関東大震災と渡辺政之輔
土井洋彦さんのFacebookから紹介します。
関東大震災から100年 学ばねばならないことは多いです。
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●『戦前の日本共産党と渡辺政之輔』(治安維持法国家賠償要求同盟千葉県本部、2019年)「Ⅳ 関東大震災と渡辺政之輔」から
さて、第1次弾圧で渡辺政之輔(渡政)らが獄につながれていた1923年(大正12)9月1日、東京と首都圏をマグニチュード7・9の大地震が襲いました。関東大震災です。大地震とそれに続く火災の発生による未曾有の混乱のなかで、翌日あたりから市民の間に「鮮人が暴動を起こした(当時多くの国民は朝鮮の人々のことを蔑称で〝鮮人〟と呼んでいた)」「井戸に毒を入れた」などというデマが飛び交うようになります。
これは、警察や軍隊を使って、彼らが意図的に、公式に流したのです。千葉県船橋の無線局から全国に流したと言われています。そして、地域ごとに自警団と言われる組織、あるいは暴徒によって、多数の朝鮮人や中国人が殺されました。その数は6000人以上と言われています。
それに続いて9月3日から4日、東京東部の南葛地域で活動していた労働者ら20代の若者を中心に10人が亀戸警察署の特高によって連行され、4日から5日未明にかけてと言われていますが、亀戸署を警備していた軍隊によって虐殺される事件が起きました。いわゆる「亀戸事件」です。ここに派遣されていたのは、習志野にいた陸軍の騎兵連隊でした。このなかには、渡政と南葛労働会で一緒に活動していた川合義虎も犠牲者に含まれていました。彼はその年の4月に結成された日本共産青年同盟(共青)、現在の日本民主青年同盟の前進ですが、その初代委員長でした。
さらに9月16日には、陸軍の憲兵大尉だった甘粕正彦という軍人が無政府主義者の大杉栄と伊藤野枝の夫妻、そして7歳の甥っ子の橘宗一という子どもを殺し、憲兵隊の井戸の中に投げ込んでいたという事件も起きています。まさに国家的テロ行為だったわけです。
渡政は、家は亀戸にあったのですが、幸か不幸か市ヶ谷刑務所に投獄されていたために、この「亀戸事件」では、虐殺からは免れました。ただし当時、市ヶ谷の刑務所でも、実は軍隊が、投獄されていた運動家を引き渡せという要求をして押しかけ、押し問答があったようです。当時の刑務所長はそれを断ったのです。もし、所長が軍の要求を受け入れていれば、当時の共産党の幹部の人たちも殺されていた可能性は否定できないと思います。「亀戸事件」については、加藤文三氏が『亀戸事件』(大月書店)という本を1991年に書かれています。また、川合義虎についても加藤さんが1988年に『川合義虎』(新日本出版社)という本を書かれていますので、詳しくはそれらを参照してください。
関東大震災では首都圏を中心に10万5000人以上の死者・行方不明者が出ています。東京府が7万人余り、神奈川県が3万人余りで、この2府県が圧倒的に多いのが特徴です。ちょうど昼時で火災が発生したので、この2県の被害が非常に多かったのですが、千葉県では1346人の死者・行方不明者が出たと言われています。
私は最近『千葉県の歴史』という本を読んでみて知ったのですが、県内では、地震の被害は、安房、特に内房の地域、館山などの一番地盤の柔らかい地勢での住宅全壊が一番ひどかったようです。同時に、千葉県内でも朝鮮人虐殺事件が頻発しました。この『千葉県の歴史』、これは千葉県が出した県の歴史ですけれども、その記述を抜粋してあります。9月3日に現在の松戸市の馬橋停車場付近で朝鮮人の男性6人が殺害されています。特に船橋は虐殺事件が多発したということです。現在の東武野田線、北総鉄道の工事に従事していた朝鮮人労働者が九日市、現在の船橋駅北口付近ですが、ここで発生した事件によって、政府の調査でも38名が殺されるという事件もあったと言われています。
同時に、千葉県にいた軍隊もこの虐殺にいろいろ関わっていたということで、「習志野騎兵第14連隊と市川町の野戦重砲兵第1連隊の将兵は、9月3日に東京府南葛飾郡大島町(江東区)で、約200人の朝鮮人(中国人との見方もある)を殺害しているし、習志野騎兵第13連隊の将兵は、5日に亀戸警察署内で労働運動家の平沢計七・川合義虎らを殺害した(亀戸事件)」ということが『千葉県の歴史』に書かれています。
後に作家・俳人となる越中谷利一という方の回想記を載せておきました。この方は日大の夜間部に入って、当時から社会主義運動に関心を持っていた方だそうですが、1921年に習志野の騎兵連隊に入隊していました。関東大震災の時には22歳です。その後、プロレタリア文学運動に参加して『戦旗』という日本プロレタリア作家同盟の機関紙の1928年9月号、震災から5年経ったときの「震災追想記」という欄に「戒厳令と兵卒」という回想を書いています。
「そして亀戸に到着したのが午後の二時頃、おお、満目凄惨! 亀戸駅付近は罹災民でハンランする洪水のようであった。と、直ちに活動の手始めとして先ず列車改め、と云うのが行われた。数名の将校が抜剣して発車間際の列車の内外を調べるのである。と、機関車に積まれてある石炭の上に蠅のように群がりたかった中から果して一名の朝鮮人が引摺り下ろされた。憐むべし、数千の避難民環視の中で、安寧秩序の名の下に、逃がれようとするのを背後から〔白刃と銃剣下に次々と〕仆れたのである。と、避難民の中から、思わず湧き起る嵐のような万歳歓喜の声。(国賊!〔朝鮮人はみな殺しにしろ!〕)」
こういうことを紹介しています。彼はそういう場所に居合わせましたが、いわゆる「亀戸事件」は、当時は知らなかったというふうに言っています。越中谷という人は、習志野騎兵連隊の一員として、この亀戸地域に出動して朝鮮人虐殺の現場に立ち会った。こういう異常な雰囲気のなかで、軍隊や警察が、朝鮮人、中国人、そして社会主義者弾圧の先頭にたったのです。民衆もテロに加わったという歴史は、決して忘れてはならないと思います。
その後、全国各地で「亀戸事件」の抗議集会が行われました。渡辺政之輔は、1924年2月17日、南葛労働会の仲間たちとともに東京の青山斎場、ここで亀戸事件犠牲者追悼会を営みました。これがわが国で最初の労働組合が主催する労働組合葬だったと言われています。
そして渡政は、この年『潮流』という雑誌に「社会運動犠牲者列伝」という連載企画が掲載されたときに、「亀戸事件」で殺された3人の追悼文を書いています。加藤高壽、山岸実司、近藤広造という3人ですが、この3つとも『著作集』に入っていまして、なかなか胸を打つ内容です。そのうちの「近藤広造君」の文章の一部を紹介します。
「野田の大争議の時であった。われわれは応援に行くことになったので、僕が近藤君を誘いに行った。君は耐えられないほどの腹痛で病床に横たわっていたが敢然一緒にいくから連れていけと跳起きてきた。病気だから無理をしては駄目だといったが、君はどうしても承知しなかった。ストライキを応援に行って倒れるのなら男子の本懐だ、といって、脂汗を流し、腹痛を耐え、とうとう野田まで、十三里の道を雨にうたれながら歩いていった」
このとき、南葛労働会のメンバーは20人規模で野田醤油の争議の支援に駆けつけていくという記録が残っています。野田では、1921年、日本労働総同盟の野田支部が結成され、1923年の春、3月から4月にかけて、2600人が参加するゼネラルストライキがおこなわれました。ここに渡政らも駆けつけました。
1970年代に、かつて共産党千葉県委員長も務めた小松七郎さんが書かれた『千葉県労働運動史』をみますと、南葛労働会の労働者20余人とともに野田に行き、さらに銚子に乗り込んで、ヤマサ、ヒゲタの労働者に働きかけ、千葉市で演説会を開くなどして争議を支援するため東奔西走したというふうに書かれています。
そして渡政は、それに続いて、関東大震災の時、彼は獄中にいたので、後で話を聞いたわけですが、近藤広造の活動について、こう書いています。
「殺される前日であった。鮮人を虐殺している現状を見るに見かねて、自警団に注意したために今少しで彼らに殺されそうになったという話がある。そういう場合、近藤君の気質としてどんな迫害があろうとたとえその場で殺されようと黙ってその暴虐を見ていられないのであった、そういう美しい精神をもっている人こそ、真の労働運動者であるのだ。そうだ近藤君こそ、本当の労働運動者であった。革命児近藤君は、とうてい畳の上で死ぬような人ではなかったのだ、コミュニスト近藤君の死所はヤハリ街頭であった」
なかなか烈々たる追悼文を書いています。渡辺政之輔と同じように近藤広造も朝鮮人差別を許さない立場にたっていて、そして目の前で起きている朝鮮人虐殺という暴虐に対して立ち向かった。これを渡政が「本当の労働運動者」として称えているわけですが、私たちもこういう先輩がいたということを誇りに思います。
関東大震災での朝鮮人虐殺問題は、今も歴史認識の重大な争点になっています。昨年と今年と(2017~18年)、従来、東京都知事が追悼文を送っていた、日朝協会が行っている墨田区横網町公園での関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式典に対して、小池百合子都知事が追悼文を送るのをやめるということがされました。これは本当に、民族差別を背景にした朝鮮人虐殺、加害の歴史を風化させる、忘れさせるということにつながるものです。
日本共産党都議団も厳しく抗議したわけですが、こういう意味でも、関東大震災の下で何が起きたか、それに対して共産党や労働運動の先輩たちがどう立ち向かったか、学び語り継いでいくというのは、今日的にもたいへん大事な課題だと思います。(以下略)
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