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2021年3月15日 (月)

森志らべさん (日本美術会) インタビュー

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文団連のFacebookから転載します。

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みんなで見に行きましょう!
第74回 日本アンデパンダン展 
3月18日(木)~29日(月)
国立新美術館 一階展示室 (六本木)
主催:日本美術会

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ぶん文訪問記 2
森志らべさん (日本美術会) インタビュー

2歳から絵を描く
2月21日、東京芸術座の森路敏さん(インタビュアー)と青年劇場の福山啓子(記録係)で、第二回「ぶん文訪問記」インタビューのために、日本美術会の森志らべさんにお会いしました。
新座にある森さんのお宅は、二階が絵の教室の部屋。三階のアトリエでお話を伺いました。冒頭、森さんが2歳で第一美術協会展に入選した時の記事が載っている週刊読売を見せていただいてびっくり。画家である叔父さんの直江兼博さんと一緒に森さんが写っています。

―森さんは2歳から絵を描き始めたんですか?
そうそう、でも自分の意識はないので、プロになったのは30過ぎてからなんです。この時は近所に叔父がいたので通っていた時にたまたま入選したという感じです。

―その後専門的な絵の勉強をされた?
日本で絵描きっていうと美大にいくのがメジャーじゃないですか。私は師弟関係なんです。日本に画壇がありますけど、そこのお師匠さんと私と言う関係で、いろんな先生について現在に来ています。一般的なアカデミック教育とちょっと違うんですね。その先生が持ってる技術、筆も持ち方一つとっても、その先生の持っているDNAからもらって、ミックスブレンドされてる感じの人だと自分では思います。例えば、芸大のなんとかゼミとかそういうのは無いんです。

―美術学校に行くとやるような系統立てた学習とかは?
最初についたのはこの叔父なんですけど、叔父は第一美術協会で審査員をされていた人なんで、日本美術界の祖、岡田三郎助の流れの人です。黒田清隆が日本に西洋画を持ち込んで、その後にいろんな方が出ましたけど、岡田三郎助さんに皆さん教わってるんです。その中に今の芸大の前身である東京美術学校の先生もいますけど、その一つ下がこの叔父の世代。実際には青木繁や藤田嗣二から教えを受けてるわけです。
私は20台の後半から水彩画を始めて、その時指導してくれた先生が「油もやった方がいい」と言ったんで、急に方向転換して30の頭に今度は、油絵の先生の所へ行って、その人が20年くらいで長かったんですけど、オーソドックスな、デッサンから始めて、ものの立体を極めてというのを淡々とやってたんです。そのあと、いろいろとアトランダムにいって今日にいたります。

日本美術会が私の血と肉を作っている
 今の私の血と肉を作ってるのは日本美術会です。直江さんの息子さんがずっと日本美術会で活動されてたんで、知ってはいたんですけど、東日本大震災があって、その前後くらいに日美の会員さんと急に深くなったんです。あの地震の直前まで磐梯熱海に住んでいたので、生徒さんが随分亡くなりました。それもあって日本美術会の哲学とか精神とか、そういうものに一気に気持ちが流れていって、そこから日美で活動するようになったんです。
 その前までの所と離れているわけじゃないですけど、ある意味基盤の部分が終わった感じ。骨の部分が終わって、その次に、アスリートでいえば筋肉をどうつけていくか、どういう練習に入ろうかっていう40台の半ばくらいに変革期が来た。それまでは社会的なことや哲学性はあいまいだったと思う。
なんで故郷に帰れないんだろうとか、自分が動物が好きだったせいもあるけど、なぜみんな動物を置いていくのだろうと思った。「牛とか豚とか家畜の場合はいろんな対策があるのだろうけど、なぜペットも持ち出せないんだろう。普通の生活を壊した原発って何」とそれまで考えなかったことを考えるようになりました。
福島から東京へ電気が来てますよね。原発に関係する電線の鉄塔は赤色で、普通の鉄塔と違うとか、知らないことが一杯分かるようになってきた。この辺の新座の鉄塔にも赤いのがあるので、この電気は福島から来ているんだとわかりました。
日美でチャリティーの係になったので、そこから現地の人の話を聞くようになりました。福島にある「NPO法人ふくしま30年プロジェクト」という、放射線量を測る団体や、「特定非営利活動法人 野馬土」さんという地域貢献の団体に絵の売上金を送るなど支援しています。調べて行くといろんな事が政治に関わっている事が分かるようになりました。日本美術会に関わった事もあるけど、3・11は私を変えたと思います。

コロナ下での出会い
その後、コロナで安倍さんが2月28日に非常事態宣言の話をして、一年間蓋が閉められた感じになって、薬屋さんに大勢並ぶ姿も、人が変わって行くのも見ました。
4月5月と動けなくなってずっとこの部屋にいました。私は死ぬまで2020年のことを忘れないと思う。換気の為に窓をあけてここで絵を描いていると、ピアノ教室や名取さんや三味線の音が朝八時から夜九時まで聞こえて来るのに気付いて、ああ、みんな表現者なんだなと涙が出てきました。世の中にはいろんな表現者の人がいて、みんな表現が出来なくなっているという事に5月に気付いたんです。
7月に入って「文化芸術継続支援金」が出来て、その申請を担当しました。日本の文化芸術の状況を調べることになり、絵以外の分野の人と交流するようになりました。
その頃ドイツのメルケルさんが素晴らしいことを言いましたよね。「生きるために芸術は必要だ。ドイツは芸術家を守る」という発言を聞いて、日本の為政者と比べるようになりました。その頃ツイッターなどで芸術家のつぶやきが一気に出始めた。私も喚いているものだから、「文化庁と会いませんか」と手筈を整えて下さった人がいて、衆議院第二議員会館で文化庁の参事官さんと会えることになりました。権力には怖いイメージがあったけど、会って良かった。そこからまた一つ眼を開いた感じ。参事官は普通のいい人だったんです。ただ現場を知らない。滞りなくきちんと書類を書けて必要な所に持って行けるプロの人であって、文化庁だからと言っても文化のプロじゃない。絵描きさんに障害者がいるというという事も知らないし、年金生活者やネット環境のない人がいることは全く知らない。絵描きと言えばベレー帽被って、パイプ持って軽井沢に別荘でも持っている人だと思っているんじゃないかというイメージ。私がこんな狭い所で描いているというのを見せたい位。
演劇で言えば、日劇などでやっている人が演劇人で、ちっちゃな小屋でやっているような人は知らないという感じ。紫綬褒章でも貰うような人が役者だと思って、サントリーホールでやるような人を声楽家と思っているような感じでした。
私はカルチャースクールで先生をやっていますけど、コロナの時期になって、コロナだからこそ文化は大事だとすごく思いました。来てくれた生徒が「絵を描かないと死んじゃう」と言う。絵が好きだからではなく心の問題です。心の部分に絵が有り、音楽があり、芝居があるという私たちの生きて行く上での血と肉と食物が文化。実際的なツールの物以外にね。実際に文化庁の方と会って、会うことが大事だと思いました。会えるものなら菅総理にも会いたい。天皇陛下にも会ってみたい。会ったらきっと変わると思う。会うという事も文化。生きることが既に文化だし、楽しむことが文化だという、ポジティブな部分での理解度が日本人はまだ低いと思います。
戦争の清算も出来てないし、もっと言えば戦争した時点で止まっているという感じがしている。そうして現代に至っています。

数字にならない芸術
―今の世の中では、いかに社会に役に立つかという尺度が強くなっていますね。
私は絵が好きで描き始めたけど、大企業のように数字で出てくるものや結果論ではないものが文化芸術だと思う。むしろ結果に結びつかないものの方が多いと思う。数字にならないものの方が圧倒的。だから国の役人さんたちには一番厄介なのだと思います。データで生きてきた人には数字が全てで、それは確かに分かり易いですよね。
今回の文化芸術継続支援金もそうだけど、報告書の項目は全て数字。言葉で書くことは殆どない。だからいかに数字として言葉を彼らに伝えるかを考えながら書いていた。数字にも魂があって、役人さんたちに通じるのは数字の中に込められた秘密なんです。  
私が20代後半から30代半ばまで上野でやっていた会に、絵画クラブなどを持っている党派に関係ない複数の政治家が、自分の描いた絵を出品していました。自分が政治家をやって、なんで油絵を描いているかという事を考えている人がいました。あの当時の政治家の人は寄り添ってくれていたんです。分かろうという努力をするのではなく、自分が描いているから分かる。
今そういう人いるかな? 暇がないからという問題ではないでしょう。暇が無くてもご飯は食べる。 食事や歯磨きも文化。昔から政治家は割烹に行ったりしていたと思うけど、それだけじゃなかった。鳩山さんは合唱団でコーラスやったりしていた。そういうことを聞かなくなりましたね。
萩生田さんが号令かけて、文化・芸術の支援金を受ける人は増えていますが、一人一人に違う文化と芸術があります。それを分かった支援が必要だけど、今の論理はやはり数の論理。多数決で何でも決まって行くから、人数を投入すれば物事が解決すると思っている。人が少なくても解決することはあります。そういう中に画家や役者も含めて私たち芸術家はいるような気がするんです。それはサークルなどで教えている中で感じます。女子美に行っている子がうちにいるけど、メンタル面の学科が出来たというので、大学もそういう事を考える時代に来ているんだなと感じました。
絵が好きで描きに来ている人は、以前は皆私より年下でしたが、今は70代の方など私より年上の人が多くなりました。震災以後は超高齢化が一気に進んだ感じです。
私は3・11の前の年の1月に磐梯熱海に引っ越しました。それまでは八王子に居て、若い人たちの中にいましたが、福島に行ったら50年位前にタイムスリップした感じでした。
義理の父に言われて空き家をアトリエにしてのんびり暮らしていましたが、母の具合が悪くなり、介護の為に急遽3月3日に、新座に戻って来ました。その一週間後に3・11が来たんです。
その頃、新座には年配の方が多いと思いました。それから10年が経ち、今は磐梯熱海と変わらない位に高齢者が多い気がします。それはいろんな人が無意識に感じていることなのだと思う。
カルチャースクールのようなものは街のあちこちの公民館などに今はあるけど、私の若い頃はこんなにはありませんでした。逆に「御稽古事」は今はあまりない。若い人は月謝袋と袋に書いてあっても「今日の手数料です」と言います。私は今59なので来年還暦ですが、この年代の人は今一番いろいろ考えていると思う。

―ここまで経済的観念が染み付いてしまうと、それ以外はないように感じるところがありますね。
昭和40年に東京五輪があり、ビートルズが来て、まだ戦後の臭いがありました。昭和37年生まれの私の作品は日本の復興の象徴でもあって、それで3歳の私が入選したんだと思います。
当時いわさきちひろさんの家がある杉並の上井草に住んでいて、松本善明さんと私の父は仲が良かったんです。当時家の前が養鶏場で、毎朝必ず鶏と、卵を拾い集めている人が見えました。アスファルトはなく全部砂利道で、ダットサンがエンストするとみんな自然に出てきて押している時代でした。食用ガエルも近所に居て、夕飯に食べている人もいたし、近くには飯場があり、そこの子はいじめられていたし、出稼ぎで親がいなくて同じ服をずっと着ている子もいたし、下着が洋服のような子もいました。既製服がないので親が作るからばらつきがあったけど、皆が貧乏で、貧乏が一つの文化だった。
私の回りには戦後色がプンプンでした。親は会計士だけど作曲もやっていたので、「あかつきコーラス」という看護婦さんたちのコーラスの指導もやっていました。家の中にピアノやステレオがあったり、いわば中流家庭ですね。母はパタンナーという仕事をするデザイナーで、おばは、映画関係者で、祖母は長唄の師匠だったので、取材対象にし易かったのでしょう。私の記事が載っているこの週刊誌はこの時代をよく表していると思います。「危険!放射能ばらまく」と書いてあります。あれから何も変わっていないってことですね。父が大事に取っておいてくれたものですが、いいものを残してくれたと思います。「こんな時代があったんだよ」と、いろんな方に見て貰っているんです。
過去に捕らわれてはいけないけど、過去があるから今があると思います。今の日本ってうやむやにしたい、消したい部分があって、全部新しい方に持っていこうとしているようです。でも3.11だってコロナだって問題は沢山あるから、侃々諤々になっている。だからこそ、私は絵描きなので、決して政治家ではないから、自分たちに出来る表現をしていこうと思ってるんです。私は個展をやってるんですけど、会場に、ただ絵をポンと置いて、感じる人が感じてくれれば良いと思っているんでね。
大々的な事は日本アンデパンダン展という団体がやっています。最初にアンデパンダン展に出した時、面白いなあと思ったんですよね。いわゆる美術展とは全然違っていて。作品は素晴らしいものが並んでいます。きら星の様な画家達、今の日本美術会を作り上げられた方達の作品です。わあ、私こんなところに籍を置いているのか、なんて幸せなんだろうって思ったりする。そういう方達は、戦争って言うモノを、永井潔先生が特にそうですけど、たぶん思いっ切り見てきた人ですよね。戦後、レオナルド藤田さんの事なんかで揉めた話も永井先生の本を読むと出て来ますけども。そういう時代から、その後一気に高度成長でバブルが来ちゃって、ディスコで踊りまくる時代が来て。それもリアルタイムで私は見ていました。山一証券が倒産して、社長が泣くって言うのを生まれて始めて見て「社長って平気で人前で泣くんだ」と思いました。まああの後、色んな議員さんが平気で泣く様になっちゃいましたけど。
私ってスゴいしゃべる人なんですよ。だから授業中も絵の話しよりこんな話しばっかりしてるんです。授業が2時間あって1時間は、こういう話。その後絵を描いてるんで、それも私なりの関わり合い方です。こういう絵描きが、もしかして今少ないんだったら、多くなった方が良いようにも思います。昭和の時代は変な絵描きがいっぱい居ました。私なんか全然変じゃない、常識人でまともだと思ってるんです。政治家だってハマコーみたいに、国会のマイク握って「政治家はなんの為にあると思ってるんだ。未来の子どもたちの為だろう」って叫んでみろよ自民党って、そう思います。そういう人は今居ない。
だから私の中に含まれてる、色々な蓄積されたモノと関わる事で、元気づけられたりしてくれる人が居るんだったらソレはソレでいいと思って、仕事のコンセプトとしてやっています。

―絵を鑑賞するってどうすればいいのか、良く分からないんですけど。
私は思に油絵を描くんですけど、ファンの方から愛されてる、良く買っていただいてるのはもう圧倒的に水彩画が多いんです。色んなタイプの絵をいっぱい描いてます。絵本もね。絵を家に飾ると、絵って窓になるわけですよね。その窓から、希望を見出したいって言うのもあるじゃないですか。明るいでしょ、水彩の方が。だから圧倒的に買って下さるのは水彩画が多いわけです。油絵はもうどっちかって言うと展覧会用。 

3.11から絵が変わった
―絵を描く時に心がけている事ってあります?
3.11から絵が変わったんです。それまではホントに具象だったから、目に見えるモノを描いてたんですけど。今、妖精の森って言う絵本をお渡ししたんですけど、私の絵が先にあり、後から作家の方が物語を付けてくれました。見えないモノを、描く様になったんです。3.11でお身内を亡くされた方がいっぱいいましたよね。その後、風の電話って出来たじゃないですか、丘の上に。あの電話ボックスから電話をして亡くなった人としゃべる。そうすると、その人にはお父さんの声だったり、お子さんの声が聞こえるという。私、そういうのってあるのかもと思っています。
3.11の後皆見たって言うでしょ、幽霊を。お父さんが立ってた。座ってた。それから縁側に居たとか。私それは嘘じゃないと思っています。きっとこの世の中には、目に見えない何かかがあるし、見えてるモノだけでは出来てなんだと思う。あいだみつおさんの詩にもありますよね、大切なモノは見えないって。星の王子様、ムーミンもね。童話とか寓話とか物語の中に見えないモノ・事っていうのを書いてることがとても多いことに気付きました。
日本の政治家が、「お父さんが縁側に座ってる」って被災者が言った時に、こう胸を詰まらせたり、グッて来る人がどれぐらい居てくれるかなって思います。もしグッときたら政治が変わるんじゃないかと思う。例えば海の底って見えないじゃないですか。誰もまだ見た事がない。土の中ってどうなってるの。コアの部分まで見た人が居るかっていったら誰も見た事がない。じゃあ宇宙は。意外と私たち物理学的な事で言っても大抵のモノを実は見てないと思うんですよ。物理が100だとしたら0.01位しか見てないのに、見えてるモノだけを信じて生きてるんじゃないかなって思います。SNSだけを見て信じてる。YouTubeだけを見て信じてる。それ以外の部分ってどうなんだろうって思った時に、「あ、こういう部分に焦点を当てて描いて行ってみよう」と思う様になりました。だから今は「この世は決して見えてるモノだけで出来てはいないんだよ」っていうのをコンセプトにしています。それが色々な作品に繋がっているんです。

―今は共感する力が弱くなってるんじゃないかと思います。
そう思う。人間、感動して泣かなきゃダメですよ。老人ホームの話だけど、認知症がだんだん進行して行くと顔から表情がなくなるって言うでしょう。喜怒哀楽がスゴく大事。私は絵画教室で大事にしてるのは、どれだけ笑かせて帰らせようかということです。絵なんか上手くなくたって良いの。皆がチョットでも沢山笑ったり、私の絵を見てワーって言ってくれたり、もしくは心に動きが出来たら今日の授業O.K.なんですよ。やっぱり喜ばせたいんですよね。芸術家なんだけどチョット芸人さん的。笑わせたい、喜ばせたい、面白がらせたい。で、相手が元気になってくれる。みんな元気になる。感染するの、幸福っていうのは。だから元気がない人が居るとだんだん地域も元気がなくなってくると思うのね。元気にする力の一部に芸術家もいると思う。
母に聞くと、昔は映画観に行くって言うと着物を着て、おにぎり持って、もう一大事で家族みんなで行ってミカンを食べながら皆でワイワイいって、映画見ながら泣いて笑って。時には自分の気に入らない映画だとスクリーンに向かってミカン投げたりする人が居たって。ああいうのが、たぶんなくなってるんでしょうね。バーチャル・リアリティとは違うと思います。

―なんか変に清潔になってますね。
そうなんですよ。白黒で音なんか無くったって自分の頭ん中で妄想でバーチャル・リアリティしなさいよって思ういます。そしたら変わる。それこそ、学術会議で任用されなかった6人の方達はみんな人文系でしょ。ダメなんだよ、ああいう人達を去らせては。人文学っていうのは一番大事な世界だと思います。私の友達が妄想健康法って言うのをやっているんです。妄想して健康になる。「これ、志らべ良いよ」って言うけど、そう思います。世界中の人が妄想健康法になってくれたら良いなって思います。好きな時に好きなとこに行けますからね。宮沢賢治だってそうでしょ。妄想して銀河鉄道が見えて、あんな素晴らしい話しが出来たんだから。「共感する力」がこれからキーワードに成ってくる気がします。
政治家さん達も、絵画クラブとか作れば良いのにね。安倍さんの周りで呑んでるよりは絵を描いてる方が絶対違うと思います。それが嫌だったら鳩山さんみたいに歌えば良いんですよ。そっちの方に何で行かないんだろうなって思いますね。私もお酒好きですけど、それとは一寸違うんだよな。

―政治家がお酒を飲むっていうのは普通の人のお酒を飲むって言うのとは違う感じですよね。
そう。うちのアトリエはお酒O.K.なんですよ。だからみんなお酒飲みながら絵を描いてるんです。ボトルキープもしてます。つまみも出すんです。私が最初に居た洋画研究所がそうだったんです。昔だからサントリーのダルマか、角のどっちかなんだけれど、あれをキャップでチビってやりながら絵の稽古をしてるんです。それをたまたま引き継いでいるんだけど、絵を描きながらのお酒はイイですよ。呑めば呑む程、腕が上がってくる人も居ますしね。お酒の力があるから良い絵が描けてる人も居る。それはまた独特で良いかなと思います。自宅でやれてるからできるんですけど。テナントとかカルチャーセンターだと難しいかも。それもあって、自宅での稽古場が私は好きなんです。ココだと生徒さん達の雰囲気を見て、よし今日はこのまま飲み会やっちゃえとか、いけるじゃないですか。そういうのも、文化だから。

―僕らも「稽古が上手くいったから今日は呑もう」とか、そういうのがあります。
やっぱり今、心が育ってない感じがします。人間食べて飲んでるうちに大人に成って老けては行くんだけど、心の部分の成長に関しては、血も肉も骨も成っていないんでしょうね。なってる人も居ますけど少ない。昔の政治家さんに比べるとホントに子どもだよね、幼稚だよねっていう政治家居るでしょう。

―心に一寸ゆとりがないって言うか。
現代人は忙しいって言うけど、前の時代なんて洗濯機もないし炊飯器も無い。子供のオムツは布でしょ。もっと忙しいんです。核家族じゃないし。私が子供の時の住宅環境は、6畳と3畳の床べりの台所。風呂は銭湯、トイレは外。みんなで共同の井戸を使ってたらしいです。その6畳に、もうスゴいの。私が生まれるまでは母、父、祖母、叔母、父の姉夫婦と子供が2人居たみたいですよ。8人6畳に居たんですって。24で嫁に来ていきなりその暮らしですよ。昔はそれが当たり前だった。私が生まれて増築をしていって、そのうちに叔母夫婦が出ましたけど。だから核家族じゃなかったんです。どれだけ大変だっただろうって思う。うちの家族は朝10合、お昼10合、夜10合、1日30合食べていた。炊飯器は無い。食事後片付けて、みんなの洗濯物を干すのも母です。嫁がやるのが当たり前だったから。よっぽど昔の人の方が隙間無い様に思うけど、ちゃんと読書してたみたいです。新婦人にも入って。それで言ったら今、ゆとりが無いって言うのは一寸違う様な気もします。うちの母の世代を見てるとね。「水道は無かったの」って母に聞いたら、「貴女が生まれた頃には有ったけど、嫁に来た頃にはみんなで使う井戸だった」って言ってました。うちの母が来た時には、うちの地区に1つ屋外の共同トイレがあっって、それを3軒の家が使っていた。だから「自分の家にトイレがあるっていうのが夢の様だった」って。私が小学校に入る頃にわりにまともなお家になって、当時にしてはオシャレなお家だったみたいです。
だから、急に良くなったんですよ、日本って。ついこの間まではもう大変だったんだと思います。50数年前まではそんなだったんですよ。これは凄い事よ。日本って一気に遣り過ぎちゃったんだと思います。

―私の感覚でいうと、この30年位が凄く変化が激しかった様な気がします。
今、日本って、一気に来ちゃった反動がきてるんだと思う。この間横浜で展覧会をやっている時に、みなとみらいから反対の方向へ歩いて行ったら、県庁の古い洋館がドンってありました。何か良いなあって思ったんですよね。フランスのパリは凄く家賃が高いそうだけど、築200年の建物を残すために自分たちの家賃でそれを補填、保全してる感覚だって聞いた事があります。すごく意識レベルが高くって、自分たちの国にホントに誇りを持ってるし、自分達の文化を愛してるんだなって思いました。日本ってやたら愛国心愛国心って言うけど、古い建物を直ぐ壊して何が愛国心だって思う。

―ものの価値というのも分かり難くなってる。
すごくそう思う。それこそブルドーザーって言われた田中角栄さんが大改造でワーって、もう良いモノも悪いモノも、一気にザーッて更地にして、タヌキを追い出して多摩ニュータウンを建てて、自然を破壊した。都心には凄い勢いでビルが建って、摩天楼に成って。いかにも経済大国的には成ってるけど、表面上なっただけで、中を見たらスッカスカに劣化してる。これが反動の証明なんじゃないか思うんです。
イタリアには高いビルなんか1つもないですよ。街中が美術館みたいで、美しい彫刻を見せるが為の間接照明で、夜になったら真っ暗です。あんな歌舞伎町のようなギンギラギンなんか何もなくて。その中で、みんなの心の中にはちゃんと蓄積されて育ってます。アレを経済大国って言うんだと思う。心の豊かさが経済であって、表面だけ繕った物理的なモノが経済じゃないと思うのね。日本では見えてるモノしか信じられなくなってる。想像力の欠落した部分が凄くあるのかなって思うので、だから頑張ります。何か最後締めちゃいましたけど、そういう事を伝えていきたいって思ってます。
―ありがとうございました。

みんなで見に行きましょう!
第74回 日本アンデパンダン展 
3月18日(木)~29日(月)
国立新美術館 一階展示室 (六本木)
主催:日本美術会

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