2022年啄木祭碓田のぼる講演全文
2022年啄木祭の碓田のぼるさんの講演録を新日本歌人7月号に掲載しました。
ホームページにも以下掲載しました。
https://www.shinnihonkajin.com/infonews/takuboku2022/
新日本歌人へは一部短縮されてますので私の文字起こしした全文をここに掲げます。
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2022年啄木祭 碓田のぼる氏 講演「啄木と共に生きて」―あらためて知る啄木」―
2022年4月17日に開かれた啄木祭での碓田のぼる氏の講演録です。
はじめに
レジュメの標題は「啄木と共に生きて」となっていて自分の事ばかりだけを語るようになっていますが、出だしは自分のことを語りそのあと今考えている事を喋ります。
小学校時代から家の中に啄木歌集やエッセイがあってそれを読んでいました。啄木との出会いと云えば出会いかもしれません。しかし私が本格的に啄木という人はどういう人なんだろうという風に思ったのは、そのあとです。敗戦直後に私は小学校を卒業して国鉄の経営する機関車などを作ったり修繕したりする鉄道工場に就職しました。
敗戦が17歳のときで、その頃は、朝鮮や中国から連れられてきた労働者が祖国に帰国しましたので、労働力不足になり、機関車が止まるというので、国鉄当局が臨時的措置として国鉄の中から労働者を募集して、炭鉱に石炭掘りに行かせる措置を取りました。当時私の頭の中は軍国少年でしたが、戦争が終わった年の1945年12月から4か月ほど北海道に行った。朝鮮の人たちは強制連行で連れて来られたので、戦後自分らをいじめた職制を糾弾する集会などをやっていたようですが、その後誰も居なくなっていた。私が行った炭鉱は小さい炭鉱でした。炭鉱ではノルマがあって早く果たせば早く地上に上がれましたが、炭車が石炭でいっぱいにならないと地上に上がれないというシステムでした。私たちの入った宿舎は朝鮮の人たちが使っていた宿舎で汚かった。畳だけは新しかったが周りの壁などは真っ黒でひどいものだった。真ん中にストーブがあって八畳くらいの部屋に、私は一番小さかったので壁を見ながら寝る位置にいました。壁に朝鮮語の落書きが沢山あり、ある時に日本語の小さい文字を見つけました。そこには啄木の次の二首が書かれていたのです。
今日もまた胸に痛みあり。
死ぬならば、
ふるさとに行きて死なむと思ふ。
地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつゝ秋風を聴く
最初の歌は抒情的で「悲しき玩具」にあります。もう一首の「地図の上」の歌は抒情的でなく私には不思議だった。この二つの歌が結びつかなかったのです。私には二人の啄木のように見えました。二首目は「一握の砂」には掲載されておらず啄木が亡くなってから出た全集に初めて登場します。その朝鮮の人はきっと知識階級で啄木全集を読んでいたのだろうと思いました。
後に、小中学生向けの本を書いてくれと言うことで、出版社に旅館に閉じ込められて「二人の啄木」という本を書きましたが、これは炭鉱で出会った二つの歌、二人の啄木が一人になって行く事を書いたものです。この二人の啄木が一人の啄木になるというのが良く分かったのは夜学に行っている時に教えに来た、東大の研究生が私の疑問に答えてくれたからでした。それは啄木の若い時と成長した時の歌の違いだと教えてくれました。それで私は納得しました。そしてそれ以後、私にとっては一人の啄木となりました。
3、結局何をめざして来たかー啄木と社会主義―
啄木は何を目指して来たかが私の関心事項でした。いろんな説がありますが、社会主義の方向に接近して行った事は間違いないと思います。明治の社会主義運動には直接行動派と議会政策派の二つの大きな流れがあって、幸徳秋水の直接行動派は議会を否定していますが、片山潜の議会政策派は、議会を通して政策を実現して行こうとしていました。啄木の書いている文章を読んでいますと、啄木は片山潜の思想に近づいていると感じます。一番大きい例としては、幸徳秋水たちは議会を否定したが片山潜たちは、議会を通して政策を実現しようとしていました。
啄木は明治帝国議会に非常に関心を持っていたのです。行き着く先はどこだろうというのが私の大きな関心でした。啄木の思想の変遷はジグザグな感じがしますが、筋を通して生きてきた感じがするのです。日露戦争の頃の啄木は戦争好きの青年で、(自分でも当時を反省して好戦国民の一人だったなどと書いています)が、そういう明治のナショナリズムの影響をすごく浴びていました。
啄木の代わり目は一般的には直接行動派による「赤旗事件」であり、集会が警察に弾圧されて乱闘騒ぎになって多くの人が逮捕され、それがのちの「大逆事件」という大事件に繋がったと言われています。そこらあたりから啄木は変化していくと一般的には言われています。
私はその前に一つ大きい変わり目があると思います。啄木が渋民小学校の教員をやめて、放浪するように函館に渡り代用教員を少しやっていた時、函館の大火に会い、札幌に行き、小樽に行き、そして最後に釧路に行きます。小樽に行くまでは典型的な明治のナショナリストでした。明治41年の小樽での議会政策派の西川光次郎の社会主義講演会に行き、どうして困る人が増えるかがテーマの演説を聞き、生活に身近な話として感じ「俺がいつも考えているような事だ」と言っています。その演説会を境に啄木の社会主義理解は、マイナスからプラス方向に変化していきます。その意識が一番変わったのが釧路新聞に行って政治論説を書けるようになって書いたいくつかの重要な評論です。それまでは新聞記者をやっていましたが三面記事的な記事しか書かされませんでした。釧路に行って、実質的な編集長として、政治評論を書き始めます。
この頃、明治帝国議会で何が議論されていたかと言うと、日露戦争のあと日本はものすごい軍事予算案を議会に提案していました。それは膨大な軍事予算で陸海軍の予算を二倍にするような案でした。それは、当時すでにあった消費税に、新しい砂糖消費税を作ったりして、国民に重税が押し付けられたもので、このことが問題となっていました。
結局この予算は議会を通過しますが、啄木は「勝ったのは政府ではなく軍事費だ」と「予算通過と国民の覚悟」という論説を釧路新聞に書きました。小樽以前にはこの種の論説は無いので、これが啄木の社会主義理解がプラスの方に進みだした最初の転機ではないかと思います。小樽の社会主義演説会で啄木がどう変化して行ったかは研究者の間で殆ど語られていません。
啄木の思想・生活にかかわる大きな事件は、妻の家出事件です。東京に出てきて、家族を呼び寄せ本郷三丁目の「喜の床」の二階で暮らし始めますが、妻の節子さんと啄木の母親は仲が悪く、明治42年10月に家出事件が起こります、これは啄木に大きなショックを与えました。
小学校の恩師の助けなどを得て20日位で節子さんは帰って来る訳ですが、この家出事件は啄木に大きな思想的変化を与えました。家族に対する責任を感じると共に、妻が家出をするというのは何が原因なのかを一生懸命考える訳です。妻と母親の仲が悪いのも、社会の仕組みや貧困の問題につながるとか、そこから全ての問題は社会が問題であり、その背後にある国家というものに目を開きました。啄木はこの時期に「国家を発見した」と言われていますが、私もそうだと思います。
そのころからの評論は、迫力があって深いものになってきます。そして「食うべき詩」という詩論を書きますが、観念ではなく、事実を具体的に書くべきだと主張しています。日本の現代の事実を知る、現代の日本人こそが、そうした詩を書くべきだと書いています。
その翌年「大逆事件」が起きます。「大逆事件」について啄木は詳細に調べています。
死刑宣告者24名の内、恩赦を受けなかった12名が死刑になります。それは予定されていた行動だと当時から言われていました。在外の公館にはその情報があらかじめ届いていたと言われています。
明治政府は社会と名の付く本を全部発禁処分にしました。十年も前に出された本が発禁になり、「昆虫社会」の社会がけしからんと発禁処分になります。啄木はそんな中で日本の支配体制はどんな特色を持っているか、どういう風にひどい状況かを考えます。朝日新聞の校正係で働いていましたから情報が入ってくる訳です。そして明治44年に啄木は友人への手紙で「社会主義者宣言」をします。
「大逆事件」の被告の中心は、直接行動派でしたがこの事件以後、日本の社会主義運動は議会政策派が担わざるを得なくなります。啄木はそういう中で社会主義を生活中心の思想として掴むようになったと思います。
啄木は若い時は、明治のナショナリズムの中にいたと言われていますが、私はどうもそう考えていいのかと疑問を持つようになりました。それはどういうものかと言いますと、渋民小学校で教員を一年やっていて、生徒と一緒に校長排斥ストライキなどをやって教員をやめる訳ですが、辞める直前に書いた「林中書」という評論の中でこう書いています。
「日本は今、立憲国である。東洋唯一の立憲国である。」「此立憲国の何の隅に、真に立憲的な社会があるか?真に立憲的な行動が、幾度吾人の眼前に演ぜられたか?非立憲的な事実のみが跋扈して居る様な事はないか?」(中略)
「民衆は依然として封建の民の如く、官力と金力とを個人の自由と権利の上置いて居る無知な民衆ではないだろうか?」
これは憲法違反の安保法制などを考えると、今の事を言われているような気がします。これは啄木が社会主義思想に変わる前の事ですから、こういう考えがどうして、いつから持っていたのか、というのが私の問題意識です。啄木は詩人だから本来自由にあこがれるというのは分かりますがこれほどの考えはなぜ生まれたのでしょうか。立憲国という意識はどこからきたのでしょうか。
立憲というのは憲法を中心にした国家体制ですが、ヨーロッパなど先進国では皆憲法を持っている。一番大事なことは国民の権利が保障されているかという事です。日本では明治22年に大日本帝国憲法が天皇から与えられたという形で作られましたが、国民の権利を入れないと世界から認められないので、第二章に「臣民の権利と義務」の項目を入れるわけです。
憲法学者の樋口陽一さんは岩波新書の「自由と国家」の中で「4つの89」と言うことを書いています。1789年はフランス革命、英国の憲法「権利章典」が1689年、1989年は明治憲法、1989年はベルリンの壁の崩壊です。ここに明治憲法が入ったのは第二章の「臣民の権利・義務」があるからでしょう。岩波文庫の「人権宣言集」に紹介されていますが、この中には基本的人権である移転の自由・信書の秘密・言論著作の自由・請願権等があります。自由民権運動などが明治憲法に反映していると言われていますが、明治憲法は天皇支配の国家の枠の中の権利であり、基本的人権の保障ではありませんでした。
4、いま、気づいたことー啄木における「強権」
啄木が明治憲法に触れた文書は私の見るところ一つもありませんが立憲思想にこだわるのは明治憲法への批判を意識していたのではないでしょうか。「大逆事件」以降の啄木の発言は非常に慎重ですが、裏側に明治憲法下では権利が守られてないと言っているのではないでしょうか。明治憲法は国民の権利も入れながらそれと、絶対主義的天皇制という二項対立のイメージです。一方では国民の闘いを反映した国民の権利が含まれ、同時に皇国史観が貫いています。啄木は神武天皇からの歴史に基づく絶対主義的天皇制批判を直接言っていませんが、子ども騙しのような歴史を持っていると遠まわしに言っています。
5、言葉は時代を背負っている
啄木の歌を作る時の啄木の構えの特徴はどうでしょうか。時代の思想はその時代の言葉であらわされなければならないと言っています。
啄木は「大逆事件」以前の日記の中にこう書いています。
「時代の主張・感情・観念はその時代の言語によって表されなければならない」
また「食うべき詩」にはこう書いています。
(われわれの要求する詩は)「現在の日本に生き、生活し、現在の日本語を使い、現在の日本を了解しているところの日本人によって歌われなければならない。」
「大逆事件」の直前の新聞に発表した文章の中に我々歌人に向けてとも読める次のような言葉を書いています。われわれの表現と言葉についてです。
「深く強く痛切でなければならない」
もう一つ言葉の問題に関して紹介します。
一握の砂は「大逆事件」後(明治43年12月)に出されています。ロマンティックな歌と我々は理解していますが、作った方はどういう意識で作ったのでしょうか。
啄木は「大逆事件」直後に書いた「田園の思慕」という文章でこう書いています。
「私は私の思慕を捨てたくはない。益々深くしたい。さうしてそれは、今日にあっては、單に私の感情に於いてではなく、権利に於いてである。」
故郷を想う心は単に懐かしいということではなく権利の意識に於いてだと言っているのです。都会に出ざると得なかった労働者が故郷を思うのはそうさせられている力に対して物を言いたい、それが啄木の言う権利に於いてという意識ではないかと思うわけです。
言葉についての啄木のいろんな思いというのは、啄木の歌を理解する上でも大事です。例えば啄木の「悲しき玩具」にこういう歌があります。
ひと晩に咲かせてみむと、
梅の鉢を火に焙りしが、
咲かざりしかな
この歌を多くの人はあまりいい歌ではないと評しています。
この歌は明治44年の1月「大逆事件」で24名に死刑の判決のあった日に作られています。自分の言葉は時代を背負っていると啄木は言うわけですから、そのことを考えればこの歌の意味は分かりやすいでしょう。
新しき明日の来るを信ずといふ
自分の言葉に
嘘はなけれど――
この歌の傍線のためらいの解釈は嘆きの歌というのが多数派ですが、絶望や自虐の歌ではなく、それは次のように運動論の発展に繋がっていると思います。
明治45年1月3日の日記は、東京市電の6000人の労働者のストライキが勝利したことにふれたものです。そこには、「団結すれば勝つ・多数は力なり」と書いているわけです。これは啄木の労働者観の前進だと思います。「果てしなき議論ののち」の「墓碑銘」に一人の労働者が出てきますが、まだ労働者を階級的にはっきりとらえてはいない様な気がします。明治45年正月の東京市電のストで階級的な労働者観に到達しているのではないでしょうか。以上です。(文字起こし 大津留公彦)
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