「池波正太郎の思い出」を聞いた
日比谷公園の噴出です。
https://www.library.chiyoda.tokyo.jp/information/20230125-post_531/
「池波正太郎の思い出」を聞いた
日比谷図書文化館で菊池寛さんの孫の菊池夏樹さんのお話を聞いた。
今日は菊池寛の100歳の誕生日だという。
大正12年1月25日の生まれです。
(私の父は同年の10月25日生まれなので生きていれば100歳だったのだとあらためて思った)
体系だった話ではないので箇条書きで記録を残します。
・池波は浅草7丁目の言問橋の近くで生まれた。
・菊池家の祖先は藤原鎌足まで遡る。
・菊池家の祖先は太宰府総監だった。
・菊池家は平氏、源氏、北条氏に仕えた。
・熊本の菊池城の城主だった。
・西郷隆盛は一時期菊池を名乗った。
・菊池寛は「うちは海賊の血だよ」と言った。
・菊池寛は明治大から東大に行った。
・菊池寛は東大では芥川龍之介と久米正雄と同じクラスだった。
・先生の最初の言葉が「文春は菊池という刺客を送ってきたか」だった。
・停止していた鬼平犯科帳の再開の条件が挿絵は自分(池波)が書くことと2ヶ月で一作を書くことだった。
・オール讀物で5年間鬼平の担当をした。
・奥さんの豊子さんと自分も一緒にフランスに行った。
・長時間の飛行機旅行の末着いたホテルの部屋が一番奥の遠い部屋だったので非常に怒った。
・「菊池の顔を見ると飯が不味くなる」と言われて10日間口をきいて貰えなかった。
・ホテルの窓から見えるマロニエで首を吊ろうかと思った。
・その後英国で他の作家と会った時に買ったハロッズのフォートナムメイスンの土産を持って行ったが個展の日で会えなかった。
・毎年送っている雷避けを出張で会えないがと嘘をつき送ったら、会ってくれて謝罪させて貰った。
・その数ヶ月後に入院して入退院を繰り返した。
・1990年の5月3日に見舞いに行った時に目を開けて頷いてくれたように見えた。
・休憩室にいる時に豊子さんから今亡くなりましたと言われた。
思いがけず歴史的な話を聞く機会を提供頂いた日比谷図書文化館に感謝申し上げます。
参考
https://ja.wikipedia.org/wiki/池波正太郎
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