争をするみたいだから「終戦」でいいのではないかという人と出合った。そしてここにも説得性のある意見がある。しかし、私は「指導者たちの欺術」を明らかにする為に今後も「敗戦」といい続けたいと思います。)

6、 昭和二十年八月二十八日の石原莞爾
昭和二十年八月二十八日の読売報知新聞の元陸軍中将石原莞爾のインタビュー
「戦に負けた以上はキッパリ潔く軍をして有終の美をなさしめて、軍備を撤廃した上、今度は世界の輿論に、吾こそ平和の先進国である位の誇りを以て対したい。将来、国軍に向けた熱意に劣らぬものを、科学、文化、産業の向上に傾けて、祖国の再建に勇往邁進したならば、必ずや十年を出でずしてこの狭い国土に、この厖大な人口を抱きながら、世界の最優秀国に伍して絶対に劣らぬ文明国になりうると確信する。世界はこの猫額大の島国が剛健優雅民族精神を以て、世界の平和と進運に寄与することになったら、どんなにか驚くであろう。こんな美しい偉大な仕事はあるまい」
(戦後の日本はまさに石原莞爾のいうように、「軍備を撤廃」し平和の先進国であろうとして来た。「科学、文化、産業の向上」をはかって来た。確かに最近は世界を驚かせている。「世界の平和と進運に寄与する」のとは逆コースを行くことで。)

7、餓死者七十パーセント
 ここに厳粛な事実を語らねばならない。大本営の学校秀才的参謀どもの机上でたてた作戦計画のために、太平洋戦争において陸海軍将校(軍属も含む)は二百四十万が戦死した。このうち広義の飢餓による死者は七十パーセントに及ぶのである。あまりに手をひろげすぎたために食糧薬品弾丸など補給したくても、とてもかなわぬお粗末さ。わが忠勇無双の兵隊さんは、ガリガリの骨と皮となって無念の死を死ななければならなかった。
(人間の命というものを戦争とそれの動機の死の商人たちはなんとも思っていない。昔も今も。)

7、 昭和二十年十一月二十八日の山田風太郎
山田風太郎の冒頭
「解剖実験室に屍体二十余来る。すべて上野駅頭の餓死者なり。(むごいので以下略)」
(今年の夏のテレビ番組で戦後の上野駅頭での餓死者のことが特集で取り組まれていた。悲しい事実であったことが、この山田風太郎の日記でも分かる。

8、 東北巡行で昭和天皇は
昭和二十一年、背広の天皇の東北巡行のとき、徒歩で沿道の人たちの歓迎をうけている天皇の前に、一人の若い娘が進み出た。真っ白な布に包んだ白木の箱を胸に抱き、写真まで添えられてあった。娘は天皇に向けて遺骨を差し上げた。眼前一メートル余の間に、この白い包みと直面した天皇は立ち止まった。そして天皇は・・・。いや、何も言わなかった。天皇は娘と遺骨に眼を注いだまま、しばし動かなかった。その頬はすこし痙攣しているようにみえた。天皇の習慣を知っていたお付のものや新聞記者は、そのとき、天皇が泣いていることに気付いたのである。
(昭和天皇という人はどういう人だったのだろう。分からない・・・)

9、 あとがきから
 あえて付け加えれば、わたくしを含めて戦時下に生を受けた日本人はだれもが一生をフィクションのなかで生きてきたといえるのではなかろうか。万世一系の天皇は神であり、日本民族は世界一優秀であり、この国の使命は世界史を新しく書き換かえることにあった。日本軍は無敵であり、天にまします神はかならず大日本帝国を救い給うのである。
このゆるぎないフィクションの上に、いくつもの小さなフィクションを重ねてみたところで、それを虚構とは考えられないのではなかったか。そんな日本をもう一度作ってはいけない、それが本書の結論、といまはそう考えている。そして、そんな時代をとにかく精一杯に生きてきた証が本書にあると思っている。
(半藤さんは私の親の世代である。私たち子の世代はこの親たちの世代のおかげで戦後七十年戦争という現実とは遭遇しなかった。それに感謝しながら私たちが子や孫の世代に負の遺産を残さないように頑張らねばならないと改めて思ったのがこの本の感想の最後である。)  2018年10月15日 大津留公彦

ーー
2017年の大津留公彦の俳句
白木槿
http://p.booklog.jp/book/124052
「歌碑のある風景」を紹介します。
私も三郷市の万葉歌碑を紹介しています。