碓田のぼるさんの新著「啄木断章」を読んだ
碓田のぼるさんの新著「啄木断章」を読んだ
この本の三分の二を占めるのは今年の「民主文学」の6,7月号に掲載された『啄木詩「老将軍」考』であり、残りが季論2009年秋号に掲載された『生活の風景と言葉』であり、季論2017年秋号の中村稔著『石川啄木論』の書評と2001年3月の国際啄木学会研究年表第四号の上田哲著『啄木文学・編年資料 受容と継承の軌跡』の書評であり、最後が三枝昴之氏との2006年の対談『生誕百二十年 石川啄木と現代』である。
夫々について感想を書いてみたいと思う。
①『啄木詩「老将軍」考』
一言で言って、非常に緻密な分析である。他の言葉で言えば細かく又、執念深い。
啄木の研究者でないと興味を持たないのではないかと思ったが、たまたま最近この「民主文学」の編集者と話す機会があったが彼女はこの文に非常に興味を持ったという。
啄木の入門者には厳しいと思うが文学者にはその取り組みの手法が興味深いかもしれない。
私のような大雑把な啄木読みには誠に敬意を表するしかない。
その一部を紹介しよう。
この「老将軍」という詩は明治38年1月1日発行の「写真画報第13号」に掲載されているが啄木の第一詩集「あこがれ」には収録されてない。昭和9年に木村毅氏によって「東京日日新聞」に紹介され、啄木全集に収録されたのは戦後になってからである。
この詩はこういう調子で始まる
老将軍
老将軍、骨逞しき白龍馬
手綱ゆたかに歩ませて、
たヾ一人、胡天の月に見めぐるは
沙河のこなたの夜の陣。
木村毅氏はこの詩が「写真画報第13号」に掲載されたことを啄木は知らなかったのではないかと推測し、忘れてしまったのではないかと推測するが、碓田氏は啄木全集には瑣末な文章の一節まで残しているので啄木が忘れてしまったという説は採らない。
啄木のご子息の石川正雄氏は「老将軍」は「日露沙河の大戦にわが三軍総司令官たりし大山元帥のことであろう」と言っている。碓田氏は中に出てくる「勝算胸に定まりて」は作戦指導の総責任者である満州軍総参謀長児玉源太郎大将の方がふさわしいかも知れないとしているがこの詩の「老将軍」の形象がかすんでいるのでどちらともいえないと言う。
むしろなぜ啄木がこの詩を「忘れてしまった」が問題としている。
明治38年8月の遼陽会戦で日本軍23500人の死傷者を出しロシア軍も2万の死傷者を出して北に敗走した。同十月クロポトキン率いるロシア軍を日本軍は沙河戦で日本軍20500人の死傷者を出しロシア軍も4万1千の死傷者という未曾有の大損害を出して終結した。
戦場での真実は知らされずこの二つの会戦の勝利に国内は沸き立ち、天皇が勝利を讃える勅語さえ出している。(この調子で紹介すると本を読む意味がなくなるのでこれから端折ります。)
碓田氏はこの詩には熱狂の反映は無く「孤独感が薄絹のベールのように被っている感じがする」と言う。同時期に岩手日報に連載された「戦雲余録」のナショナリズムと呼応しているがこの「老将軍」の2、3ヶ月目に書いた「マカロフ提督追悼」と比べてもその力の無さが際立っているという。リズムも「マカロフ」は3445又は79の新調リズムだが「老将軍」は旧調の75のリズムだと言う。
ここで碓田氏の「大胆な仮説」が登場する。(ここら辺からがこの文の真骨頂だが)
曰く
『「老将軍」には、啄木が生涯の秘事とした、宝徳寺追放の屈辱を背負った父一禎のことを重ねてはいないか』
「執念深い」碓田氏は2018年に曹洞宗総本山の宗務庁宛に質問状を出している。
その返事がこの文の白眉だが推理小説の結末ではないが紹介するのはやめておこう。
詳しくはこの本を読んで頂きたい。
碓田氏は最後のこの詩は「啄木が年少期からもった熱烈なナショナリズムの急激な減退を示していないか」と言う。
この長い論考の最後の文章を紹介して終わろう。
「こうして考えてくると、啄木におけるナショナリズムの問題は、まだまだ奥が深く解明されなければならない問題が残されている思いを強くする。わけても戦後のナショナリズムの研究から深く学び取る必要を痛感する。そのことによって、石川啄木におけるナショナリズム論は、もっと総合的に、理論的に整理され、啄木の思想と文学をより深く刻み上げる事になるのではなかろうか。」
②『生活の風景と言葉』
明治41年四月下旬に最後の上京した啄木は金田一京助の下宿である本郷菊坂の赤心館に身を落ち着けた。
「5月8日から45日間で小説を220枚と詩8編と短編の構想を16本分練った。しかし小説は1本も売れず、「明治41年歌稿ノート『暇ナ時』」には6月14日から10月10日までの間に652首が収められているが、約四ヶ月の作品数としては驚くほどのものである。」
このとき啄木は他方で旺盛に読書している。(ツルゲーネフ、蕪村句集、杜甫・陶淵明・白楽天、万葉集、古今集、源氏物語)(驚くべき読書量である。)
6月22日に「赤旗事件」が起こった。これは「山口孤剣の出獄歓迎会が神田錦町の錦輝町で開かれたおり、「無政府共産」「無政府」などの文字を赤字に白く縫い付けた旗を立てて、警官隊と大乱闘になった事件である。堺利彦、荒畑寒村、大杉栄などと共に菅野スガ、大須賀サトなど若い女性4名を含む計16名が逮捕され」た事件である。
この事件に触発されたと思われる歌がある。
君にして男なりせば大都会既に二つは焼きてありけむ
4ヵ月後啄木は本郷町の新坂上の高台にある蓋平館別荘に移る。
そして窓から見える富士山よりも砲兵工廠の3本の煙突に興味を持つ。「小説断章その他・島田君の書簡」でその煙を「毒竜のような一条の黒煙」と書き「いかなる健康者でも其地域に住んで半年程経てば、頭に自と血の気が失せて妙に青黒くなり、眼が凹んでドンヨリする。」と書く。碓田氏は「眼前の風景の中に人間の生活を思い浮かべ、人間の未来を見通した俊敏な詩人の想像力であった。」と書いている。
明治42年3月1日から朝日新聞校正係に就職し、6月16日に函館にいた家族を呼んで本郷弓町2丁目の新井という床屋の2階で暮らし始める。
その間貧困のあまり20日間の妻の家出事件が起こるが、碓田氏はこう書く「個人主義的自己充足の思想の敗北であり、それへの鋭い警鐘であった。」「啄木は、この敗北の地点から新しく歩みはじめたのである。それはあらたな「生活の発見」であり、啄木の思想と文学の画期的前進となるものであった。」
その後「食ふべき詩」「きれぎれに心に浮かんだ感じと回想」「文学と政治」「一年間の回顧」など重要な文章を立て続けに書いている。
明治43年6月 大逆事件が起こる。(事件の解説略)
8月末から9月にかけて「時代閉塞の現状」を書く。(評論の解説略)
この時期に書かれたこの歌を評している。
地図の上朝鮮国に黒々と墨をぬりつつ秋風を聞く
「日本は天皇の名において、韓国の国号を剥奪し、単なる日本国土の地方名としての「朝鮮」におとしめたものであった。」
碓田氏はこのいかなる地図にもありえない朝鮮国の「国」の語がまさに啄木の思想であるという。曰く「それは、天皇の名によって略奪された国家と民族への鎮魂の思いであり、遠い先での、奪われた「国」のあらたな再生への、期待であった。」と
この歌は動きのある墨を塗るイメージが強いが「国」への着目は新しい指摘であろう。
この年のこの歌も紹介している。
新しき明日の来たるを信ずと言う
自分の言葉に
嘘はなけれど――
この歌は啄木の悲観ではなく、啄木の我々に向けた問いかけだと碓田氏は言う。
翌明治44年は東京市電のストライキで明けた。
1月3日の日記にこう書いている。
「国民が団結すれば勝つという事、多数は力なりという事」それに続けて碓田氏はこう書いている。
「こうして啄木は、未完の「新しき明日」の歌の「――」の部分に、自歌自注を加えることよって、作品を完成させたのである。啄木はそれから4ヵ月後の明治45年4月13日にわずか26歳2ヶ月の生涯を閉じた。」
③書評 中村稔著『石川啄木論』
書評の書評というものは難しい。以下の微妙な文章を紹介するだけにしよう。
「本書を読み終わって、啄木の全生活と全作品を見る著者の視点―生活者啄木を見つめる視線―というようなものを、不図思った。 天上から見下ろしていないことは云うまでもない。それでは遠近法のような、いってみれば、遠方の詳細はわからない。という視点でもない。私の頭に浮かんできたのは、何となく、オランダの画家のレンブラントのような光線であった。」
④書評 上田哲著『啄木文学・編年資料 受容と継承の軌跡』
起筆から11年かけ1999年に発行された653頁に及ぶ大書だが作者は翌年に亡くなっている。ここでも思いの籠もった最後の文章を紹介するだけにしよう。
『受容と継承の軌跡』においても、日曜日に北上川の啄木歌碑の清掃をした小学生が。駐在所で取り調べられ、進学や就職で不当な処遇を受けたことの事実が記述されている。啄木の持つ事実をおし歪めようとする力は、戦前だけのことではない。今日にもそれは及んでいよう。啄木の事実の受容と継承は、それを阻むものとのたたかいなくしては進まないことを、本書を読みながら、あらためて深く思った。」
⑤対談『生誕百二十年 石川啄木と現代』碓田のぼる・三枝昴之
対談のおそらく抜粋なので少し物足りない感じがあるがエピソードの部分を紹介しよう。
碓田 戦争末期、十五歳のころ、長野・野尻湖畔にあった鉄道工場の寮にいきまして、近くにいたドイツ人の娘さんに恋心をいだいた。自分の歌のようなふりをして、「君に似し姿を街に見る時の/こころ躍りを/あわれと思へ」「かの時に言ひそびれたる/大切な(の?)言葉は今も/胸にのこれど」の二首を贈った。啄木の歌を借用しても、自分の気持ちと矛盾しないから罪の意識はなかった(笑い)。
碓田 愛国少年だった私の啄木の歌との印象的な出合いは、敗戦の年で十七歳でした。高等小学校を出て長野の鉄道工場に勤めていましたが、石炭危機で「増産隊」が組織され、北海道の美流渡鉱山にいって採掘作業をやりましてね。粗末なつくりの宿舎で、汗と油のベニヤ板張りの壁に小さな落書きがあるのに気づきました。朝鮮文字に混じって、日本語で歌が書かれていました。「今日もまた胸に痛みあり。/死ぬならば/ふるさとに行きて死なむと思う。」と「地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴く」の二首でした。
以上です。 2019年10月24日 大津留公彦
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