« 青春の歌62(皇居の昼休み) | トップページ | 娘へ1 »

2018年12月11日 (火)

浅草等光寺の啄木歌碑

啄木の葬儀が行われた等光寺に立ち寄りました。
土岐善麿の生家でもあり歌碑もあるはずですが入れませんでしたのでネットから紹介します。

ーー
浅草等光寺の啄木歌碑
 啄木は明治41年(1908年)、文学者として身を立てるため上京して創作活動に入り、明治42年から朝日新聞の校正係となった。小説や短歌の創作に励み、浅草の賑わっている様子を歌に残している。啄木は苦しい生活の中で肺結核を患い明治45年(1912年)に27歳で死去した。葬儀は啄木の親友の土岐善麿(歌人・国学者)の生家であった等光寺で行われ、啄木一周忌追悼会も等光寺でおこなわれた。なお、啄木の遺骨は間もなく妻節子の強い希望で函館に移されている。また、啄木葬儀の一月前には、母カツの葬儀も行なわれている。
啄木の葬儀が行なわれたこの浅草等光寺には、啄木の顔のレリーフを彫り込んだ啄木歌碑があります。

啄木の歌碑は啄木生誕70周年の1955年(昭和30)、金田一京助氏らが集まって歌碑除幕式が行われた。この歌碑は門を入ってすぐ右手にあり、黒みかげ石の歌碑で、一握の砂にある「浅草の夜のにぎはひに まぎれ入り まぎれ出で来しさびしき心」の一首が刻まれ、左上に胸像が刻まれている。歌碑の右には台東区教育委員会による案内板がある。

石川啄木歌碑                                 
台東区西浅草一丁目六番一号 等光寺 

石川啄木は明治十九年(1886)岩手県に生まれる。はじめ明星派の詩人として活躍した。しかし曹洞宗の僧侶であった父が失職したため一家扶養の責任を負い、郷里の代用教員や北海道の新聞記者を勤め、各地を転々とした。 明治四十一年(1908)、文学者として身を立てるため上京して創作生活に入り、明治四十二年からは東京朝日新聞の校正係となった。小説や短歌の創作に励み、明治四十三年十二月には処女歌集「一握の砂」を出版する。生活の現実に根ざし口語をまじえた短歌は歌壇に新風を吹き込んだ。 しかし苦しい生活の中で肺結核を患い明治四十五年(1912年)四月十三日に小石川区久堅町の借家で死去した(27才)。親友の土岐善麿(歌人・国学者)の生家であった縁で、葬儀は等光寺でおこなわれ、啄木一周忌追悼会も当寺でおこなわれた。墓は函館市の立待岬にある。                         
この歌碑は、啄木生誕七十年にあたる昭和三十年に建てられた。「一握の砂」から次の句が記される。 
           
浅草の夜のにぎはひにまぎれ入りまぎれ出で来しさびしき心  
           
平成十五年三月                              
台東区教育委員会
以上
たかしの啄木歌碑礼賛より
写真はサイトに行って見て下さい。
https://blog.goo.ne.jp/takuboku1511


浅草の夜のにぎはひに
まぎれ入り
まぎれ出で来しさびしき心 
啄木

この歌は、東京朝日新聞(明治43年3月18日)に発表、「一握の砂」に掲載。39010a53f68a4deabcc157bf2f5e7835

以下
東京紅団から延々と引用です。
http://www.tokyo-kurenaidan.com/takuboku_tokyo_11.htm
 「石川啄木全集」から”伝記的年譜(岩城之徳)”です。
「四月十三日 早朝危篤に陥り午前九時三十分、父一禎、妻節子、友人の若山牧水にみとられながら永眠。享年二十七歳。病名は肺結核である。
四月十五日 佐藤北江、金田一京助、若山牧水、土岐哀果らの奔走で葬儀の準備を進め、この日午前十時より浅草松清町の等光寺で葬儀が営まれた。導師は哀果の兄の土岐月章であった。会葬は朝日新聞社関係を加えて約四、五十名、文壇関係では夏目漱石、森田草平、相馬御風、人見東明、木下杢太郎、北原白秋、佐佐木信綱らが参列した。法名は啄木居士。遺骨は等光寺に埋葬したが、翌年三月二十三日啄木の妻の意志で函館に移し、立待岼に一族の墓地を定めて葬った。(現在の墓碑は宮崎郁雨ら有志により大正十五年八月一日建立。)…」
 土岐哀果の世話で、実家である浅草松清町の等光寺での葬儀となっています。

 金田一京助の「私の歩いて来た道」からです。
「…   一〇 石川啄木の臨終
 人力車に乗って石川家に着いたら奥さんが、玄関へ迎え出て、
「ゆうべから時々昏睡しまして、昏睡から覚めると、金田一さんを呼んでくれ、金田一さんを呼んでくれ、と申しますので、今晩はもう遅いから、とすかして寝せましたけれども、今朝も早くからそういいまして、まだあまり早いからと止めていましたが、とうとう、結局こんな早くお呼びして、申しわけございません」
というあいさつです。……」
 後は本を買って読んで下さい。金田一京助はその当時住んでいた”本郷森川町一番地蓋平館隣”から駆けつけています。金田一京助としては臨終に立ち会えなかったのが心残りのようです。まあ、今の生活の方が大切です。

 若山牧水全集から「石川啄木の臨終」です。
「   石川啄木の臨終
 小石川の大塚辻町の疊職人の二階借をして住んてゐた頃である。朝また寢てゐるところに石川君の細君から使ひか来た。病人が危篤だから直く来て呉れといふのであつた。明冶四十五年四月十三日午前六時過ぎの事てある。馳けつけて見ると、彼は例の如く枯木の枝の樣に横はつてゐた。午前三時頃から昏睡状態に陷つたので夜の明けるのを待焦れて使を出したのだか、その頃からどうやら少し落ちついた樣ですと細君は語りながら病人の枕もとに顔を寄せて大きな聲て「若山さんがいらつしやいましたよ」と幾度も幾度も呼んだ。すると彼は私の顏を見詰めて、かすかに笑つた。「解つてゐるよ」との音味の微笑てあつたのだが、あとて思へはそれか彼の最後の笑ひてあつたのだ。その時、側にいま一人若い人か坐つてゐたが、細君の紹介て金田一京助氏である事を知つた。
 さうして三四十分もたつと、急に彼に元気か出て来て、物を言ひ得る樣になつた。勿論きれぎれの聞き取りにくいものではあつたか、意識は極めて明瞭で、四つ五つの事に就いて談話を交はした。私から土岐哀果君に頼み、同君から東雲堂に持込んた彼の歌集の原稿料か昨日屆いたといふお禮を何より先に言った。そしてその頃私の出さうとしてゐた雑誌の事に就いてまて話し出した。何しろ昨夜以來初めて言葉を發したといふのて細君も非常に喜ひ、金田一氏もこのふんならは大丈夫たらうからと、丁度出勤時間も來たのて私はこれて失禮すると云って歸って行った。細君も初めて枕許
を離れた。
 それから幾分もたたなかったらう、彼の容體はまた一變した。話しかけてゐた唇をそのままに次第に瞳かあやしくなって來た。私は惶てて細君を呼んた。細君と、その時まて私か來て以來次きの部屋に退いて出て來なかった彼の老父とか出て來た。私は頼まれて危篤の電報を打ちに郵便局まて走って歸って來てもなほその昏睡は續いてゐた。細君たちは口うつしに藥を注ぐやら、唇を濡らすやら、名を呼ぶやらしてゐたか、私はふとその場に彼の長女の(六歳たったとおもふ)居ないのに氣かついてそれを探しに戸外に出た。そして門口で櫻の落花を拾って遊んてゐた彼女を抱いて引返した時には、老父と細君とか前後から石川君を抱きかかへて、低いなから聲をたてて泣いてゐた。老父は私を見ると、かたちを改めて、「もう駄目てす、臨柊の樣てす」と言った。そして側に在つた置時計を手にとつて、「九時半か」と呟く樣に言ったか、まさしく九時三十分てあった。
 私は直ぐかかりつけの醫者に走った。書き落したか同君はその半年ほと前から小石川の久堅町に住んでゐた。番地を忘れたが一二度訪ねたのでは直く忘れてしまふ位ゐ解りにくい家てあった。醫者は矢張り久堅町の三浦醫院といふのであった。細君たちももう醫者を連れて來る必要はあるまいから唯た知らせてたけ置いて呉れといふ意見てあったか、醫者の方ても夙うにその樣に承知してゐて、直く診断書(死亡屆か)を書いて呉れた。
 三四丁離れた醫者から歸ると老父と細君とはただ二人きりて手早く部屋を片附けてゐた。何といふ惶しい臨終たらうと、今まてとやや場所をかへてひつそりと置き捨てられてゐる彼の遺骸のそばに坐りながら、かぶせてあつた毛布を少し引いて彼の顔を見てゐると、生前と少しも變らぬ様子にしか感ぜられぬのてあつた。彼は初め腹膜炎で腹部が非常に膨れてゐた。それか肋膜炎に變ると急にまたげつそりと痩せてしまつた。久堅町に來て半年餘りといふものすつかり床に就いてゐたのて次第に痩せ痩せて、初め枯本々々と呼んてゐたのをやかては「枯木の枝」と吁ぶ様になつてゐたのであつた。
 私は水く彼の顔を見てゐられなかつた。
 よく安らかに眠れる如くといふ風のことをいふが、彼の死顔はそんなでなかつた。で、直くまた死亡の打電のため郵便局に走り、次いて警察署に行き、區役所に行き葬儀社に行き、買物から自働電話から、何も彼も私一人て片附けてしまつた。他に手も無かつたのだか、結局さうして動いてゐる方か氣輕てもあつたのた。蒸暑い日和て、街路には櫻の花が汗ばんて咲き垂れてゐた。
 その夜の十時頃まては二三の人も來てゐたか、それからはまた午前の通り老父と細君と子供と私との四人きりになつてしまつた。細君も夙うから同し病に冒されてゐたのたか、その夜は見るも氣の毒なほとよく咳いた。て、強ひて子供と二人を次きの間に寢さして、老父と二人して遺骸に添ふて夜を明かした。
   かなしきはわが父!
    けふも新聞を讀みあきて。
   庭に小蟻とあそへり。
 とその子に歌はれた老父もまた痩せて、淋しい姿の人てあった。石川君の死ぬる丁度三十日前に彼はその妻を、即ち石川君の母を、同しその家で死なしてゐたのてある。そして心をまぎらす積りて北海道の縁家か何かに行ってゐるとまた五六日前、息子の病気の重ったために東京に呼びかへされてゐたのてあつた。折々耐へ難い愚癡をば漏らしなから、つとめて私の方を淋しがらすまいとして斷えず世馴れた口調て何か知らの世間話を續けてゐた。その中て私の心に殘つてるのは小樽だか室蘭だかの古棧橋から魚を釣る話であった。眼の前のこの老人が糸を垂れてゐる姿か、古棧橋と一緒にいかにもありありと想像せられたからてある。
 話も盡きて、夜の白みそめた頃老人は一枚の紙に次ぎの樣な歌を書きつけて私に示された。
 「毋ゆきていまだ中陰も過きぬにその子また失せにければ」と前書きをして。
   さきたちし毋をたつねて子すすめの死出の山路を急くなるらむ
 佛の枕許に小さく片附けられた小道具などの中に私に眼についてならぬ一箱の薬品かあつた。死ぬ前々日に石川君を見舞ふと、彼は常に増して険しい顔をして私に語つた。「若山君、僕はまた助かる命を金の無いために自ら殺すのだ。見給へ、其處にある薬がこの二三日來斷えてゐるが、この薬を買ふ金さへあつたら僕はいまに直く元気を医復するのだ、現に僕の家には一圓二十六錢(或は單に廿六錢てあつたかとも思ふ)の金しか無い、しかももう何處からも入つて來る見込は無くなってゐるのだ」と。
 その薬の名を訊いておいて私はすく附近の薬屋に出かけたが、私の財布の中の金でもそれを買ふに足りなかつた。たしか薬の價は一圓六十錢てあつたとおもふ。本郷まて金を借りに行つたか出來なかつた。そしてその足で、同しくその日彼から頼まれた歌集(『悲しき玩具』であつたらう)原稿を賣るために土岐君を芝に訪ねた。土岐君はすく日本橋の東雲堂に行き、それを二十圓に代へて石川君の許に屆けたのてあった。その金て早速買ひ求めたのてあらう。その何とかいふ薬が、僅かに箱の蓋かとられたばかりて其處の枕許に置かれてあるのてあった。
 葬式はその翌日、土岐君の生家てある淺草の等光寺(?)て營まれた。が、私は疲勞と其處て種種の人に出逢ふ苦痛をおもふとのために缺席した。 」
 若山牧水は当時の住所で巣鴨村3518番地 郡山幸男方から駆けつけています。ただ、この場所については「文京ゆかりの文人たち 文京区教育委員会発行」によると、”巣鴨村三五一八番地(豊島区駒込二-)郡山幸男方”、次のページには”現在の都バス車庫附近”(JR駒込駅北側)とも書かれています。詳細に調べたところ、これは間違いで、当時は巣鴨村と巣鴨町の二つがあり、”豊島区駒込”は巣鴨町に属しており、また三五一八番地はありません。あるのは巣鴨村で、現在の”豊島区東池袋5丁目52”附近とおもわれます。ただ”郡山幸男方”で再確認する必要があります。

 若山牧水は啄木の死後、”死亡の打電のため郵便局に走り、次いて警察署に行き、區役所に行き葬儀社に行き、買物から自働電話から、何も彼も私一人て片附けてしまつた”と書いています。小石川郵便局、小石川警察署は今の伝通院前交差点の北東(小石川二丁目14)にありました。小石川区役所は伝通院前交差点から安藤坂を南に240m下った東側にありました。啄木の自宅から小石川区役所までは約1.3Km程ですからたいしたことはありません。場所については上記の”小石川久堅町七十四ノ四六号へ引越す”の地図を参照してください。

 <読売新聞に掲載分>
・4月14日 朝刊 石川啄木氏逝く(一段19行)
・4月15日 朝刊 啄木石川一(死亡広告)
・4月16日 朝刊 故啄木氏葬儀(一段9行)
★写真は平成17年(2005)に撮影した函館にある石川啄木一族の墓です。相当昔なので、現在は変っているかもしれません。
写真はサイトに行って見て下さい。


(私も書いています)


ーー
2017年の大津留公彦の俳句
白木槿
「歌碑のある風景」を紹介します。
私も三郷市の万葉歌碑を紹介しています。