碓田のぼる著「1930年代『教労運動』とその歌人たち」を読んだ
あなたは子どもたちの放射するものを受けとめているか
――碓田のぼる著「1930年代『教労運動』とその歌人たち」を読んだ。
この本は五人の歌人についての評論とそれ以外の評論で構成されている。
第一部
1、村山俊太郎
啄木と比較して村山俊太郎の人生を追っている。
例えば啄木が妻の家出事件の後明星のロマン主義と決別したのと同様にロマンチシズムに対する態度の問題で似通ったところがあると。
例えば村山俊太郎が妻村山ひでに送ったある言葉
「ロマンチシズムへの道は、自然主義リアリズムへ、そしてさらに高いリアリズムへー歴史が示している道。
同じようなやり取りは宮本顕治と宮本百合子の「十二年の手紙」にも見られる。
ーあなたは子どもたちの放射するものを受けとめているかー
これは村山俊太郎が妻村山ひでに送った言葉です。
村山ひでは戦後活躍した教育者で「明けない夜はない」「愛とたたかいの詩」「母年として 教師として 生活者として」の著作がある。
碓田さんは「妻ひでの秀でた姿も決して忘れてはならない」とこの文を締めています。
第二部
2、今村治郎
ここでも啄木の詩との共通性が指摘されている。啄木の「墓碑銘」と今村治郎の「人間哀史」である。こう書いている。
「青年今村治郎は、啄木研究も十分発展してなかった時代に、啄木の浪漫主義や空想癖を受けとりながら、啄木詩「墓碑銘」の方向に、詩のベクトルを向けているような気がします。」今村治郎たちの書いた「修身科・無産者児童教程」は1933年(昭和八年)の所謂「二・四事件」による弾圧で官憲に押収され日の目をみませんでしたが四十年後の1970年に今村治郎と再会する。それは文部省学生部編の700ページに及ぶ丸秘文書「プロレタリア教育の教材」においてであった。その紹介文を読むと如何に当時の政府がこれを恐れていたかが判る。
今、小中学校では道徳の時間が正規の教科となり、二宮金次郎が半数の教科書に復活して居るという。碓田さんはこの項をこう締めています。
「このような事実から考えると、支配権力の道徳教育がもつ反国民的性格を見抜く上でも『修身科・無産者児童教程』は重要な歴史的意味を持つものだと思います。」
3、矢野口波子
後に今村治郎と結婚して今村波子となる。「二・四事件」の被告十一名中唯一、非転向を貫いた女性。碓田さんは1980年代の初めに「新日本歌人」誌上で始めて60代の今村波子の歌と出会ったという。(まだその歌の全貌を摑んでいないと云う。)
1989年に82歳で生涯を閉じ行く今村治郎への歌です。
君曳かれし峠路は緑重なりて茫々五十余年病は篤く
点々と落ち行く血液は誰のもの眠り続くる夫は既に遠くあり
4、福澤準一
この人物はやや複雑である。今村治郎、奥田美穂と一緒に長野県教労運動の拠となった下伊那郡上郷小学校で活躍する。アララギの歌人。
碓田さんは2018年に下伊那を訪れ、今村治郎夫妻の墓や、泰阜村に金田千鶴の生家や墓、歌碑そして、飯田市鼎切石妙琴原キャンプ場の福澤準一の歌碑を訪問している。
今村治郎の「わが半自叙伝」には驚きの福澤準一像が書かれていたと言う。
「二・四事件」の後報知新聞、読売新聞の記者となり、第一次読売争議では組合側に着いたが第二次争議では会社側として活躍し異例の出生をして論説委員となり天皇の園遊会にも参加し「随喜の泪を流し」退職後はある右翼団体の短歌編集に従事していたという。
碓田さんはこの180度の変身について以下の二つの仮説を立てている。
一つはアララギの斉藤茂吉の影響であり、もう一つは「二・四事件」当時既に結婚しており生活の苦しさからの脱出願望だという。
斉藤茂吉の戦争責任についての自己批判は決して潔いものではなかった。
こういう歌が有名です。
軍閥ということさへも知らざりし われを思へば涙しながる
碓田さんは獄につながれた山埜草平のこの歌と並べています。
軍閥の奴隷とならず/獄にあり/頭をあげて、わが生きてをり
福澤準一が戦後創刊した短歌雑誌「実生」は茂吉の言葉「実相に観入し、自他一元の生を写す」からきているものだろうとのこと。
福澤準一の戦前戦後の歌を集めた歌集「帰雁」に1930年の歌にこういうのがある。
月々の生活苦しくとりそめしトルストイ全集をあきらめんとす
遺歌集「還暦」の中の「雨の園遊会」という八首の中にこれがある
右り左り礼しつつくる竜顔はひとりひとりを認めぬ眼して
碓田さんはこの項の最後をこう結んでいます。
「これらの歌は客観写生の歌であり、今村治郎が『随喜の泪を流し』と書いたのは、やや誇張した文学的修辞かと思われます。今村治郎にとって福澤準一の歩んでゆく方向が、残念でならなかったところからくる筆づかいだったのだと思います。
この項にアンドリュ-・ロスのことという文章があり、1946年5月27日の読売新聞への特別寄稿の「日本の政治的危機」の中で人民短歌(後の新日本歌人)に触れていることを紹介しています。こういう文章です。
「私はさらに西洋文化の摸倣などより『人民短歌』に現れたような日本詩の民主主義化と民主化についての報道に深い感銘を受けた。」
碓田さんは「新日本歌人協会60年史」を書く過程でこれを発見しこう書いている。
「著名なジャーナリストの国際的視野の中に創刊三ヶ月の『人民短歌』がとらえられていたことは、短歌の民主的発展を志すものにとって大きな誇りとすべきものでしょう。」
5、奥田美穂(おくだ・よしほ)(男性)
1909年生まれ 今村治郎、福澤準一と一緒に同人誌「韻せん」発行 生涯独身。
碓田さんが奥田美穂に関心を深めたのは「新日本歌人」1987年10月号の今村波子の「奥田美穂氏の墓参り」と言う題の短歌四首だという。こういう歌が紹介されている。
山の辺に朝霞たゆとう下呂の町長き心掛りの消え去らんとする
新日本文学1957年9月号の小説「暗い朝」でこの一連の歌のドラマのなぞがわかったという。この小説に出てくる「金山せつ子」がモデルと思われる金山せつ子が「二・四事件」による弾圧で結ばれなかった奥田美穂の恋人だという。
奥田美穂は戦後「教育週報」という小さな出版社に入りその後「婦女新聞」という週刊誌の編集長になる。この新聞の執筆者に石上露子が居りその「婦女新聞」の研究で碓田さんの「石川啄木と石上露子」などの研究論文が生れているが、その編集長として奥田美穂が登場したのには驚いたと言う。
奥田美穂は1946年に出来た、全日本教員組合の中央執行委員としても活躍している。その48人の中央執行委員の名簿には、岩間正男、入江道雄、小林徹、関研二など碓田さんがその後世話になる名前や歌人の渡会秋高や羽仁五郎や中村新太郎などの学者の名前もあったという。
まさに今知られるべき「知られざる教育ジャ-ナリスト」である。
以下エッセイなどのタイトルだけ記します。
- 奥田美穂の墓を訪ねて第四部インタビュー・藤原晃さんに聞く
- 以上です。
- 治安維持法時代の教育のたたかい
- 「易水」の踏切りあと
- 映画『教室から消えた恩師たち』のまなざし

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