ご近所のミニ集会で啄木の話をしました。
少し加筆して紹介します。
啄木の歌と啄木に関する小話と啄木の詩を紹介します。
1.まず短歌です。
何となく
今年はよいことあるごとし
元旦の朝晴れて風なし
こころよく
我にはたらく仕事あれ
それをし遂げて死なんと思う
「労働者」「革命」などといふ言葉を
聞きおぼえたる
五歳の子かな。
やや遠きものに思ひし
テロリストの悲しき心も
近づく日のあり。
みぞれ降る
石狩の野の汽車に読みし
ツルゲエネフの物語かな
働けど 働けど 我が暮らし
楽にならざる
じっと手をみる
友がみな 我より偉く
想わるる日 花を買いきて
妻と親しむ
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2・啄木に関する小話です。
最初の元旦の歌は啄木が24歳の時に詠んだ歌です。
前年啄木は生まれたばかりの長男を亡くしました。
父も母も妻も不健康で自分も体の不調のため夜勤をやめ、
手元に残る金は僅かで一方借金は百倍以上という状況でした。
啄木はこの歌を作った翌年に亡くなっています。
そういう意味ではなかなか意味の深い歌です。
明治45年4月13日啄木は25歳の若さで肺結核でなくなります。
4月15日、浅草等光寺で葬儀、枕もとには家族三人と若山牧水がいたそうです。
葬儀には同じ朝日新聞の夏目漱石もいたそうです。
土岐善磨が生まれた寺であり、彼が葬儀の世話をしました。
啄木と哀果(善磨)は「樹木と果実」という雑誌を出そうとしていました。
若山牧水の歌集『死か芸術か』に啄木の死に詠んだ歌がある。
『初夏の曇りの底に桜咲き居りおとろえはてて君死ににけり』
『いたづらに窓に青樹の葉のみ揺れわれらが逢ふ日さびしくもあるかな』
百味充福
http://hyakumi.cocolog-nifty.com/blog/2005/11/post_8e1d.html
より
啄木24歳のこの元旦の歌の年の言葉にこういうのがある。
短歌は「手間隙がかからない・・日本人が待つ数少ない幸せの一つ」
この短歌の使い方は百年後の今の人間にも言えるだろう。
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20世紀に「新日本歌人」誌に掲載された私の私の一首という短い文章です。
啄木の歌を取り上げていますので少し気恥ずかしいですが紹介します。
私の一首
やわらかに積もれる雪に熱てる頬を埋むるごとき恋してみたし
この歌にははちみつレモンの味がある。
私はこの歌を読むと新婚旅行で行った啄木を追う旅の途中の北海道の雪の湖を思い出す。
失恋と共に私の啄木体験は始まり、短歌という形の叙情性と記録性は結婚によって深まった。
失恋には啄木がよく似合う、失恋をした人は啄木を読むといい。
啄木が取り持つ事によって私たちの結婚生活はスタートした。
新婚生活を始める人にも啄木をお勧めする。
小林多喜二が田口タキに送った啄木歌集が発見されその内63首に多喜二によってチェックが付けられていたと天野仁さんの話を聞いた。
啄木を借りた多喜二のタキへの深い思いを感じる。
啄木は私の短歌の原点でありこの歌は私の結婚生活の原点でもある。
大津留公彦
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啄木の歌を小林多喜二がタキさんに送ったことはこの手紙出ています。
我が新日本歌人協会が主催した昨年2008年の大阪での啄木祭でも紹介されていいます。
未来と言うブログから紹介します。
小林多喜二が「石川啄木」のこと書いていますね。紹介します。♪
1927年2月15日 田口瀧子 あて
「啄木の歌にはいいものは非常にいいが、飛んでもなく変なものもある。それで、僕が一番すうと読んでみて、これならばと思われるのを選んでみた。
歌の肩に印をつけているのがそうだ。印のした歌くらいは暗記をしていなければならない。
寝る前に二つ三つ覚え、次の日仕事をしながら、一生懸命暗記するのだ。そうして覚え、時々口ずさんでみると歌の味いが、丁度スルメ(?)をかみしめるように、
出てくるものだ。意味の分らないことがあったら、手紙に書いてよこせば、書いてやる。」・・中略「出来たら手紙に書いて寄こせ、そうすれば、直してあげるから。
歌人ではないが、もとこれでも作ったことがあり、(後述)又煎じつめれば歌も小説も同じことだから。啄木の歌を手本にして、作ってみればいいよ。
始めは啄木のものを真似をしていいから。では。 それから手紙が又来ないのでがっかりしている。」♪
未来 小林多喜二と石川啄木 より引用
http://f-mirai.at.webry.info/200803/article_53.html
なんとこの手紙は今日からちょうど82年前の今日に書かれています。
「書いてやる」などと炊きに強圧的だが、言いたいことは「手紙が又来ないのでがっかりしている」だったのだろう。
3.最後に啄木の<墓碑銘>という詩を紹介します。
啄木が「一個の唯物論者」として「われには何時にても起つことを得る準備あり。」と人生の最後に自らの<墓碑銘>として書いたのだと思います。
<墓碑銘>
われは常にかれを尊敬せりき
しかして今も猶尊敬す──かの郊外の墓地の栗の木の下に
かれを葬りて、すでにふた月を経たれど。
実に、われらの会合の席に彼を見ずなりてより
すでにふた月は過ぎ去りたり。
かれは議論家にてはなかりしど
なくてかなはぬ一人なりしが。
或る時、彼の語りけるは
「同志よ、われの無言をとがむることなかれ。
われは議論すること能はず
されど、我には何時にても起つことを得る準備あり。」
「かれの眼は常に論者の怯懦を叱責す。」
同志の一人はかくかれを評しき。
然り、われもまた度度しかく感じたりき。
しかして、今や再びその眼より正義の叱責をうくることなし。
かれは労働者──一個の機械職工なりき。
かれは常に熱心に、且つ快活に働き
暇あれば同志と語り、またよく読書したり。
かれは煙草も酒も用ゐざりき。
かれの真摯にして不屈、且つ思慮深き性格は
かのジュラの山地のバクウニンが友を忍ばしめたり。
かれは烈しき熱に冒されて、病の床に横はりつつ
なほよく死にいたるまで譫言を口にせざりき。
「今日は五月一日なり、われらの日なり。」
これかれのわれに遺したる最後の言葉なり。
この日の朝(あした)、われはかれの病を見舞ひ
その日の夕(ゆふべ)。かれは遂に永き眠りに入れり。
ああ、かの広き額と、鉄槌のごとき腕と
しかして、また、かの生を恐れざりしごとく
死を恐れざりし、常に直視する眼と
眼(まなこ)つぶれば今も猶わが前にあり。
彼の遺骸は、一個の唯物論者として
かの栗の木の下に葬られたり。
われら同志の撰びたる墓碑銘は左の如し
「われには何時にても起つことを得る準備あり。」
1911年6月16日の作
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君は起つ準備はあるか?
今日はこんな所です。
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