私の安倍首相とコムスンの折口会長の関係という記事を引用頂きコメントし合っていた、『toxandoria の日記、アートと社会』の2007-05-20 レオナルド・ダ・ヴィンチ、モネ、ドレスデンの光という記事をトラックバック頂いた。
この記事には参った。かささぎというモネの絵の評価だ。
「苛烈化し、中間層が没落しつつある現代のグローバル市場原理主義社会が見捨ててきた何かがある」という指摘には度肝を抜かれた。
こういう絵の見方もあるのかと思った。
真っ白な雪景色の中の門にただ黒いカササギがぽつんといる絵なのだが空や雪の白もいろんな色が表現されており光と影が鮮明で光の方向がわかる。
「かささぎは絵画のマニフェスト」とモネ回顧展で買ったカタログに描いていた。
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以下引用です。
『モネ展/印象派から現代へ』(国立新美術館)、公式HP → http://www.nact.jp/
モネ『かささぎ』 Claudo Monet(1840-1926) 「The Magpiec」 1868-1869 Oil on canvas 89x130cm Musee d'Orsay 、 Paris

今回の展示は、フランスのオルセー美術館、アメリカのボストン美術館、メトロポリタン美術館ほか国内外の主要なコレクションから集められた約100点のモネの名作、およびモネの遺産である「モネの光」の影響を受けた作家たちの作品を集めたものです。コレクションを持たない国立新美術館は、国内最大級の展示スペース(14,000m2)を生かした多彩な展覧会の開催を目指すと謳っていますが、その割には展示スペースの狭さが少々気になりました。いささか商業ベースへ傾きすぎているように感じられました。
それはともかくとして、ここでもパリ・オルセー美術館いらいのモネとの再会(約5年ぶり)です。周知のとおりモネは印象派を代表する巨匠であり、彼の作品『印象・日の出』が印象派(印象主義)という言葉のもとになっています。自然界の凡ゆるモノに反映する一瞬の光をとらえようとした印象派の絵画の特徴を一口に言うならば、それは近・現代の産業化社会における、ある程度まで資産を持つようになった中産市民階層の人々へもっとも良くアピールする美的感性ということです。
『パラソルの婦人』、『ルーアン大聖堂』、『睡蓮』などの連作シリーズは見るごとに新鮮な印象を与えられ、モネの才能に改めて驚きますが、なぜか今回はこの『かささぎ』に目が止まりました。寒々とした冬の光景にもかかわらず、この静寂と懐かしいようで幸せな光は一体どこから来るのでしょうか? この温もりがあるモネの光は何なのでしょうか? この絵のテーマとされる“かささぎ”の向こうに広がる冬の遠景には、なぜか平穏な安堵感のようなものが広がっています。そこには、苛烈化し、中間層が没落しつつある現代のグローバル市場原理主義社会が見捨ててきた何かがあるように思われます。
以上引用終わり
セザンヌの名声セリフも残っている。
以下別引用
になっていることだろう。」
セザンヌは別のときに「モネには腕力がある」とも言っている。変化する自然の一瞬を、キャンバスにとらえる力が、モネは断然強いということだ。セザンヌは田舎に引きこもり、ひたすら自己の芸術を高めただけで、それが素晴らしい作品につながり、結果的に大勢の追従者が生まれることにもなった。モネは、自分こそが最先端を行っていることを意識して制作活動をしていた。
「見たままを描いただけ」とはどういうことか。実は「見たまま」を描いた画家など、存在しない。よく考えれば当たり前のことだ。たとえば建築とか音楽とか、その時代の様式というものがある。ある時代の形式とか習慣・常識と言い換えてもいい。キリンそっくりの教会を建てましたとか、滝の音そのままの音楽ですとか、そんなものないでしょう。写真には写真の、映画には映画の、油絵には油絵の様式というものがあるのです。どうして絵だけ、「本物そっくり!」「写真みたい!」なんて事を言われなくてはいけないのでしょうか。
写真には機械としての技術的制約もあり、写っているのは現実ではありません。正確に言うと、現実のある一部分がとらえられているだけです。もちろん日曜画家の作品などには、写真を映しただけのような絵があることは事実ですが、ふつう、一見写真のように見える絵でも、写真とは全く違います。「写真みたい!」ということを気にしている人は、恐らく、絵のことも写真のこともわかっていないのでしょう。
アート サモトラケのニケ より
引用終わり
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