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2023年9月 5日 (火)

現代に息づく啄木(長野晃さんの論考から)

長野晃さんの「2016年の記憶 評論ほかから」石川啄木に関する部分を掲載します。

啄木の魅力にに関する各氏の発言の紹介とまとめに見るべきものがあります。

啄木全集第八巻(評論)にある戦後の各氏の評論の特集の現代版のエッセンスがここにあるといえるでしょう。

望むらくはエッセンスではない新しい令和の啄木全集第九巻(評論)です。

きっとそれは今を生きる者と後を継ぐ啄木愛好家の仕事でしょう。

以下の通り紹介します。

ーー

〇現代に息づく啄木

2016年10月22日名古屋市日本福祉大にて新日本歌人協会東海近県集会で
の講演に追加修正
○目次
(私の啄木愛唱歌). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 4
(いまなぜ啄木か). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 4
(啄木は国民歌人). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 4
(啄木は現代短歌を切り開いた). . . . . . . . . . . . . . 5
(現代短歌は啄木の継承
―田中礼氏の論考から). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 6
(文芸評論家、歌人たちは啄木を
どう評価しているか). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 7
〇加藤周一. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . 7
○山田あき(歌人、坪野哲久の妻). . . . . . . . . . . . 8
○折口信夫=釈超空の啄木論. . . . . . . . . . . . . . . . . . . 9
○茂吉による啄木評の進化
―久保田正文氏の調査から. . . . . . . . . . . . . . . . . . .
11
○近藤芳美の啄木論について. . . . . . . . . . . . . . . . . . .
11
○田中礼氏の所論
―渡辺順三の啄木論ほか―. . . . . . . . . . . . . . . . . . .
12
○水野昌雄氏の論考からー
啄木の「感傷」 「弱さ」についてほか. . . . . . .
16
○碓田のぼる著『石川啄木と「大逆事件」 』
(1990年新日本出版)より. . . . . . . . . . . . . .
17
(民主的短歌運動は啄木短歌の位置づけを一
ないか)
層明確にすることが求められているのでは
. . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
19
(民主的短歌運動が、遅れを取ってはならな
い). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
20
(ドナルド・キーン氏啄木を語る). . . . . . . . . . .
21
(おわりに). . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . . .
23
(啄木の略歴―思想と文学の探求の経過). . . .
24
4
(私の啄木愛唱歌)
本題に入る前に私にも皆さんにも気持ちの準備として、
①東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたは
まずは私の好きな啄木の短歌の一部を申し上げます。
むる
②やはらかに柳あをめる/北上の岸辺目に見ゆ/泣けと
ごとくに
③函館の青柳町こそかなしけれ/友の恋歌/矢ぐるまの

④しらしらと氷かがやき/千鳥なく/釧路の海の冬の月
かな
⑤たはむれに母を背負ひて/そのあまり軽きに泣きて/
三歩あゆまず
⑥ふるさとの訛りなつかし/停車場の人ごみの中に/そ
を聴きにゆく
⑦はたらけど/はたらけど猶わが生活楽にならざリ/ぢ
などですが、近代現代の他の有名歌人とは比べ物にな
っと手を見る
いると思います。
らぬ数の歌が今も会場の皆さんを含め人々に愛唱されて
(今なぜ啄木か)
一昨年4月、私は柏崎市にある、日本文学研究者ドナ
カルチャーショックを受けました。
が「啄木は現代人、子規は近代人」と述べていることに
ルド・キーン文学記念館を訪れました。そこでキーン氏
今年2016年は、 啄木生誕130年にあたりますが。
○戦前旧制中学校国語教科書に採用された短歌の数
位(注①)
1.教科書に採用された短歌では、戦前戦後を通じ第一
(啄木は国民歌人)
その一端を報告させていただきます。
え、 啄木の現代的意義を中心に考えてきました。 今日は、
とは短歌愛好者にとって避けることの出来ない課題と考
れています。この国民歌人啄木をより深く知り、学ぶこ
られた歌人であり、その作品は最も多くの短歌が愛唱さ
啄木亡きあと百年間において、啄木は国民の間で最も知
白秋(133回)⑧長塚節(114回)
木信綱(141回)⑥正岡子規(140回)⑦北原
斉藤茂吉 (176回) ④島木赤彦 (143回) ⑤佐々
①石川啄木(295回)②若山牧水(204回)③
5
そのうち啄木の掲載歌では、一番多いのが、
そを聴きにゆく
ふるさとの訛りなつかし/停車場の人ごみの中に/
二番目に多いのが、
/三歩歩まず
たはむれに母を背負ひて/そのあまり軽きに泣きて
○現代の国語教科書における短歌の採用数
①石川啄木②斉藤茂吉③与謝野晶子④北原白
秋⑤若山牧水
そのうち、啄木短歌の掲載順位は、
①不来方のお城の草に寝ころびて/空に吸はれし/十五
の心
②友がみなわれよりえらく見ゆる日よ/花を買ひ来て/
以上のような事実は、約100年の間、啄木の短歌が
妻としたしむ
『現代短歌』三月号が「よみがえる啄木
みたいと思います。
2.啄木が今どのように論じられつつあるのか、考えて
もっとも国民の間で愛誦されてきたことを示しています。
石川啄木生誕
的にヘタ」 「弱さがある」 など、専門歌人が啄木をあまり
人が啄木に親近感を抱いています。 「わかりやすいが技術
一三〇年」を特集しています(以下「特集」 ) 。多くの歌
ています。
という点において、啄木の歌は群を抜いている」と述べ
がれている。一般の人に親しまれ、人口に膾炙している
「特集」で松村正直は「その歌は今も多くの人に読み継
っています。
評価しなかったこれまでの論調がほとんど見られなくな
そのひとりである小池光は「特集」のインタビューで
多くの歌人が啄木についてのべています。
(啄木は現代短歌を切り開いた)
ことを語っています。
のはじっと手を見るやつですか」と言ったのに感激した
て「短歌の集まりに行く」と言うと運転手が「短歌って
るのは驚きですよね。 」 と述べ、 あるときタクシーに乗っ
「啄木の歌を読むと違和感ないんだよね。現代に直結す
また小池光は述べています。 「短歌とは何か、 と問うた
代短歌の原型をつくってみせたのは啄木じゃないかと思
心に刻まれて離れない言葉の力。そういう歌の原型、近
ポピュラリティーというか、 愛唱性。 いったん聞いたら、
若山牧水でもなくて、石川啄木なんだよね。それだけの
です。そういう時に出てくるフレーズは、斉藤茂吉でも
ときに『じっと手を見ることだ』と言うのはけだし名言
6
屋文明が言うのを聞き、嬉しかった。 」と述べています。
って、 何度か、 『啄木から入った者は歌が伸びるよ』 と土
「特集」で吉村睦人は「アララギの歌会に出るようにな
う」
戦後、 文明は 「短歌の現在および将来に就いて」 で 「生
させます。
詩ということである。 」 という詩論につながることを考え
持をもって歌う詩ということである。我々に『必要』な
て歌う詩ということである。実人生と何らの間隔なき心
ふべき詩』とは、謂う心は、両足を地面にくっ付けてい
語ったが、 啄木が 『弓町よりー食ふべき詩』 において 「 『食
じ生活の基盤に立つ勤労者同士の叫びの交換である」と
活即文学である」 「短歌といふものは同じ立場に立ち、 同
川野里子は『歌壇』誌三月号「短歌時評」で「焦燥、
った。 」と注目すべきことを述べています。
前線開架宣言』 (左右社) を読みながらまずそのことを思
その影響が感じられるのだ。 若手歌人のアンソロジー 『桜
ま今日へ引き継がれたのかと思えるほど、昨今の作品に
くほど現代的だ。そして啄木の切り開いた水脈はそのま
ィブな悲哀の表情は多様で機微に富んでいてしばしば驚
彼なしには切り開けなかった抒情がある。総じてネガテ
ドーボクシング、 などなど。 啄木には、 彼以前にはなく、
怒り、虚無感、自己憐憫、自虐、見えないものとのシャ
(現代短歌は啄木の継承―田中礼氏の論考から)
田中礼氏 (注②) は、 著書 『啄木とその系譜』 の中で、
可能にするように思われるのである。 」
する現代歌人が、啄木継承という一点で結びつくことを
「 『一握の砂』からの継承は、 (略)さまざまな系列に属
る短歌の方向性について、次の提起が行われています。
ろう」と、指摘しつつ、現在の危険な情勢のもとにおけ
合うことの必要がますます大きくなっているといえるだ
き出すおそれもないわけではない。凝視する啄木を語り
に多くの人々が、突如として以前と同じ危険な方向に歩
意識の上に重くのしかかっている。閉塞のいらだちゆえ
閉塞の現状」は、形は違うものの、再び私たちの社会と
「残念ながら戦後56年を経て、啄木が提示した「時代
次のように論じています。
戦後直ぐ、昭和22年に土屋文明が「短歌の現在およ
いると考えられます。
多くは、啄木や文明が言うところの短歌の基調に立って
いても、作者が意識するとしないとにかかわらず短歌の
ってもおかしくないのではと思います。そして今日にお
述べていることは、まさに啄木短歌を継承するものとい
同じ生活基盤に立つ勤労者の叫びを交わす声」と端的に
び将来について」 ( 『新短歌入門』 )において、 「 (短歌は)
7
まさに啄木が『一握の砂』で前近代性と決別し、まっ
は、現代短歌の礎を築いたといってもよいと思います。
因の一つであると考えれば『一握の砂』を著わした啄木
たく新しく創始した短歌のあり方こそ現代短歌興隆の要
そして現在、多くの著名な歌人たちが、戦争法に反対
(文芸評論家、 歌人たちは啄木をどう評価しているか)
継承されている証ではないかと考えます。
が歌壇に多く歌われているという現状こそ、啄木短歌が
し、9条を守れという立場を公然と表明し、そうした歌
啄木(短歌)については死後百年、文学作家の中でも
いて、多くの歌人、文学者、文
て、私たちはもっと知らなければと思います。啄木につ
ありますが、 (研究書だけでも千冊を超える) 啄木につい
っとも注目される一人であり、おのずから多くの議論が
芸評論家などがさまざま
〇加藤周一
に論じてきました。その一部を紹介します。
当代随一と言われる文芸評論家の加藤周一は名著『日
本文学史序説下』のなかで次のように述べています。
「日露戦争後10月革命前、1910年前後の時代の特
川啄木(1885
徴を、鋭く体現していたのは、詩人ジャーナリスト、石
ママ( ~1912)である。 」)
うに、 「A
イツ宗教哲学史考』において鋭く偶像破壊的であったよ
の少年少女に愛唱される。また他方では、ハイネが『ド
「歌の本」を書いた。その青春の恋の歌は、今なお日本
「若くて死んだ啄木は、ハイネのように、一方では彼の
の態度―を、典型的に代表していたのである。 」
いわゆる「内訌的」傾向と時代の状況に対する「宣戦」
は、脱落者であるどころか、同時代の青年の2面―彼の
的活動からの脱落者であったにすぎない。しかるに啄木
時代の知識人を代表していたのではなく、その時代の知
「いわゆる「自然主義」 (注③)の小説家たちは、彼らの
LETTERFROMPRISON」 に
性とを、もっとも正確に証言していたのである」
島国の中での青春のおかれた現実と彼らにとっての現実
逆者の側に立っていた。 (略) 啄木こそは、 今世紀の初め、
おいて強大な権力の側にではなく、その権力に対する反
「すなわち我々の理想はもはや「善」や「美」に対す
そこに残るただ一つの真実――「必要」!
る空想であるわけはない。いっさいの空想を峻拒して、
これじつに
に我々自身にとっての「明日」の必要を発見しなければ
最も厳密に、大胆に、自由に「今日」を研究して、そこ
我々が未来に向って求むべきいっさいである。我々は今
8
○山田あき(歌人、坪野哲久の妻)
ならぬ。必要は最も確実なる理想である。 」
山田あきは『明治短歌史近代短歌史第1巻』 (注④)
「第五章石川啄木の短歌革新の意義」の中で「啄木の
一生は探求の連続であった」とし、
「1908年7月26日の日記(筆者注・・・啄木が
えに悩まされています。 (略)
ょうか)を見ると、この日記の前にも、死にまつわる考
才主義」 (注⑤) が挫折、 崩壊を始めた時期にあたるでし
ざしたが、ことごとく失敗し、それまで約5年間の「天
北海道より4度目にして最後の東京へ行き、小説家をめ
窮乏の暗さ惨めさにやりきれなくなって、気分を日記
不真面目なところがある』と述べています。
は生まれてから今が一番真面目な時だ。然し今でもまだ
総て疑問だ。深い深い疑問だ。人生は痛切な事実だ。予
くるのを覚えます。 『自己の価値、文学の価値、それらが
れなるするどさを持つ明治青年の典型がうかびあがって
しています。 (略) 感性と知性の両面において、たぐいま
られます。意識家啄木と刹那主義者啄木とが交互に出没
に書き刻むことによってまぎらしていた傾きが多分にみ
小説を書いて身を立てようとした啄木が、いまや自己
立っての思索過程であると思います。
ようとする(略)これはまぎれもなく自然主義の視点に
をも文学をもまたこの人生をも暗い失望の中から凝視し
啄木はこの痛烈な骨もかむような道程を通過しながら、
7P)
大きな誤りだと考えます。 」 ( 『明治短歌史』 236~23
的な社会主義詩人であるかのように規定づけることは、
味では、彼はたしかに革命的な詩人でした。それを典型
のことです。啄木の一生が探求の連続であったという意
が話しかけてくるのです。啄木を理解するのはそれから
ろから、啄木のいきいきとした、まことの人間らしい顔
はないでしょう。そのような既成観念を消し去ったとこ
し出して論をすすめるやりかたくらい、うとましいもの
「 『一握の砂』 から、 浪漫主義や自然主義や社会主義を押
験からまなびとったと見られます。 」
ます。頭で考えるとともに、より多くの彼の実生活の体
もう一度高い、反自然主義の思索へとのぼりつめてゆき
そして次のようにも言っています。
人間生命の愛惜であり、ざっくばらんなその告白です。
この3点にしぼられると考えます。つらぬいているのは
をもる(筆者注・リアリズム) 、時代感覚を必然とする、
と思います。その内容において生活を重視する、現実感
「啄木の短歌革新の意味を概括すると次のようになるか
9
超空は 「啄木からでて」 (折口信夫全集代二五巻
近現代における最高峰にある歌人の一人ともいわれる釈
○折口信夫=釈超空の啄木論
義へと移行するようになります。 」 (同241~242P)
木は文学に批評を求め、意識化を求め、やがては社会主
近代人としての意識重視の問題がここにみられます。啄
中公文
ます。
庫)において、啄木歌について、つぎのように語ってい
「盛岡の中学校のバルコンの手すりにも一度我を寄ら
しめ
『一握の砂』の序文を朝日新聞の社会部長であった藪
年者に訳るものは年長者に同調せられぬことが多かった。
迄の文学は年寄りに訳るものは幼年者にはわからず、幼
るものがある、 と言ふようなことが書いてある。 (略) 今
しかし、それにも拘らずこの歌を見ると、何か驚かされ
私とは年が違うので彼の感じるところは私には訳らない。
野椋十(渋川玄耳氏)が書いているがその中に、啄木と
後になって想いだすと恥ずかしくて、再びしたくない
思い出もあり
よごれたる足袋はくときの気味わるき想いに似たる
と思ふ。自分で自分がしたことを恥じる。それは古い足
ってゐてよく訳る歌をよんだ。 (略)
ふ文学的要素には欠けていたが、もっと大事なものをも
高いところに上げることになります。啄木は昔の人のい
のないやうなことを反省するのは、其れだけ人間を一段
ければならないと思ってゐたのです。今迄反省したこと
いう考え方はしません。昔の人は、文学は必ず美しくな
は歌ではないと考えます。ところが、今の歌では、さう
学的であるか否かについては、昔風の人なら、こんなの
んでいることがよく胸に応える。 (略) これを読んで、 文
がなければならぬ、子どもにも、大人にも、この歌のよ
しらぞっとする様なのを歌に言っています。人間は反省
袋を履くようになんとなく冷たい指にしみている、何か
啄木は昔、新体詩を作ってゐまして、又それがうまか
(略)人生を反省する力がある。思いがけない所から、
ありません。 啄木は、 皆に共通な感情を歌にしたのです。
我々の人生には、笑ってすませることばかりあるのでは
てゐるが、 その中になんとも言えない厳粛感がでて来た。
間に真面目な歌をつくる様になった。自分の経歴を笑っ
のをこしらえた。 (略) 啄木も、そう言ふ歌を作っている
きあがりました。又、彼はおもしろい俳諧歌などいふも
を続けて短時日に大変苦労をした。その為人間が早くで
かった。 (略) しかし、その後北海道まで転々と流浪の旅
った。うまい筈で、先輩の作風を巧みに真似たものが多
10
果がなかった為なのです。
います。今迄の人の文学が遊戯的であったのは、この効
効能であるが、それがなければ、文学は遊戯であると思
われわれの生活の真の姿が示されて来る。それは文学の
この頃になると、 啄木には嘘もかけねもなく如何にも、
はありがたきかな
ふるさとの山に向かひて言うことなしふるさとの山
文学と違わない純な人の心を動かす様になりました。
さ」です。啄木はだんだん、歌は短いものだが、他の大
「質」がよいからであります。其れが文学の持つ「正し
自然に襟を正す様な気持ちになる。これは啄木の歌の
切にうたっている。 悲しいか嬉しいかは歌って居ないが、
す者は、啄木ならずとも、この歌は皆の共通の感じを適
せられて来ました。この歌をよむと、岩手山の麓に暮ら
その心の底にある厳粛感がやさしさに充ちた調子で表現
私はこれを読んで、啄木ははじめて完成に達したと考
高き山の頂に登り何かなし帽子を振りて下りきしかな
う思ってゐるものが、人には重要なものであることが
ある。歌の内容は、日常の普通にあるものであるが、そ
明してくれと言はれるとちょっと困る。何か良いものが
んがえられました。この歌は単純であり、その良さを説
です。私共の若い頃は、こんな歌は意味のないものとか
えました。 (略) 昔はこの様な歌を作るものはなかったの
説明してもらふ事である」
ゐます。その歌を見る事は、啄木を通じて諸君の生活を
「幸いに諸君達は目前に、立派な先輩石川啄木を持って
と言う問題になる」
「如何にすれば我々のつかんだ事が、適切に表されるか
ことにしてゐたのです。 」
「啄木は、人間や今の世に関係のないものはつくらない
は、色々な歌を歌ってゐます。 」
苦しんでゐるうちに、知らず知らずのうちに達した啄木
これはある部分まで、 彼啄木の力に由るものであります。
亡くなった明治四五年前後から、 歌は変化して来ました。
り、世の中の平凡なことを歌ふ様になりました。啄木が
れしめたのです。これより人々は激情的なことを作るよ
材に採って、其れをこなして、却って我々の気持ちに触
歌の題材に取らなかった。しかし啄木は平凡なものを題
往々にしてあります。昔の文学はそういう平凡な事は、
超空の啄木についてのこの論考を呼んで、私は啄木が
いました。
ったことをも指摘しており、きわめて的確な啄木論と思
なかったこと、啄木の亡くなった頃から歌に変化がおこ
到達した短歌の本質を良くみており、それは昔の歌には
11
○茂吉による啄木評―久保田正文氏の調査から
茂吉は、1882年、啄木より4年早く生まれました
て述べた18の文章を引用しています。
かにした。 」 としています。 久保田氏は茂吉が啄木につい
全体として尊敬すべき歌人〉であることを実証的に明ら
価は時とともに発展している」 とし、 「 (茂吉は) 〈啄木は
「茂吉の啄木理解に関する調査」よれば「茂吉の啄木評
3年でした。久保田正文著『近代短歌の構造』における
が、第一歌集『赤光』の発行は、啄木没後1年の191
昭和10年、 『明治大正和歌史』 ( 『斉藤茂吉全集』 第2
・むやむやと口の中にてたうとげの事を呟く乞食もあり
1巻)において、茂吉は述べています。

・人がみな同じ方向に向いて行くそれを横より見ている

・月に30円もあれば田舎にては楽に暮らせるとひょっ
など5首を引き、 「この明快な新しい感傷主義の歌は、
と思える
があるからである。 」と述べています。
ともなっている。これ啄木の歌の新鮮と大衆的のところ
いつも読者の絶ゆることのなく、時には選挙の演説資料
久保田正文氏は前記「茂吉の啄木理解に関する調査」
○近藤芳美の啄木論について
する指摘は、重要な問題提起ではないかと考えます。
者・総合者の出現を、歴史的に求めいざなっている」と
理解の成果のうえに、啄木よりすぐれてまったき止揚
しうる。と同時に他の反面は、一人の茂吉の啄木研究と
可能性を見抜いたことは、反面の正しさを実証的に主張
「芥川龍之介が、茂吉に啄木の継承者・発展者としても
の最期に、
近藤芳美は 『石川啄木における文学と生』 (1964年
見方との共通性を感じます。
いといえば変ですが、芳美の見解は後述する渡辺順三の
垂水書房)を上梓、啄木について論評しています。面白
芳美いわく「短歌によってあとづけられていくはずの
5年5月「新日本文学」 )
もかかわらず短歌史の上の啄木を高く評価する」 (昭和2
らなかった。これだけのことを結論とする。だがそれに
造型の力強さが足らなかった。作品として結晶の力が足
的なものがなかった。 そのために彼の作品には根本的に、
残さなかった。彼には短歌に己の生き方を語らせる意志
自己成長を心弱いときだけのつぶやきの記録としてしか
近藤芳美の啄木に対する積極的評価としては、 「啄木は
12
(昭和30年3月、 「文芸」増刊「石川啄木読本」 )
とにかく一つの発端として我々に残してくれたことだ」
とを、啄木自身の仕事は不十分であったかしれないが、
ったあとの伝統詩形が充分に使いものになる、というこ
ものを考え表現する方法として、この粉飾をとってしま
ぎとってくれたことだ。今一つは、人間の生き方と言う
古い詩形にまつわる、こびりついた古い詩学的粉飾をは
二つの仕事を私たちの短歌史の中に残した。短歌という
結局、 順三も芳美も、 啄木を短歌史上高く評価しつつ、
○田中礼氏の所論ー渡辺順三の啄木論ほかー
啄木評価には目を瞠らせるものがあることは後述します。
影響を与えたと考えられます。ただし現在の歌人たちの
評価があり、このことが一般歌壇の啄木評価にも大きな
芳美にも後述する順三と似た傾向の啄木の問題点の指摘、
てはいろいろ欠点が指摘されるとされています。 思うに、
力が足らなかった」と論じています。つまり、短歌とし
「根本的に造形の力が足らなかった」 「作品として結晶の
の呟き」 「己の生活を語らせる意志的なものがなかった」
であり、 「短歌の限界がある」とし、芳美は「心弱いとき
短歌の内容については、順三は「愚痴」 「追憶」 「嘆息」
田中氏は、前掲『啄木とその系譜』において次のよう
ある)について次のまとめを行っている。
などでその後のプロレタリア短歌につながるとする説も
啄木を継承したとされる、生活を中心に歌った土岐善麿
る近代短歌史』 (昭7) において、 啄木と生活派 (注・ ・・
「渡辺順三は、その画期的な著作『史的唯物論より観た
に論じています。
啄木は短歌において 「短歌的境地」 を勇敢に蹂躙した。
素直に歌った。しかし、彼の歌
彼は最も平易な日常的な言葉で、日常瑣末な生活断片を
に現れた生活は、きわめ
極的な態度で臨んでいたようだ。 」
ここに短歌の限界がある。彼自身も短歌に対しては、消
て消極的な生活愚痴か、単なる追憶か、嘆息であって、
渡辺順三のこの啄木評価について、田中氏は次のよう
以下それについて考えて見ると、
壇の啄木評価に、 生活派の系列も大きく影響されていた。
の欠点をそのまま反映していた。というよりは、一般歌
「まとめ」は生活派の系列が啄木を継承しようとした時
「順三の『史的唯物論より観たる近代短歌史』における
に述べています。
第一に、啄木はたしかに平易な言葉で、日常瑣末な生
ろであった。 (略) 啄木がすでに自己のものにしていたお
ていることは、当代一流の技巧家北原白秋も認めるとこ
活断面をうたったが、その短歌に高度な技巧が秘められ
13
の平易さの底にある面白さをみることはできない。
されたものであった。このことをみないでは、啄木の歌
びただしい語彙を切り捨てるエネルギーによって生み出
第二に、 「愚痴」 「追憶」 「嘆息」は、啄木の歌に多く表
である。回想歌は能動的な構築の産物なのだ。
歌よりも高いリアリティーを獲得していることが多いの
といっても啄木の場合、回想歌のほうが現場でつくった
を本当に継承することはできないのではないか。 「追憶」
得たのであり、この関係を具体的につかまなければ啄木
までの人間の真実を表しきれない短歌の限界)を突破し
れをこえた啄木は、 「短歌的の限界」 (筆者注・・・それ
考えられない。とことん短歌的境地にのめりこんで、そ
キラリと光る知的な凝視をぬきにしては、啄木の魅力は
れるが、 一見弱弱しい感傷の底にあるたしかな生活実感、
第三に、 (略)啄木が歌を「悲しき玩具」といったとし
機微が、奥深いところでとらえられていた。そのことが
他の専門歌人のとらえつくさなかった人生の真実、心の
平易であったからではない。なによりも啄木の歌には、
汎な人々に愛好されるようになったのは、単にその歌が
木の短歌が専門歌人の評価の枠を大きくうち破って、広
ルギーを注ぎこんでいたとみることができる。また、啄
とはできない。むしろ彼は、作歌に積極的に大きなエネ
ても、短歌に「消極的な態度で臨んでいた」と考えるこ
はできない。 」 (同書210~212頁)
では、長い時代にわたって多くの人々を感動させること
広い愛好者を生み出したのである。単なるわかりやすさ
「しかしながら、順三が、 「其の筋」から著書のいく
~213頁)
でも、珍しい、特筆すべきことであろう。 」 (同書212
近代短歌史はもちろん、万葉以来の日本の和歌史のなか
ば検挙されることにもなるのであり。このようなことは
はこの立場を守ってゆらぐことはない。そのためしばし
史のなかで提起されたのである。 (略)そして以後、 順三
ての科学的、組織的考察』は、このときはっきりと短歌
ねばなるまい。啄木のいう『次の時代というものに就い
とは、近代短歌史のなかでも大切なことであったといわ
ら継承すべきものとして社会主義思想を基本に据えたこ
つかの部分の削除を強要されるきびしい時代に、啄木か
啄木論としては横道にそれるが、田中氏は「順三の作
(同書264頁)
もちこんだ多様性を、順三は必ずしも継承していない」
勇たち)のつくりあげたものを多面的に吸収して作品に
否定できない。 啄木が明星グループ (鉄幹・晶子・白秋・
「啄木に比べて順三の作品が、やや平板的であることは
品」 について、 前掲書のなかで次のようにも記している。
田中氏のこの評論は、現在のわれわれの作歌姿勢が、
14
を広く学ぶべきことを述べていると考えます。
けでなく、 近現代の歌人たちの作品 (歌論や鑑賞を含め)
啄木をはじめ民主的短歌運動に属する歌人たちの作品だ
こうした、啄木の「弱点」とも言える指摘にかかわっ
て、田中氏は既に『論考石川啄木』 (1978年・昭和
53年洋洋社)において、次のように述べています。
る必要があるように思われるのである」 (196頁)
めて啄木の作品が、あるがままの多彩な姿で見なおされ
つ。 (略) 現代短歌が自らの分化を克服するためには、 改
を描いているということで、現代短歌につながる面を持
しかも、市井の風物と、解体しようとする自我との交錯
歌会が持っていた広さを、ほぼ全面的に反映しており、
界であると思われる。それは、一時期の明星派や観潮楼
「啄木の歌の世界は、一般に考えられているより広い世
続いて、田中氏は前掲書「第4章みやこ5解体と
ことこそ、啄木評価の要であるが、このことを基本的に
放への道を求める啄木とのかかわりを統一的にとらえる
い、解体されようとする自我を描く啄木と、きびしく解
を追及する啄木の姿を見つめる必要があろう。目的を失
て私たちは、現代性ということの底に、 「社会主義問題」
「以上のように啄木短歌の現代性をとらえた上で、改め
定的に論じています。
解放」において、窪川鶴次郎の啄木評価を次のように肯
頁)
あったことが明らかにされているのである」 (同197
自己解放への希求が、時代閉塞の現状と不可分のもので
我の我を閉塞し了(おわ)り得べきや」という啄木の、
先駆的に述べられており、 「我既に在り、 如何にして此の
った解放のへの理念が、 (鶴次郎の)啄木分析を通して、
「日本の民主勢力が苦しい体験のなかから身につけてい
197頁)
やりとげたのが窪川鶴次郎であった。 (略) 」 (同196~
さらに田中氏は 「論考」 の 「第5章評価」 において、
している。 (略) 民主主義と団結の思想こそが晩年の啄木
啄木の目が、社会と日本の未来に注がれていたことを示
さに1970年代の日本国民に与える言葉のようであり、
いない』 (明45・1・3日記に)という言葉などは、ま
ド・ニッポンの眼からは無論危険窮まる事と見えるに違
う事、多数は力なりといふ事を知って来るのは、オオル
なかった』 と書いている。 『国民が、 団結すれば勝つとい
イキの中に来たという事は私の興味を惹かないでは行か
「啄木は四十五年一月二日には『明治四十五年がストラ
るのは当たり前のことである」 (同222頁)
「人間、体が弱ってくると気も弱り、文章も書けなくな
いくつかの引用をしておきたい。
自らの啄木の評価について詳しく論じている。 ここでは、
15
の啄木論はあり得ない。 」 (同226頁)
意識によって分析することを抜きにして、70年代以降
に、しかし深いところで受けとめた啄木を、現代の問題
代の曙光を見た啄木・・・こういう多くの日本人が素朴
木、体力つき果てた晩年、なおかつ市電ストライキに時
に反し、 「肩尖らせて」 、働くものの「手」をうたった啄
道をさまよった啄木、 「わが文学」 を築こうとしてこと志
骨」精神をもて余しながら、家族と別れて「単身」北海
員を自負して子供の心をとらえた啄木、内に燃える「反
「鉱毒事件に敏感に反応する少年啄木、日本一の代用教
てはならぬ道筋なのである。 」 (同223頁)
想こそが現代において、科学的社会主義が踏みしめなく
が辿り着いた境地であったことがわかる。そしてこの思
田中氏は、 「論考」上梓後38年の今年、 「新日本歌人」
との関わりでー」 においても、 繰り返し強調しています。
誌4月号に発表した評論「現代に息づく啄木―時代閉塞
「啄木は、足尾銅山鉱毒事件、農村、教育問題、軍備
閉塞打破のための目標は、生きる権利の保障と民主主義
るという認識に到達した。そして日本の現実からして、
ものが、実は「官力」 「金力」 (国家権力と大資本)であ
な思考を続けた。その結果彼は、時代閉塞を作っている
ぞれの時期での体験にもとづき、民衆の側の視点で自由
拡張のための増税問題、北海道の実情など、生涯のそれ
学的社会主義であるという結論に辿り着いたのである。
の実現でなければならず、その実現の役割を担うのが科
啄木はつとに、 御用学者が説く 「文明」 の意義を疑い、
民衆のくらしをおびやかす上からの近代化を拒絶した。
啄木の暮らし方には、ある面での野ほうずさ、金銭面
○水野昌雄氏の論考からー啄木の「感傷」 「弱さ」に
さしく現代に息づいているのだ」
とする者へは、わが事のように響くのである。啄木はま
性を帯びており、その提起が今の時代を真剣に生きよう
であった。啄木の問題提起は常に現実性、具体性、実践
のは、ひたむきな真実追及の姿勢と、ごまかさない態度
啄木が見えて来ない恐れがある。その短い生涯を貫くも
ない。が、余りにもそこに目を奪われ過ぎると、肝腎の
らさまざまな啄木像が生まれてくるのは不可避かもしれ
でルーズな所、後先見ずの突飛な行動があった。そこか
水野昌雄氏が、46年前の1970年に上梓した『リ
ついてほか
である」 (同書3頁)
「わたしの啄木は民衆そのものに化している啄木のこと
かれている。いくつかの引用をすると、
アリズム短歌論』 (短歌新聞社) は啄木論に多くの頁が割
16
のは人間の権利である』 (同書23頁)
念を忘れたくない。安楽(ウェルビイング)を要求する
かは我々の手によって一切消滅する時代の来るといふ信
『 (略) 私は現代文明の全局面に現れている矛盾が、 何時
したい。 」として、
慕」 (明治43) において次のようにのべているのに注目
「わたしは啄木における感傷を考えるとき、 「田園の思
続いて、水野氏は記す、
これから始まるのである」 (同書25頁)
そして、こうした啄木方法論をもとにしたわが啄木論は
「啄木の魅力は、 わたしにとってまさしく今日的である。
るまいか。 」 (同書24頁)
たなら、こういう場合にこそ用いられるべきなのではあ
たりえているのである。人間性ということばを使うとし
しかし、啄木においては、それらがひとつの人間の権利
問題なら啄木以外にもさがすのに苦労しないであろう。
ない理由をここに見ることができる。弱さや甘さだけの
「啄木の短歌における弱さが、弱さそのものにとどまら
同書において、水野氏は 「啄木における短歌の 『弱さ』
ている存在となっていることだけはまちがいない。 (略)
「啄木が人生の哀歓を知り始める世代に素朴に親しまれ
粋する。
について」とする項目をたてて論じている。いくつか抜
うな受け入れ方を獲得している
近代短歌で、いや、日本の短歌全体のなかでも、このよ
のは啄木以外には見当た
8~39頁)
らないといっていい。 ここに啄木の特色がある」 (同書3
水野氏は、 続いて、 「啄木のポピュラリティを問題にし
すものであると考える。 」を引用している。
あり、従ってまた彼のポピュラリティの最大の要因を成
り、 (略) これこそ啄木の芸術の最もハッキリした特性で
いものがある。それが、 (略)いわば「将来性」なのであ
の類い稀なる人間的誠実さというだけでは説明のつかな
をあげ、岡邦雄が「啄木のポピュラリティには、単に彼
てまとめたものに岡邦雄の『若き石川啄木』 (文理書院)
水野氏は「将来性」に関して「啄木の特色として、そ
は、正しいことだと思う」としている。
の政治的関心の高さや、思想的に一歩先んじていたこと
また、終戦直後の第2芸術論にかかわった詩人・小野
十三郎の啄木論( 『日本文学講座』日本詩歌) )について
歌は私たちに示している」
の方向に向わしめる契機があるということを、啄木の詩
うこと、その弱さの中にも、私たちを強い正しい生き方
かぎり、それは決して弱さに終始するものではないとい
つぎの引用を行っている。 「弱さははっきりと意識された
啄木生誕130年の今年、水野氏は評論「短歌と時代
17
さに怒りの組織化である。 」
ではなく、 「組織的考察」 が必要だとしたものである。 ま
ればならぬ時期に到達している」と。そして盲目的反抗
要かを言っている。 「遂にその 『敵』の存在を意識しなけ
「啄木は『この自滅の状態から脱出するために』何が必
閉塞の問題」 ( 「短詩形文学」8月号)に述べている。
また水野氏は「もう一度じっくり『時代閉塞の現状』
を読むことだ」とも述べている。
付言すれば水野氏は同評論でリアリズムについて、 「短
としても、よく考えねばと思う。
なのである」と論じている。短歌の作者としても鑑賞者
か。想像力は妄想力ではない。リアリズムとしてのもの
ズム的な虚飾を伴う奇抜さになるのも見て来たではない
か。また真実を追求することのない想像力では、モダニ
葉あそびに過ぎなくなるのは日頃見ていることではない
通俗・卑俗・平板な日常報告に過ぎないものであり、言
れない。しかし想像力のない現実のあるがままは単なる
のであるが、そうした課題に当惑する向きもあるかも知
うことは現代社会の疎外化された人間の回復のためのも
う。 (略) 真実を追求することが想像力を必要とするとい
真実を追求する想像力を働かせるということになるだろ
歌作者の立場から言えば、あるがままの現実ではなく、
○碓田のぼる著『石川啄木と「大逆事件」 』 (1990
碓田のぼる氏は啄木について、 多くの著作があります。
年新日本出版)より
ます。
ここでは、同氏著『石川啄木と「大逆事件」 』から引用し
*大逆事件の衝撃が思想と短歌の叙情の発展の契機に
な特徴であり、誠実さの証であった(略) 。
螺旋状的な上昇発展こそ、啄木がもつ、きわめて人間的
このジグザグで、しかもあざやかな軌跡をえがいていく
「啄木の思想の発展は、 一路平坦な道ではなかった (略)
のちに、 『大逆事件』 を経過した啄木は、 日露戦争を回
「一九一〇年(明治四十三年)九月九日の夜、啄木の心
ない」 (同書65頁)
予見の一語に、私たちは深い関心をはらわずにはいられ
ている。この天才の脳裏に映じた、日本の前途に対する
に日米戦争の為に準備せられてゐる』という一文を記し
歳月が流れていた。啄木は『八年!今や日本の海軍は更
として、満腔の共感を示したのである。ここまで8年の
下に苦しい戦ひを続けてゐた』 (日露戦争論) のであった
『ひとり非戦論の孤塁を守って、厳酷なる当局の圧迫の
めて非難したところの明治社会主義者の一団は、実は、
顧して書いている。かつて、啄木自身が、あの侮蔑をこ
18
つけた。その中から五首あげる。
は、 『九月九日夜』として、三十九首の歌をしっかり書き
途に対する思いが、激しく、強くわいてきた。 (略)啄木
きあげた充実感の中で、日本の現状と、そのはるかな前
には、 『大逆事件』への思いと、 『時代閉塞の現状』を書
このように、 (略) 五首の歌全体を通じて言えることは、

明治四十三年の秋わが心ことに真面目になりて悲し

地図の上朝鮮国にくろぐろと墨をぬりつつ秋風を聴
思ふかな
時代閉塞の現状を如何にせむ秋に入りてことに斯く

秋の風我等明治の青年の危機をかなしむ顔撫でて吹
れリけり
つね日頃好みて言いし革命の語をつつしみて秋に入
いる。 (略)
あの『明星』調の、甘い、軽薄なリズム感を打ち破って
しているリズムは、啄木に長い間まつわり続けてきた、
合わせている、ということである。これらの作品に内包
の植民地化に苦悶する朝鮮民族の慟哭とをしっかり重ね
な批判精神と、するどい洞察力が、日本の現実と、日本
『大逆事件』の衝撃にとぎすまされてきた、啄木の旺盛
これらの作品群は、日本の伝統的短歌に呪縛のように
のであった。
ところの、質的にあらたな叙情の世界への発展を示すも
歴史的、社会的な視野への展開と、その中で獲得された
まつわりついてきた、 内ごもるひよわな詠嘆をのりこえ、
啄木は『九月九日夜』のほとんど三十六首を、 『九月九
ったであったに違いない」 (同書95~99頁)
の砂』から除いた時の啄木の心境は、 (略)痛切な思いだ
ほかに三首を除いて発行された。 (略)八首の歌を『一握
に送った。歌集『一握の砂』にはそのうち前述の五首と
日夜の不平』と題して、牧水主宰の雑誌『創作』十月号
大逆事件の前年1909年3月、東京朝日新聞社の校
だった。
日記。10月妻節子の突然の家出にショックを受けた年
生活苦にあえぐ。4月3日より6月16日までローマ字
正係に就職し、6月家族を東京に呼び寄せ、ますますの
此の年十一月、啄木は評論「弓町ゆみちょう( よりー)
食くら( ふべき詩」を書いた。その中で啄木は「色々の)
(略)そうして此現在の心持は、新しい詩の真
いふ言葉を心の底から言はねばならぬようになった。
事件が相ついで起こった。 『遂にドン底に落ちた。 』斯う
まこと( )
の精神を、 初めて私に味はせた。 」 と、 「新しい詩の真ま(
ことの精神」について次のような有名な一文を記した。)
19
「食くら( ふべき詩の謂う心は、両足を地面) じべた( に)
然くわれわれに「必要」な詩といふ事である」
は御馳走ではなく、我々の日常の食事の香の物の如く、
間隔なき心持を以って歌ふ詩といふ事である。珍味乃至
喰つ付けてゐて歌ふ詩という事である。実人生と何等の
碓田氏は、 前掲書において啄木は 「 (天才意識の主張か
年ほど前の啄木の思想展開であった。
に示されている。 」 と論じている。 大逆事件が惹起する半
たのである。啄木の思想の転換が、ここには実にリアル
張したのであった。天上の詩人は、地上の人間に変わっ
強調。また啄木は「徹頭徹尾、生活者としての人間を主
ら離れ)詩人といふ特殊なる人間の否定」をしたことを
私も、この啄木の詩歌論は短歌をも含む現代詩の精神
(民主的短歌運動は啄木短歌の位置づけを一層明確
ています。
論を決定的に深めたリアリズム宣言に他ならないと考え
を宣言したものであると確信しており、正岡子規の写生
このように見てくると、啄木について「弱さ、嘆き、
にすることが求められているのではないか)
間的に問題があるからあまり評価できない」などのかつ
感傷が強い」 「わかりやすいが技術的に下手である」 「人
ょうか。
啄木の評価を低める論調を上回っているということでし
るという事実は、国民が愛好してきた啄木短歌の力が、
歌人が、とりわけ若い歌人たちを含め啄木に共感してい
っての『現代短歌』誌の特集に見るように、多くの専門
ら、資料(2)にあるように、啄木生誕130年に当た
のギャップを生んだことを残念に思います。しかしなが
ことが近代歌人、歌壇における啄木評価と国民的評価と
評価としてはすこし浅いのではないかと考えます。その
成果に照らせば、特に歴史的、社会的背景における啄木
短歌運動等における見方は、その後の膨大な啄木研究の
ての歌壇やその影響を受けたと考えられるプロレタリア
田中礼氏は、 『啄木とその周辺』のなかで、
う。 」
は、啄木は日本の文学者のなかでは稀有の存在であろ
「社会意識と詩的形象とを見事に融合させたという点で
ろう。 」
無視するならば、啄木のまことの姿は見えてこないであ
と病苦の中で壮絶な思想形成を成し遂げていった過程を
滅者的な意識が濃密に漂っていた。けれども失意と貧困
「たしかにある時期、啄木の内面には、放浪者的な、破
改めて考えると、 『一握の砂』 が発行されたのは191
と述べている。
20
たと言ってもよい現代短歌の創始者であることについて、
リズムの表現でもっておこない現代短歌の流れをつくっ
26歳の青年啄木が、短歌史上初めて、生活の歌をリア
る貧困生活と家族を支える責任、死に至る病苦にあえぐ
新聞に雇われた漱石の月給は200円)の借金をかかえ
夜勤手当1日1円でした。ちなみに、小説家として朝日
もある。 朝日新聞校正係として働く啄木の月給は25円、
換算すると、およそ1372万円に相当するという見解
が亡くなったときの借金1372円(現在の貨幣価値に
おいて作られているのは明らかであると考えます。啄木
き、 「明治の青年に覚醒とたたかいを呼びかける」 精神に
えれば、 啄木の短歌が、 「国家こそ敵である」 ことを見抜
た歌が『一握の砂』の多くを占めているということを考
大逆事件発表から『一握の砂』発行まで半年間に作られ
察が十分されていないのではないかと思います。さらに
啄木の弱点としてことさら論じる評者には、この点の考
民主主義の立場に立っていたことが今では明らかですが、
り、8月には、 「時代閉塞の現状」 を書き先駆的な自由と
いた啄木が事件について、より知りえたという環境にあ
烈に弾圧された歴史的瞬間にあたる時でした。新聞社に
須賀子らが処刑されるという、自由と民主主義が最も苛
報道され、翌年1月23日、24日に、幸徳秋水、菅野
0年12月1日でした。大逆事件がその年の6月5日に
(民主的短歌運動が、遅れを取ってはならない)
を欠いているのではないか、と考えてしまいます。
かつての多くの専門歌人の啄木観は肝心なところで理解
近藤典彦氏は「新日本歌人協会誌」9月号で「啄木短
ると」
歌の精髄は「生活者」としての「我」をうたった点にあ
「最近ようやく腑に落ちたのがつぎの結論です。啄木短
歌の精髄」と題し次のように述べています。
また「啄木はスローガンやそれに類した事柄はうたわ
たう。 これが啄木短歌の真髄です」 とも記されています。
ないのです。 「生活者・我」の心に浮かんだ「感じ」をう
この点に関し、 田中氏は同じく前掲誌9月号に 「 『新日
検討課題である)と問題提起が行われています。
であり、短歌の結社の功罪ということも、今後の大切な
想と表現」というのは、古今東西の文学が抱える大問題
という総括は、胸を突くものがある。 「政治と文学」 「思
る言葉を十分に創造することができなかった」 (79頁)
が行われているが、 その中の、 「政治を文学として表現す
本歌人協会六十年史(77~9頁』でも示唆に富む分析
近藤氏、田中氏の提起は、民主的短歌運動における作
歌論として、今後、大いに議論もし、投稿歌、選歌、鑑
21
賞にかかわる問題として考えようではありませんか。
ところで、 新日本歌人協会が、その規約において、 「万
ぎでしょうか。 真剣な検討が求められていると感じます。
偏し、かつ類型的といわれる一つの原因と言えば言いす
新日本歌人に歌われている短歌について多分に政治詠に
ないのではと感じているのは誤解でしょうか。 この点で、
ことについてもう一つ積極的に啄木が位置づけられてい
そ啄木を源流とする民衆短歌、生活短歌の系譜に属する
葉集以来の」と自らの立場を規定していますが、協会こ
一方、 8月に開催された新日本歌人協会の総会では 「啄
(ドナルド・キーン氏啄木を語る)
ます。
ら学ぶことが推奨され、その呼びかけに応えねばと思い
木コンクールにもっと投稿を」と呼びかけられ、啄木か
咋年五月、新潟県柏崎市のドナルド・キーン文学記念
十分)
インターネットでもスマホでも聞くことができます。 (約
にカルチャーショックを受けました。キーン氏の話は、
館を訪れ、DVDでキーン氏が啄木について語ったこと
ドナルド・キーン氏は次のように語っています。
「やっと好きな作家を見つけました。それは石川啄木で
0月号十六章完結まで連載)
者注、文芸誌「新潮」2014年6月号~2015年1
す。 つぎの評伝をよろこんで書こうと思っています。 (筆
す。啄木の日記をよみましたりすると実に面白い人物で
彼はもし生き残ったらどんなにすばらしい作家になっ
います。
たかと思うと(夭折は)つらくて大変な悲劇だったと思
自分の日常生活を赤裸々な形で、ときにローマ字日記
とを非常に残念に思っています。
いうこともある。面白い人物でしたが、会えなかったこ
てからすぐ1秒のちにはもう興味がなくなったとかそう
に、見たことのない女性に恋文を書いたとか、写真を見
昭和31年です。 『ローマ字日記』 が始めて活字になっ
「 ( 『ローマ字日記』には)今朝書いておいたことはウソ
たのは『ローマ字日記』です。
した。鴎外よりも漱石よりも一葉よりも一番反応があっ
中の一部の翻訳にもかかわらず、一番反応のある作品で
読んであまりにすばらしいから翻訳をしました。日記の
に電話をかけ本を送るようにしていただきました。私は
かと言い、私は聞いたこともないというとすぐ岩波書店
ました。桑原先生は『ローマ字日記』をみたことがある
文学選集を編集しており啄木の短歌をいれようとしてい
たとき、京大の桑原先生のお宅を訪ねました。私は日本
22
記にも非常に面白く刺激を受けました。
歌人でしたが、それだけでなく、ローマ字日記、他の日
現代人と言えるでしょう。私にとって啄木は魅力のある
読んでもわかります。ある意味で、大きな意味で最初の
びです。だから百年も前の人が書いたことが現在の人が
西鶴、近松、芭蕉にもない。これは現代人の心からの叫
学で初めてこの表現がでたでしょう。 紀貫之、 兼好法師、
なんの目的もなく」と書いていますが、おそらく日本文
「 (ローマ字日記には)予は、予の心になんの自信なく、
くない。
ると我々の時代と代わらない。今の人が書いてもおかし
は子規には近代人という言葉を使いたいです。啄木とな
彼も古い詩人ではなく、革命的な存在ですが、しかし私
が書いたことはいつも正しいと考えていました。 しかし、
現代人だということです。正岡子規は、間違えても自分
だ。少なくとも余にとっての第一義ではない」―これは
啄木の小説はすばらしいものもあるが全体として成功
い!タバコにうえた」と書いています。 『ローマ字日記』
ていっても、予のうまくあてはまるアナがみつからな
ます。 「あてはまらぬ、 無用なカギ!それだ!どこへもっ
た。5月13日のローマ字日記には、自分を分析してい
はなかったのです。啄木の才能は詩人としての才能でし
しなかった。いろいろ構想してゆっくり作品を書く才能
ます。
日本人が誇りに思う人です。特別の人です」と結んでい
は本当の日記です。このすばらしい作品を書いたことは
私がカルチャーショックを受けたのは「子規は近代人
す。
を感じ、両氏の見解を更に深めるのではないかと考えま
いうのは、先述した山田あきや釈超空の論考との共通性
ーン氏のいう全く現代人とかわらぬ作品を書いていると
ていた」などを作品にすることはありませんでした。キ
重要な一人ですが、キーン氏のいうように「ウソをつい
の短歌を否定し、新しい短歌を提唱した短歌改革の最も
れと主張し、写生の説を述べて、王侯貴族や権力者中心
思議のない作品です。子規は、短歌について、万葉に戻
木は、私たちがそのまま読んでも、今の人が書いても不
だが、啄木は現代人」だと指摘した言葉です。成程、啄
啄木は、何よりも百年前のその作品が多くの国民に我
うな存在といえるでしょう。
れるゆえんと考えられます。小説作家で言えば漱石のよ
がことのように歌われ続けていることこそ現代人といわ
さて、キーン氏は『新潮』に連載した「啄木」の完結
れは人間が変化を求めるときである。地下鉄の中でゲー
「啄木の絶大な人気が復活する機会があるとしたら、そ
章で次のように書いています。
23
(おわりに)
て忘れがたい人物となる」
はあっても常に我々を夢中にさせ、ついには我々にとっ
きだして見せるのは一人の非凡な人物で、時に破廉恥で
単なる暇つぶしとは違う。これらの作品が我々の前に描
啄木の歌、啄木の批評、そして啄木の日記を読むことは
てるようになるだろう。 (略) 啄木の詩歌は時に難解だが、
な音楽、豊かさや啄木の詩歌の人間性へと人々を駆り立
ムの数々にふける退屈で無意味な行為は、いつしか偉大
今回の論考は、田中礼氏がいうところの「現代短歌が
ごく一部を読んだりいろんな声を聞いてのレポートです。
えるために、何千とある啄木についての論考、研究書の
変化をもとめるときである」という命題を自分なりに考
な人気が復活するときがあったとしたら、それは人間が
は現代人であり子規は近代人である」また「啄木の絶大
とができること」を考える上で、またキーン氏の「啄木
『一握の砂』を継承するものと言う一点でむすびつくこ
思うに、日本の近代化、産業革命は欧米に比べ100
工業が発展し始めた明治後期に自由と民主主義の国民意
のではないでしょうか。そして、資本主義が本格化し、
年以上遅れて出発しています。子規にはその反映がある
ことはキーン氏が言うように誇るべき大事と思います。
者が現れたのではと考えます。わが民族が啄木を持った
識が成長できる環境のもと、啄木のような現代人の先駆
啄木は、27年の短い人生の中で人間の真実について
すべきと考えます。
主義の立場に確固としてたった先駆性、先見性こそ特筆
ことを呼びかけるにいたったこと、そして、自由と民主
した「敵は国家だ」と述べて、明治の青年に立ちあがる
マとする明治国家の弾圧政治のもとで啄木が最後に到達
「探求の連続」 (山田あき) であったこと、 大逆事件をヤ
啄木は、我々日本人にとって、現在そして、おそらく

思いが伝わればうれしく思います。

ーー

以上です。

 

 

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